第8話
その名を叫ばれていたのは――
衡平会長!?
……待て、まさか。世界、狭すぎない?
前世において、最大規模の強盗ギルドの一つと恐れられていた
「天堂」。
そのギルドマスターの名が、衡平だった。
――私に《世界樹の果実》を売りつけてきた、あの男だ。
「……静かに。前、かなり人がいる」
燈里が、ほとんど息だけでそう警告する。
「嫌な予感がするわ」
少し離れた闇の奥から、かすかな嗚咽が聞こえてきた。
泣き声に混じって、冷え切った罵声が響いている。
その集団は、池袋駅の方向へ向かって移動しているらしい。
だが、進む速度は異様なほど遅かった。
「泣くな! うるせぇ!」
男の怒鳴り声が、トンネル内に反響する。
「お前らは前に出て囮になってりゃいいんだ。
運が悪けりゃ、せいぜい一生動けなくなるか、死ぬだけだろ」
吐き捨てるような声が続く。
「うちの衡平会長は別だ。
後ろで魔法を使うんだぞ? 詠唱ってのは、集中力使うんだ。
楽な仕事じゃねぇんだよ」
泣き声は、さらに大きくなった。
だが、誰一人として逆らおうとはしなかった。
「……“せいぜい”って、どういう意味よ」
千夏が、歯を食いしばる。
「一般人を盾にするなんて……そんなの、あんまりじゃない!
あの人たち……最低だよ!」
――これが強盗ギルド。
他人の苦痛の上に、自分たちの快楽を築く。
倫理なんてものは、最初から持ち合わせていない連中だ。
やはり、あいつらが口にしている“衡平”は、
私の知っているその男で間違いない。
衡平は、SEEKERが現実に降臨する以前から、
ランキング上位に名を連ねる重課金プレイヤーだった。
私が奪ったのは、彼にとって最重要級のアイテム――
《世界樹の果実》。
だが、それだけで油断できる相手じゃない。
課金装備は他にも山ほど持っている。
――何より厄介なのは、執念深さだ。
ああいう連中に本名を知られるのは、絶対に避けるべきだ。
敵対した相手は、「天堂」ギルドから、
執拗で終わりのない嫌がらせを受けることになる。
「……待って。今は行かないで」
私は、千夏と燈里の肩を押さえて制止した。
「二人とも、自分の頭の上を見て」
物陰に身を潜めたまま、
スマホ画面のかすかな光を頼りに見上げる。
――私たちの頭上に、何かが浮かんでいた。
「ひっ……!?」
千夏が驚いて、思わず大きく後ずさる。
だが、どれだけ逃げても、それはぴったりとついてくる。
よく見れば、それは怪物でも呪いでもない。
ただの――文字列だった。
『白石千夏』
「えっ!? なにこれ、私の名前!?」
千夏は、叫びそうになるのを必死でこらえる。
「ゲームUIよ。
MMOでプレイヤー名を表示するルールが、
現実側にも統合されたみたいね」
「……つまり?」
「どこへ行っても、自動で名札付き、ってこと」
「はぁ……」
千夏は半信半疑のまま、
『白石千夏』の文字を指先で、つついてみた。
――パタ。
まるで壁に掛けられた表札のように、
『白石千夏』がぐらりと揺れ、
次の瞬間、
「ぱしっ」
乾いた音を立てて落下し、
そのまま千夏の鼻先に直撃した。
「いっ……!?」
涙目になって鼻を押さえる千夏は、
完全に理解不能な現実を前にした顔をしている。
「ちょっと待って!?
これ、空に吊るされてたの!?
しかも、落ちてくるの!?」
「……うん」
私は平然と手を伸ばし、
自分の頭上に浮かんでいた文字を掴んだ。
『狐塚凪緖』
それを外し、あらかじめ用意していた黒いガムテープを取り出す。
表も裏も、隙間なく貼り付け、
文字が完全に見えなくなるまで覆う。
漆黒の横棒の完成だ。
「はい。二人も貼って。
このあと、名前を知られると厄介だから」
千夏の口が、ぽかんと開いた。
「……それだけ?
名前隠す方法、そんなに雑なの!?」
「ああ、見た目はね。
でも実戦じゃ、火魔法や水魔法を浴びることになる。
粘着力が弱いと、すぐ剥がれる」
私は淡々と続ける。
「だから、しっかり押さえること。
IDに使うテープの材質も重要よ。
魔法攻撃に耐えられるくらい、丈夫じゃないと――」
千夏は、一瞬で真っ白になった。
現実世界に対する常識も、
MMOゲームに対する理解も、
今日一日で、まとめて粉々に砕け散ったらしい。
もっとも、個人の真名は本人しか触れない仕様のようだ。
テープが剥がれる危険はあっても、
戦闘中に名札そのものが落ちてきて、
頭に直撃することはなさそうだった。
「……貼れたら、近づいて様子を見る」
前方が、今回の委託目標だ。
制限時間も残り少ない。
帰還時間を考えれば、もうこれ以上は待てない。
――深呼吸。
目を閉じ、意識を集中させる。
そして、再び目を開いた瞬間。
視界の奥に、淡い蒼光が灯った。
《天秤の瞳》――起動。
狐族が本来持つ夜視能力が増幅され、
闇は、もはや障害ではなくなる。
「――目標集団、確認。
人数、およそ三十五。
うち五名が転職済みのSEEKER。
残りは未転職の一般人」
淡々と、情報を落としていく。
「転職者構成。
近接戦士二名、人族魔法使い二名、弓手一名。
回復・支援職は未確認」
「一般人は装備なし。
スキル反応もなし。
強制的に前列へ押し出されていると判断できる」
「陣形は三層階段式の前進配置。
前列が一般人、中列に戦士、
後列に魔法使いと弓手」
――一拍置いて。
「判断。
火力は後列に集中。
六時方向、完全に無防備。
後列を潰せば、
全体は即座に崩壊する」
「了解」
燈里は、一切の無駄を挟まずに応じた。
「左側の魔法使い、私が処理する」
そのとき――
前方の集団から、ざわりとした騒ぎが起きた。
次の瞬間、
張り裂けるような女の声が、トンネルに響き渡る。
「……夫が……!
夫は、あなたたちの言う通り、前に立っていたのに……!
どうして殺したの!?
どうして!?」




