第39話
魔偶の破片が、静かにその場に散らばっていた。
私は何も言わず、燈里もまた沈黙したままだった。
《生息の指輪》が、ゆっくりと私のHPを回復していく。
失われた血が、乾ききった身体へと、少しずつ戻ってくる感覚。
まるで、目の前に一本の進捗バーが見えているかのようだった。
回復とともに、そのゲージがじわじわと伸びていく。
――それが100%に達したとき。
私はまた、“美味しく”なってしまうのだろう。
「……本当に、吐き出せないの?」
沈黙に耐えきれず、私はそう口にした。
「病院でやる胃洗浄みたいにさ。中毒だって大量の水で薄めて出せるでしょ……一回、無理やり吐いてみるとか……」
「甘い考えはやめなさい」
燈里は、心底あきれたような表情で私を見る。
「……」
私はもう諦めたように、仰向けに空を見上げた。
再び、沈黙。
頭を空っぽにしてここに座っていても、何の意味もない。
それは分かっている。
それでも――
何をすればいいのか、どう向き合えばいいのか。
こんな現実を、私は一度も想像したことがなかった。
「……」
今度、沈黙を破ったのは燈里だった。
「……あの魔法陣」
「ん?」
「中央に、鍵穴がある。たぶん……あれが、私たちの任務目標」
「……ああ、気づいてた」
意識を切り替え、私は彼女の視線の先を見る。
あの装甲巨虎は、黒樹迷界の中心を守る番人だったはずだ。
なぜ魔偶がそれを殺し、その血を使って魔法陣を完成させたのか――理由は分からない。
私たちは魔法陣へと近づく。
あの、覚えのある《上位災厄》の気配が、肌を刺した。
「待って」
私はしゃがみ込み、魔法陣の文様と符文を読み解く。
前世で、異変の根源に対抗し、
《SEEKER》と地球の融合を阻止するため、
私は災厄と魔法陣について徹底的に学んだ。
この魔法陣は――
最終ボス攻略の際に見てきた数々の法陣と、酷似している。
効果は、《アンカー解除》。
妙な言葉だが、符文にはそう刻まれている。
“錨を引き抜き、接続点を断つ”――そういう意味だ。
陣に注がれていた血が尽きるにつれ、
魔法陣の光は、徐々に弱まっていった。
一見すると、すでに機能停止しているようにも見える。
それでも安全のため、私たちは一度距離を取った。
その後、私は遠距離から爆裂矢を放ち、魔法陣を完全に破壊した。
「鍵のほうは……」
鍵にもまた、符文が刻まれている。
意味は、実に明確だった。
――《アンカーの再設定》。
「矢に鍵を結びつけて……鍵穴に当てられる?」
燈里の提案は、私の考えと同じだった。
鍵を差し込んだ瞬間、何が起きるかは分からない。
爆発かもしれないし、別の危険かもしれない。
「……あの木。上に乗せて」
もう、自力で木に登る体力は残っていなかった。
私はもう、成り行きに任せるしかなく、
彼女に抱え上げられ、枝の上へと乗せられる。
無理やり弓を引き、鍵穴を見据える。
失血がひどく、視界が揺れる。
世界が、ぐるりと回っている。
尾を腕に絡め、震えを抑える。
深呼吸――狙いを定めて。
――バンッ!
命中。
鍵は穴に吸い込まれた。
爆発も、音も、何も起きない。
《世界級クエスト完了》みたいな派手な演出を期待したが――残念ながら、何もない。
差し込みが浅かったのかと疑い始めた、その瞬間。
空気が、ほんの一瞬だけ歪んだ。
鍵穴を中心に、波紋が走る。
それは、黒樹迷界に留まらず、
降臨領域全体へと、一気に広がっていった。
波紋が通り過ぎた場所すべてで、
世界が――急に、鮮明になる。
わずかな違和感をまとっていた異界の建築、樹木、魔物。
それらすべてが、完全な“現実”として定着した。
まるで最初から、
地球の生態系の一部だったかのように。
「アンカーの再設定……なるほど」
以前から推測していた。
これらのアンカーは、異界と地球の融合に直結している。
降臨領域ごとにアンカーが存在し、
黒樹迷界の中心は、富士山降臨領域のアンカーだったのだ。
〈システムメッセージ〉
《アンカー任務完了。世界樹の種子に変動が発生しました》
世界樹……?
そうだ。
以前、世界樹の果実を口にしたとき、神器の弓とは別に、奇妙なスキルツリーを得ていた。
どれだけレベルを上げても解放されず、放置していたが――
なるほど。
アンカー任務で解放される仕組みだったのか。
スキル画面を開くと、
世界樹スキルツリーの最下段が、自動的に点灯していた。
《スキル名:アンカー任務索敵》
《パッシブ効果:周囲にアンカー任務、または関連アイテムが存在する場合、世界樹が自動的に指針を示す》
……おお、悪くない。
今日は、ようやく少しだけ、いいことがあった気がする。
「よかった! 無事だったんだね!」
木立の向こうから足音。
千夏と、《夜明》《余火》のメンバーたちだった。
「怪我してるじゃない! 大丈夫、回復役を連れてきたよ!」
治癒の光が降り注ぐ。
だが、失血による虚脱感までは癒えない。
HP上限の低下――
これは時間と、《生息の指輪》のような神器でしか戻らない。
「人も揃ったし、ここから離れよう……私、少し急ぎの用事がある」
「その状態で? 休めないほど急なの?」
千夏が心配そうに支える。
「もう48時間も寝てないんだよ? スタミナ薬があっても、精神は限界だよ」
「……外に出てから話す。本当に大事なことなんだ」
「……分かった」
「そういえば、天堂の追撃部隊は?」
その言葉に、周囲の空気が妙になる。
皆、笑いを堪えるような顔。
「……あの連中、魔獣に囲まれて……ほぼ全滅」
「ぷっ――」
誰かが吹き出した。
「ぷははは! 見せたかったよ! 理由は知らないけど、魔物ですら強盗行為にキレたんじゃない? 数百体に囲まれてさ! 数だけで踏み潰されるレベル!」
白夜が腹を抱えて笑う。
正義の救援者で知られる彼でさえ、今回は同情しなかった。
「天堂は大損害だ。衡平はますます私たちを恨むだろうが……しばらくは手出しできない。外にはもう、こちらの増援が来ている」
場の空気は、次第に和らいだ。
追撃者は代償を払い、
全員が無事――
……私を除いて。
夜明け。
鳥の声に包まれながら、私たちは黒樹迷界を踏み出した。
だが、私は彼らと同行しなかった。
「ごめん。少し用事がある。後で合流する」
「単独行動は危険だよ……気をつけて」
「大丈夫」
精神の疲労と、失血による眩暈を必死に押し殺しながら。
私は、ただ前へと歩き続けた。
どれほど歩いたのかも分からないほど、遠くまで。
やがて――
周囲から人の気配が消え、
誰の声も届かず、
誰の視界にも入らない場所へと辿り着く。
死んだような静寂。
けれど、その静けさが、
不思議と私の心を落ち着かせてくれた。
そして――
インベントリを開く。
そこには、すでに整然と並べられていた神器たち。
一つ。
また一つ。
そして、もう一つ。
――すべてを、身に纏った。




