風はまだ応えない
翌朝。
まだ森に薄い霧が残り、朝露に濡れた草木が光を反射してかすかに揺れているころ、フェリスはイグニスの切迫した声で目を覚ました。
「おい…!フェリス起きろッ!」
フェリスは目を閉じたまま不機嫌そうにする
「なに…?もう朝なの…?あと数分だけ寝かせて…」
「そんな場合じゃないんだ…!静かに体を起こせ…」
フェリスが目を擦りながら体を起こしてあたりを見渡す
「……………………….…!?」
そこに、それはいた。
全身を硬質な赤い鱗に覆われた巨大な「飛龍」だ。
朝の淡い光を受け、鱗は鋭く冷たく輝き、まるで森の空気そのものを凍らせるかのような威圧感を放っている。霧に包まれたその体は大きく、長い尾が地面を揺らすたび、微かな振動が足元に伝わった。周囲の空気が重く張りつめ、枝や落ち葉の微細な音まで消し去る
フェリスの喉が引きつる。冷たい空気が肺に流れ込み、吐く息が一瞬凍るような感覚。全身の毛穴が緊張で引き締まり、手のひらが湿る。
「な……」
声になりかけた瞬間、イグニスが素早く手で制した。
「目を離すな。ゆっくり後退する。刺激するな」
森は異様な静寂に包まれた。鳥も虫も、何も声を立てない。二人の息遣いと、巨大な飛龍の規則正しい呼吸だけが聞こえる。風が木々の間を抜け、枝を揺らす音さえ、圧倒的な存在感の前ではかき消されていた。二人は体勢を低くし、少しずつ距離を取る。
ーーその刹那
「ゔぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」
空が割れるようなその声は、まるで大地そのものが怒りをぶつけてきたかのようだ。風が巻き上がり、木々が揺れ、まるで世界がひっくり返るかのような震えが走る。龍の喉から響くその咆哮は、何もかもを吹き飛ばす力を持っていて、聞いた者はその場に立ち尽くし、全ての音が消え去るかのような錯覚に陥る。
フェリスとイグニスは苦痛に顔を歪める
「うっ…耳がッ…」
「クソっ…」
2人が怯んでる隙に飛竜は次の行動に出る。飛竜は突っ込みフェリスとイグニスの荷物を奪って飛び立つ
イグニスは焦燥に顔を歪める
「まずいッ!おい!フェリス後を追うぞッ!て…フェリス…?」
フェリスは口を半開きにしたまま、呆然と空を飛ぶ飛竜を見上げていた。
イグニスは苛立ちを滲ませながらフェリスの腕を強く引いた。
「フェリス! しっかりしろ!」
木片が弾け、車輪が宙を舞う。
「まずいッ!」
あれがなければ、旅は続けられない。
資金も、装備も、証明も。
全部、消えた。
イグニスがフェリスの腕を掴む。
「フェリス!」
反応がない。
「おい! 下向くな!」
強く引き寄せ、胸ぐらを掴む。
「まだ見えるだろうが!」
フェリスの瞳が、ゆっくりと焦点を結ぶ。
赤い影――遠ざかる巨体。その瞬間、世界は一瞬、音を忘れたように静まり返る。
飛竜が、わずかに首を傾けた。そして――こちらを見た。ほんの一瞬。だが、その金色の瞳は、フェリスの心を貫くには十分すぎるほど、鮮やかだった。
風が止まる。時間が伸びる。その瞳は、怒りでもなく、警戒でもない。まるで――確かめるかのような、慎重で、しかし揺るがぬ視線。
次の瞬間、飛竜は翼を大きく打ち、鋭い加速とともに霧の向こうへ姿を消す。イグニスは気づかない。
「走るぞ!まだ追える!」
だがフェリスは、空を見上げたまま、静かに呟く。「……なんで」
胸の奥が、ざわめいている。さっきの視線。あれは、獲物を見る目ではなかった。理解しようとしても、言葉にできない何かが、胸の奥で震えている。
風もまた、わずかに震えた。それは、何かが問いかけてくるかのような、確かな感覚。世界のすべてが、ほんのひととき、呼吸を止めた――そう、フェリスにはそう思えた。
フェリスは我に返り、風を纏い一気に上昇し飛竜に接近する。
「速い…!」
イグニスは飛行するフェリスに届くよう大声で叫ぶ
「フェリス!そのまま飛竜を追え!前にお前に位置がわかる魔道具を渡しただろ!お前が追えば馬車の位置もわかる!あとで合流しよう!」
フェリスは飛行しながら下を向き
「わかった!また後で!」
赤い影を追い、フェリスは風を纏って空を裂く。
高度を保つ飛竜は、やがて速度を落とし始めた。
岩肌の露出した断崖。
霧が薄く流れるその場所に、巨体が降り立つ。
砂礫が弾ける。
フェリスも距離を詰め、着地する。
呼吸を整える。
――集中。
乱れていた風が、ゆっくりと静まる。
指先の感覚が澄んでいく。
足裏から魔力を流す。
身体強化。
骨格に沿って、風を巡らせる。
出力を抑え、圧縮する。
刃に、乗せる。
風が、わずかに応えた。
昔ほどではない。
だが、確かに。
いける。
「……取ったッ!」
踏み込む。
地面が弾ける。
一閃。
完璧な軌道。
理想通りの加速。
刃が、赤い鱗に触れる。
次の瞬間。
パリンッ!!
甲高い破裂音。
手応えは、なかった。
「………あ」
視界に舞う白い破片。
粉々になった剣。
柄だけが、手に残る。
飛竜の鱗は、無傷。
金色の瞳が、静かにこちらを見下ろす。
怒りはない。
嘲りもない。
ただ――事実を告げる目。
届いていない。
その視線に、時間が止まる。
――昔なら。
幼い日の記憶が、脳裏を過る。
あの頃の風は、命令を待たなかった。意思よりも先に動き、思考より速く刃を運んだ。
踏み込めば、大地が砕けた。剣を振るえば、衝撃だけで森が裂けた。刃が触れる前に、空気そのものが悲鳴を上げた。
身体強化も出力制御も必要なかった。抑えるという概念すらなかった。流すだけでよかった。
風は壁を消し飛ばし、岩を削り、巨獣を叩き伏せた。
誰も並べなかった。誰も届かなかった。追いつこうとする背中すら、見えなかった。
畏怖。嫉妬。諦め。
向けられる視線は、いつもそれだった。
自分は疑わなかった。それが当然だと思っていた。
あの頃なら。
今の踏み込みで、終わっていた。
鱗ごと両断し、断崖ごと吹き飛ばし、空ごと裂いていた。一撃で、決着していた。
だが――現実は。
折れた刃。震える指先。軋む骨。空回りする魔力。
風は、重い。遅い。言うことを聞かない。
かつては呼吸だった力が、今は必死に絞り出すものになっている。
届かない。
あの領域には、もう
「……違う」
我に返る。その瞬間、飛竜の翼が音を立てて動いた。爆ぜるような衝撃が身体を貫く。何が起きたのか理解できぬまま、視界が逆さまになる。
「がっ――!」
身体が宙を舞い、背中から叩きつけられた。鈍い音が森に響き渡る。息が抜け、肺が空になる。地面に崩れ落ちるフェリスを、飛竜はただ見下ろす。追撃はない。まだ足りない、とでも言うかのように、じっと見つめるだけだ。風がかすかに揺れた。
――――――――――
「できるだけ早く、フェリスを追わないと……」
空を見上げるが、赤い影も、白い風も、もう見えない。舌打ちをしそうになるのを堪える。(無茶するなよ……)言ったところで、聞くやつじゃない。分かっている。
やがて地面の様子が変わった。
土が抉れ、岩肌が削れている。
明らかに戦闘の跡だ。
イグニスは足を止める。
静かすぎる。
鳥の声も、風のざわめきも消えたようだ。
一歩ずつ慎重に進む。
折れた幹の向こう、人影が見えた。
「フェリス…!」
駆け寄ると、フェリスは倒れていた。
剣は砕け、刃は地面に散乱している。
肩に手を置き、揺するが、反応はない。
嫌な想像が一瞬、胸をよぎる。
しかし、胸に手を当てると、呼吸がある。
浅いが、規則的だ。
「……はあ」小さく息を吐く。
周囲を見渡す。飛竜の姿も、追撃の痕跡もない。
(見逃されたのか……?)
あるいは――。考えかけて、イグニスは思考を打ち切った。今はどうでもいい。
フェリスの手には、まだ剣の柄が握られていた。無意識に、握ったままのようだ。イグニスはそれをそっと外し、脇に置く。
「真正面から行ったな……」
責める響きはなく、事実を確認するような声だ。
無傷の地面。
砕けた刃。
結果は明白だった。
イグニスはフェリスを背負う。思ったより軽い。歩き出す。森は静かだ。さっきより、風が弱まった気もする。気のせいかもしれない。
「……帰るぞ」
返事はない。
それでいい。
イグニスは振り返らない。




