大好きな姉が超絶スパダリだった話
マリ姉の小気味の良いミシンの音が響く。
コスプレイベントに参加するため、私はマリ姉のアパートで最後の追い込み中だった。
飾りボタンを取り付けるため、私は針をボタン穴に何度もくぐらせる。
部屋の隅に置かれたAMラジオはマリ姉が両親からもらった(奪い取った)ものだ。ローファイな音色でちょっと前のヒット曲が流れている。
曲が終わり、ラジオからは時報が流れた。ちょっと遅れて、柱にかけられたアナログ時計が低い音で「ボン」と鳴る。こっちはおじいちゃんとおばあちゃんが使っていた、私たちの生まれる前、昭和の電池式壁掛け時計。
毎時、うるさくはないが、だが確実に、締め切りが近づいていることを教えてくれる。大事なペースメーカーだ。
もう日付、変わっちゃったか……。
私は手を止め、ボタンをつけている衣装をじっと見つめた。
いま、一番推しているアニメ『酒豪魔女は魔力酔いで今日もケロケロしてても魔法をぶっ放します!』の主人公、魔法使いでボクっ娘エルフのリン・フェアリスちゃんの衣装。
私が着るリンちゃんの衣装はだいたい出来上がって、仕上げに入っている。
でも、マリ姉が着る、相棒のちょっと陰のある剣士、シャルム・ドラファス様の衣装は完成への道のりがまだちょっと遠い、そんな状況だった。
コスのイベントは明後日に迫っている。まだ、日付が変わったばかりなので、あと24時間。日付が変わってからも当日の早朝電車での移動開始時間までは4時間ぐらいあると見積もれば、28時間は使えると思うのだけれど……。結構ギリギリかも。
「ユリカ、手が止まってるよ」
「あ、ごめん。考え事してた」
「どうせ最終締め切りまでまだ24時間、戦える、なんて考えていたんだろう?」
「うん、そう。絶対イベント参加したいから、頑張って完成させようね!」
「そうだな」
「……だけどマリ姉、24時間じゃないよ。移動までの時間入れたら28時間は戦える!!」
「はいはい、でもそれって食事とか休憩とか、途中で気力をロストしてから原典アニメみて回復させるまでの時間とか、考慮してないだろ」
「あー。確かに。ポーズ確認するためにも本編見直したいところあるしね」
「小道具とかの忘れ物もないように確認ちゃんとするためにも、さっさと作業仕上げるよ」
「でもマリ姉、まだ完成まで相当時間かからない? 大丈夫?」
「ま、あたしの方はあと8時間あればおおかた、完成する見通しだから」
「さすが、ミシンの貴公子、マリ姉。半端ないっす、マジリスペクトっす」
私がふざけて言うと、マリ姉はテレながらうなずいた。
マリ姉は、私とは違って、本当に頭が良くて、なんでも軽々とこなしてしまう。昔から成績もいいし、運動もできるし、なにより美人。天は公平ではなく、二物以上、与えるのだ。
でも、そんなことを全然自慢しないし、みんなに優しい。そして、私には特に優しい!
最高の姉。絵に描いたような理想像。好きすぎる。
私のスパダリだ。
そんなマリ姉と、今年は推しアニメの主人公リンちゃん、相棒のシャルム様でコスができる。
なにこのシチュエーション。もう……死ねる。
しかし、死んでられるか!
これは何がなんでも衣装を完成させて、マリ姉とのコスを満喫するしかない!!
「それよりユリカの方こそ、作業大丈夫そう?」
「うん。頑張る」
「ユリカは丁寧だけど、ちょっと時間がかかりすぎるきらいがあるからね。まあ、こっちが片付いたら手伝うから、作業進めておいて」
「ありがとう!」
また、二人で黙々と作業に没頭した。
ラジオの音を聞きながら、マリ姉のミシンがそこに重なって、ボタン付けをしているとなんだか不思議な気分になってくる。
私はこの部屋で作業するときは、必ずラジオをつけてもらっていた。
電波のラジオが好き。もう数年で聞けなくなる、というのが感傷をかき立てているのかもしれないけれど、それだけじゃないと思う。
インターネットでも同じ番組が聴けるのは知っているけれど、なんでだろう、やっぱり電波のラジオの音が好きなのだ。
客観的には音が良いとは言えない。サーッとした雑音はいつも入っている気がするし、どこかクリアではないし、電波が弱いと、音も不安定になりがち。
でも、それでも、なんだか邪魔にならなくて、ボタンつけみたいな作業をしている時には、雑音混じりの音が、すごく落ち着く。
いつの間にか、ラジオは深夜トーク番組になっていた。
少し耳を傾ける。
深夜番組なのに(深夜番組だから、だろうか)、今日はマニアックな難しい話をしているようだ。
マリ姉の、ミシンの音が一旦止まる。
「へぇ……。次元関数の話なんか、深夜ラジオでやるんだ。最近のラジオは凄いなぁ。攻めてる」
またミシンが動き出した。
私は頑張って手を動かしながらラジオの内容も理解しようとした。日本語を話しているのは間違いないのだが……。単語も分かるはずなのだが、一体何を話しているのかまるで頭に入ってこない。
マリ姉は今、なんとかっていう研究所で、難しい理論の研究をしている。理系の研究者、それだけでもかっこいい。
マリ姉は以前もその研究については教えてくれようとしたけれど、私の頭では全然分からなくて早々に退散してしまった。哀しいけれど、マリ姉と私の間には、絶対的に超えられない能力値の壁がある。
そんな状況で、さっきマリ姉が言っていた『次元関数』という単語だけが辛うじて頭に入ってきた。もしかするとマリ姉の研究と関係しているのかもしれない。
「ねえ、マリ姉。今ラジオで話している次元関数って、何?」
「そうだな……。二次元とか三次元とかはユリカも分かるだろう?」
「うん。マンガやアニメは二次元。ゲームのFPSとか、VRとかで視点がグリグリ変えられるのは三次元。ドラ○もんのポケットは四次元」
「結構ザックリだけど、まあ、そんな感じで問題ない。それで、二次元とか三次元っていうのは、世界そのものの『本当の姿』というより、あたしたちが世界をどう観測しているかを表すための近似なんだよ」
「近似?」
「たとえば、細かく見るとゴチャゴチャしている構造でも、遠くから見れば一枚の面に見える、みたいな話とか。スケールや見方によって、有効的に次元が変わって見えることがある」
んん? 何を言っているのか私には難しくて理解できない。
「機能不全に陥りそうになるのは分かるが、今は手を止めないで、動かさなきゃ」
「ひゃい」
針をチクチクと動かし、ボタンを取り付ける。
「じゃあ、2.5次元は?」
「さすがユリカ。目の付け所が鋭いね。あれは実は、かなり本質を突いてる表現なんだ」
「えっ、そうなの?」
「端的に言うと、現実の世界に非整数次元を持ち込むと、物理的解釈が難しくなったり、局所性や測度の取り扱いが変わる。現実の世界は複雑で、簡単ではないからね。でも、方程式で世界を記述するためには、できるだけ統一的な方法で、簡潔に表現したい。そのためのアプローチの一つとしては、フラクタルの概念を導入すると次元の概念も一と二の間が説明可能になる。たとえばシェルペンスキーのガスケットを例にあげると……」
「マリ姉、もう何を言っているのか訳わからないんですけれど」
ちなみに難しい話をしながらも、マリ姉のミシンがけのスピードは先ほどとほとんど変わらない。やっぱりすご過ぎ。
私には、マリ姉みたいな頭脳はない。どうしても理解できない。マリ姉の見えている世界と全然違う場所にいるのかと思うと、哀しくなってしまう。
「うーん、もっと分かりやすい例えはないだろうか……。コスプレだと、もともとのキャラは二次元。だが、コスプレをしているあたしたちは三次元だよな。では、コスプレをしているユリカが2.5次元だとすると、現実世界にあるユリカの0.5次元分はどこに行ってしまったんだ、という疑問が生じる」
「確かに」
「まあ、これはあくまで比喩の話だから、本当に次元が0.5減っているかどうかは別問題なんだけれど」
「うん」
「二次元のキャラを、三次元の私たちが再現するわけだけど、そのとき私たちは、全部をそのまま持ってくるわけじゃない。描かれたキャラの線の一本一本、設定の全部、物語の全体……。そういう無限に近い情報の中から、『これだ』っていう要素だけを選び取って、現実の身体や衣装に投影している。だから2.5次元っていうのは、次元が0.5減った情報を圧縮して、別の空間に写している状態だと思えばいい。つまり、数学的に言えば、これは写像の問題なんだ。高次元の情報を、そのまま低次元に写すことはできない。必ず情報は落ちる。でもね、全部を残せなくても、大事な相関を保った写像は作れるってことなんだ」
「マリ姉、もうダメ……」
「そうか」
マリ姉はミシンを止めて、腕組みをした。
ラジオから流れる音声ははいつの間にか、VTuber番組に変わっている。
マリ姉の眼差しは真剣だ。普段は私にぜんぜん見ない、これが研究者としての顔なのだろう。
でも、どうしてだろう。
あんなに大好きなマリ姉が、まるで遠い存在に感じる。
マジメな顔をしているから?
いいや、そうじゃない。
私とは全然違うところに住んでいる、別世界の人だということを、嫌というほど突きつけられているからだ。
私はマリ姉が、好きだ。
美人で、頭が良くて、運動もできる、完璧なマリ姉。誰からも好かれて、愛されて、自信に満ちあふれていて。
本当に血の繋がった姉妹なのだろうかと、疑うこともあった。むしろ、血が繋がっていなくて、性別も私が男で、義姉義弟だったらどんなに良かったか。
私だって、もっとマリ姉にもっと近づきたいのに、マリ姉みたいになりたいけれど……ダメなんだ。
でも、コスプレは、そんなマリ姉と私の距離を近づけてくれた。
どう考えても完璧なマリ姉が、なぜかどうしても踏み出せなかったのが、コスプレだった。
ずっと前から興味はあったようだが、あたしには似合わない、と言って、自分ではやろうという気にはならなかったようだ。
でも、すごく羨ましげにコスプレイベントのネット記事とか写真を見てたのを私は知っていた。
中学の頃に、私が友達に誘われて、コスプレを始めて、楽しかったから、マリ姉を誘ってみたら、すごい喜んでくれた。
それから、イベントの度に、こうして一緒に準備をして、一緒に参加してくれる。
そして、コスプレをしている間は、作品の中のカップルたちと同じように、私はマリ姉と繋がっていられると感じたのだ。
本当にうれしかった。
でも、今のマリ姉の表情は、一緒にコスプレの準備をして、私と繋がってくれているマリ姉ではない。
別の世界、違う惑星に住んでいる、……知らない人だ。
「どうした、ユリカ。急に深刻な顔して。泣きそうじゃないか」
「ううん、大丈夫。ただ、……難しい話だなって思ったら、自分が理解できないのが哀しくなってきちゃって」
マリ姉はびっくりしたように目を丸くして、長い髪をかき上げながら、「ゴメン」とつぶやいた。
「つい、調子に乗って置いてきぼりにしちゃったね。興味のあることが目の前にあると、他が見えなくなる。あたしの悪い癖だ」
「そんなことないよ。マリ姉は悪くない」
そう、マリ姉は悪くない。マリ姉の世界にたどり着くことができない、私がダメなだけなんだ。
マリ姉は私をぎゅっと抱きしめてくれた。
しばらくずっとそのままでいてくれる。
少しずつ、私は落ち着いてきた。
耳元で、マリ姉がささやく。
「いいか、ユリカ。この理論はね。世界が愛に満ちているってことの一つの証明なんだよ」
「どういうこと?」
「推しが二次元。私たちが三次元。別々の次元の存在だ」
「うん」
「でもね、例えそれぞれ異なる次元の存在であったとしても、推しへの愛が強ければ、私たちはコスを通して、次元の垣根を超え、どこまでも推しに近づける。それを保証してくれる理論ってことだ」
なぜだろう。
さっきまでの難しい話ではまったく何も分からなかったけれど、マリ姉の説明で、不思議な電気のようなゾワゾワとした感覚が、背中から全身を衝撃のように駆け巡った。
「次元の違いがあったとしても、相関は保てる。その相関をどれだけ保てるかは何で決まるかっていうと……エネルギーとか、熱量と呼ばれる、推しと、どれだけ強く結びついているか、という尺度で決まるんだ。推しへの愛が強いほど、どの要素を残すか、どこを削るかの判断が鋭くなる。結果として、圧縮しても情報がバラバラにならず、相関がきれいに保たれる。つまり、推しへの愛が強ければ強いほど、コスプレであたしたちは、推しの姿に近づけるんだ」
マリ姉が微笑みかけている。
「凄い!! ちょっとだけど通じた気がする、マリ姉! なんか、ビリビリってきた!! そうだよね、愛がつよければ、どんどん、次元の垣根を越えて、推しに近づける……」
「だから、次元の違う世界同士でも、まったく無関係ってわけじゃない。共通の相関を持つ投影先の空間を通せば、完全一致じゃなくても、十分に近い近似として互いを写し取ることはできる。それが、いわば『次元の狭間』みたいなものだ。推しは二次元。私たちは三次元。確かに次元は違う。でも、愛や熱量が強ければ、情報は崩れずに圧縮されて、次元の壁を越えて『狭間』に投影される。あたしたちのコスプレはそういう写像がちゃんと成立している証拠、ということさ。つまり、世界は思ってるより、次元をまたいで、ちゃんと繋がっているってことさ……どうだい、かっこいいだろう?」
「マリ姉、ありがとう! いつもコスしているときに感じていることが、表現は難しいし、すぐには分からないけれど、こんな風に説明してくれているんだ……」
そして、マリ姉と私。
きっと、私たち二人の住んでいる次元は全然ちがう。
けして、一緒になることはできない。
でも、コスプレという次元の狭間を通して、私はマリ姉にも、近づくことができるんだ。
「ようし、こうなったらラストスパート、頑張らなきゃ、だね!!」
「そうだな」
「それにしても、こういう難しい研究とかしている人、凄いね。ぱっと聞いただけでは全然分からなかったし、今でも本当に分かったとはぜんぜん言えないけれど……。推しと一緒になれる、世界が愛に満ちているって証明するとか、かっこいい!」
急にマリ姉は、顔を真っ赤にしたかと思うと、床に転がっていた毛布を被って、そのままゴロゴロと暴れ始める。
「ちょ、ちょっとマリ姉、大丈夫!」
しばらくゴロゴロしていたマリ姉が、毛布から顔を覗かせる。息が上がっていて、頬はまだ赤い。
「ちょっと冷静になったら、すごい恥ずかしくなって……あの理論、実はあたしの研究なんだ」
胸が熱くなって、今度は私が毛布にくるまれたマリ姉を抱きしめた。
壁の時計が、ボン、と柔らかに鳴った。
ぱっとマリ姉が毛布を脱ぎ捨てる。
「ちょっと休憩が長すぎたな。最後の追い込みだ、ラストスパート、ラストスパート!!」
「そうだね!」
私たちはまた、作業に没頭する。
マリ姉が理論で証明した、推しへの愛を、コスプレという形で証明するために。




