第54話
夜風がカーテンを揺らし、ほのかな冷気が私の意識をはっきりとさせた。
さっきのは……。
本当に夢だったのだろうか。
身体にはまだ、あの重みが残っている。まるで猛獣に押し倒されたかのような感覚だ。
枕は少し湿っていて、首筋にはひんやりとした感触が残っている。けれど、傷はない……。
手首。
そこに、うっすらと赤い跡がついていた……寝ている間に圧迫したのだろうか?
そんな覚えはないのに……。
「……誰かいるの?!」
窓の外で、影がひらりと走った気がした。
私は弓を掴んで追いかけたが、結局何も見つからなかった。
燈里の庭はすぐ隣だ。もしかして侵入者はあちらへ逃げたのかも?
私は慌てて塀を越え、彼女の部屋のドアを叩いた。
返事はない。
そうだ、前に予備の鍵を交換していたはず——。
「ごめん、緊急事態だから!」
鍵を取り出し、カチャリと解錠する。
……だが、中はもぬけの殻だった。
主寝室のベッドは空のまま。布団すら敷かれていない。
家中の寝室を見ても、人が住んでいる気配がまるでない。
「……燈里?」
私は一部屋ずつドアを開け、小声で呼びかけた。
返事はない。
外出中?
いや、そんなはずはない。昨日は皆かなり疲れていた。近接戦闘の燈里は、私以上に消耗していたはずだ。
本来なら今頃は眠っている時間なのに。
それなのに、ベッドすら使われていない。
「燈里——」
呼びながら廊下を進む。
その瞬間。
ドンッ!
手首をいきなり掴まれた。
反撃しようとするが、腕がまだ回復しきっておらず振りほどけない。
抗えない力で壁へ叩きつけられた!後頭部がゴンと壁にぶつかり、喉元には冷たい短剣の感触。
一瞬、視界が揺れた。
だがアドレナリンが一気に噴き上がる。私は反射的に弓を喉の前へ差し込み、その一撃を受け止めた!
同時に膝蹴りを放ち、拘束から逃れようとする。
だが相手はそれすら読んでいた。脚で私の膝を押さえ込み、曲げることすら許さない。
片手は壁に押さえつけられ、もう片方で必死に短剣を食い止める。相手も決定打を出せないらしく、状況は膠着した。
そして私は見た。
夜の中で妖しく光る、見覚えのある瞳を。
「……え? 燈里?」
だが返ってきたのは、問いだった。
「どうして突然、私の家にいるの?」
「うちに盗賊が入ったみたいで、知らせに来たの。あなたこそ、どうして寝室にいなかったの?」
「……私は……布団を買いに行っていた。」
燈里は視線を逸らし、手を離す。
私は紙切れのように壁を滑り落ち、大きく息を吐いた。
アドレナリンが引くと同時に全身の力が抜ける。さっき打った後頭部が焼けるように痛む。
「……殺す気?! 千夏に殴られてできたコブもまだ治ってないのに、さらに追い打ちかけないでよ!」
「ごめんなさい。殺し屋だと思った。」
「殺し屋が殺し屋を心配するの?」
「うん。」
燈里は頷いた。
自分が暗殺者だからこそ、相手の手口を誰より理解しているのだろう。
それに比べて、今夜の私は明らかに油断していた。
前世では最強攻略ギルドのギルドマスターだった。命を狙う者など数え切れないほどいた。
常に暗殺を警戒していなければならなかったのに。
なのに今世では、すぐ隣に最強の暗殺者がいる状況に過剰反応しないよう、自分に言い聞かせていた。
落ち着け、落ち着け。私は上手く身を隠している。誰も私を狙わない——と。
……結果、少し気を抜きすぎたらしい。
「ふぅ——」
今夜の出来事は、いい警告になった。
もう一度、警戒心を取り戻さないと。
後頭部を押さえながら立ち上がる。
「気をつけて。さっき、私の部屋に侵入者がいたかもしれない。」
「……侵入者?」
「確証はない。疲れすぎて幻覚を見ただけかも。でも、もし本物なら相当な隠密能力よ。」
「……」
「一人じゃ危ないし、迷惑じゃなければ今夜は私のところに来ない?」
「…………」
「……なに、その顔?」
燈里は視線を逸らした。
「実は……暗夜血族は眠る必要がないの。」
「眠らない? 脳が持たないでしょ。」
「問題ない。脳は領域ごとに順番に休ませている。さっきは……理性を司る部分を休眠させていた。」
「それって、ほぼ不意打ち不可能ってことじゃない?」
「あなたが思っているほど万能じゃない……でも、人間みたいに無防備な眠りに落ちる必要はない。」
暗殺対策としては、まさに神がかった能力だ……私にも欲しい。
「ん……はぁぁ……」
大きな欠伸がこぼれる。頭をぶつけたせいか、それとも緊張が解けたからか。
急激に眠気が押し寄せてきた。
……とはいえ、防犯設備を整えるまでは自室に戻る気にはなれない。
「生まれつきの夜番体質なら、今夜はここで世話になるね。ありがと……」
そう言い終える前に、私はふらつきながら燈里のベッドへ倒れ込んだ。
そして——そのまま、意識を手放した。




