第10話
「夫は……あの時……あの時、まだ意識がありました。
それだけは、はっきり覚えています」
女の頬を伝って涙がこぼれ落ち、床に広がる血と混ざり合った。
「私たちは……左側のトンネルに追い立てられました」
「左のトンネルは……魔物が多すぎて……」
「だから、撤退するしかなかったんです」
「その時……夫が、怪我をして……」
彼女の声が震える。
「夫は、もう後列まで逃げていたんです。
回復魔法を使えば、助かったはずなのに……!
衡平が命じて、前に引きずり出されて……
囮にして、魔物を食い止めさせられました……」
私は静かに頷いた。
「……そうですか」
一拍置いてから、私は彼女の頭上に浮かぶ名前へ視線を移す。
「由衣さん。
今は、悲しんでいる場合じゃありません」
由衣は、ゆっくりと顔を上げた。
焦点を失っていた瞳に、かすかな光が戻る。
「……それは、どういう……?」
私はスマホのライトを点け、トンネルの壁を照らした。
浮かび上がったのは、原始的な意匠の壁画。
それは、もともと地鉄の構造物に存在するはずのものではない。
――《SEEKER》降臨とともに、現実へと侵食してきた光景だ。
「地穴ゴブリンの壁画!?」
千夏が息を呑んで声を上げる。
プレイヤーである彼女は、即座に意味を理解した。
「ってことは……ここ、ゲーム内だと……
地穴ゴブリンのキャンプに対応してる区域じゃない?!」
壁画は、地穴ゴブリンの営地を示す象徴的な特徴だ。
古参プレイヤーなら、見間違えるはずがない。
千夏ははっとした表情で続けた。
「ここはキャンプ外縁の三叉路!
左へ進めば、地穴ゴブリンの倉庫に繋がる道だよ。
守りは固いけど、その分報酬も美味しい。
だから、あの時……大量の魔物に遭遇したんだと思う」
「ええ。
それに――地穴ゴブリンの習性から考えても……」
私は由衣を見た。
「動ける獲物は、すぐには殺さない。
生きたまま倉庫に放り込んで……
“鮮度を落とさないように”保管する」
由衣の目が、驚愕に大きく見開かれた。
彼女は長剣を強く握り締め、その剣を支えに、よろめきながら立ち上がる。
信じられないものを見るように、私を見つめた。
「恒一……
恒一は……まさか……」
「……ええ。
まだ、間に合います」
その言葉を口にした時には、私はすでに左の分岐路へと歩き出していた。
私たちの委託目標も、もともと地穴ゴブリンの倉庫だ。
行く先は、変わらない。
「はぁ……もったいないなぁ。
初心者用の武器でも、売れば銅貨が何枚かにはなるのに」
千夏は手早く、倒れた転職者たちの武器を拾い上げ、インベントリへ放り込むと、小走りで追いついてきた。
走りながら、彼女はふらつきつつ後ろをついてくる由衣に気づく。
少し考えてから、千夏は彼女の肩を支え、白いポーションを一本取り出して差し出した。
「これ……?」
由衣が戸惑ったように尋ねる。
「体力回復ポーションだよ。
さっきまで、ずっと戦ってたでしょ。疲れてるはず」
由衣は慌てて首を振った。
「で、でも……!
こんな貴重なもの……!
命を助けてもらっただけでも十分なのに……!」
「いいから、飲んで!」
千夏は半ば強引に、ポーションを由衣の手に押し付けた。
「《SEEKER》が現実と融合する前、
私は生活職プレイヤーだったの。
初級の体力ポーションなら、まだたくさん持ってる。
遠慮しなくていいよ。
体力を回復してくれないと、あとで困るし」
「……そ、そう……
ありがとう……」
由衣の瞳が潤み、彼女はポーションを一気に飲み干した。
私は眉を上げ、少しだけ歩調を落とす。
「注意。
この先は、地穴ゴブリンの巡回区域だ。
さっきと同じ。音を立てないで、潜行状態を維持する。
千夏、由衣――私の背中を任せる」
「了解!」
由衣は転職者ではない。
だが、転職していないからといって、何もできないわけじゃない。
職業スキルがないだけで、武器を持てば通常攻撃は通る。
……それにしても。
佐藤由衣。
この名前……妙に引っかかる。
前世で――
たった一人で、《天堂》の連中を執拗に狩り続けた女戦士がいた。
単独行動で、《天堂》構成員の三分の一近くを叩き潰した存在。
衡平が、怒り狂ってそう呼んでいた。
――「殺人狂」「狂った未亡人」。
……まさか、な。
「前方に哨兵が二体。
左は私が行く」
燈里がそう告げると、次の瞬間には姿を消していた。
前方の通路には、地穴ゴブリンが二体。
手には角笛を持ち、侵入者を見つけ次第、警報を鳴らす役目だ。
角笛が鳴れば、大量の地穴ゴブリンが集結する。
それは、さすがに面倒だ。
――だから。
この二体は、同時に始末する必要がある。
弓を引く。
「――ッ」
「――シュッ!」
地穴ゴブリンは、音もなく白い光の粒子へと砕け散り、
地面に落ちたのは、金貨と素材だけだった。
「……すごい……
完璧な連携……!」
由衣が、呆然と私と燈里を見つめる。
「でしょでしょ」
千夏が大きく頷く。
「何度も一緒に戦ってきたみたいだよね」
「《天堂》の精鋭部隊でも……
こんな同期率は、絶対に無理です」
由衣は心からの感嘆を込めて言った。
「まるで……心が通じ合っているみたい」
「……はぁ???」
私は歯を食いしばり、苛立ち混じりに矢を放った。
誰が、あいつと心が通じ合ってるって!?
放たれた矢は、こちらへ向かってきた重装巡回兵に正確に命中する。
――が、即死には至らない。
半秒後、燈里が追撃を入れ、
巡回兵の叫びを喉元で叩き潰した。
「やっぱり、心が通じてます」
由衣が真顔で頷く。
「凪緒、また尻尾逆立ってるよ」
千夏が、小声で教えてくる。
あああああ――!!
もう、鬱陶しい!!
《地穴ゴブリン哨衛を撃破。
経験値10を獲得。レベルが3に上昇しました》
《……経験値を獲得……》
《……経験値15を獲得。レベルが4に上昇しました》
《……経験値を獲得……》
《……経験値20を獲得。レベルが5に上昇しました》
正直に言えば――
燈里がいると、レベル上げが異様に楽だ。
十年も一緒に戦ってきた……
あの“仲間”と呼ばれていた連中の中にすら、
私のテンポにここまで噛み合う者はいなかった。
思い出した瞬間、胸の奥がきりりと痛んだ。
心臓を貫かれた時の、あの息苦しさ。
裏切りの冷たさ――
私は、決して忘れない。
弓を握る手が、わずかに震える。
……だが、狙いは外さなかった。
燈里が何かを察したのか、振り返る。
酒紅色の瞳と視線が重なり――
次の瞬間、彼女は何も言わずに前を向いた。
「集中して」
冷静な声。
「……倉庫の入口だ」
燈里が、扉へ手を伸ばした、その時。
「……待って」
耳が、ぴくりと動く。
狐族として強化された聴覚が、異変を捉えた。
――音が、違う。
「燈里!!
伏せて!!!」




