episódio.9 王妃の復讐
日頃であれば亥の刻ほどには就床するモーティナ王妃であるが、今晩は優曇華の花が咲いたようにやたら胸騒ぎにみまわれて、半宵を過ぎてもからきしまどれむ予感がしなかった。
こころやりに燭台もないほの暗い城内を散歩しているうち、ルーバーの開け放たれた鎧窓の並ぶ柱廊にさしかかる。四辻の白壁をつたって角先をのぞきながら、この柱廊のペルシア絨毯に足趾の一歩を差し出そうとした矢先、護謨にはじかれたように呼吸を忘れてあとずさりをして裏壁の隻影に身をひそめた。
我が目を疑った。
柱廊のなかほどで、夫タイラントが戦士キドンを白壁に圧伏し、むさくるしいまでの接吻に興じていた一端をかいまみてしまったからだ。
モーティナ王妃は総毛立つ情緒で愕然として、両手でふさがらぬ口を押さえ込み、発狂寸前のところを辛抱する。
夫のふしだらには、とうに順応しているつもりであった。モーティナ王妃にいたっては、先日には「もう抱かぬ」とさえ断言されているゆえに、夫がさして見栄えせぬ情婦をむさぼったところでなんら悋気のひとつもわかぬ。
だが、夫がまぐわい相手にしているのは、よりにもよって忠節国士隊将帥のキドンである。
モーティナ王妃は、おそれおおい崇高なる君主の生肌を、くすぐられるがままに拒まず甘受する将帥の品性を疑った。
いつしか自身の華奢な十指を篤志ありげに包み握ってくれたあの純粋な真顔にとって、己は単なる空疎な都合の良い仮初でしかなかったのだろうか。
結局この干城は、カリスマに優れた絶大な権力を誇るタイラント国王にこびへつらうのだ。ゴマをするように歓心を買って、居候の寄る辺をキープしてもらおうなどという魂胆くらいはお見通しである。
もとより、キドン本人にさような邪念はない。ロイヤルティーは本心である。
だが、タイラント国王からの衝迫をがえんじておいてプラトニックラブを裏切られたモーティナ王妃が決して許すはずがなかった。
さても当然ではあろうが、もし落城の危機に瀕した場合に、キドンが優先的に護衛死守するのは国王タイラントだ。皇后の自分等々は、その目録に入っているのかどうかすらもわからぬ。この弓手に、この馬手に、相互の体温をなぞったというのにもかかわらず、万一の時の彼はどうせいとも簡単に己を見捨てるのだ。
キドンの公私ともに計り知れぬ打算的な性分を知ったとき、モーティナ王妃の胸中にわだかまりの激震が走った。
思考が少々脱線したが、ようはキドンは、タイラント国王に忠魂義胆を尽くした結果、御仁から熱狂的な愛撫をありがたく拝受したというわけだ。
嫉妬することはなはだしい、それはきっての色魔ですでに幻滅している旦那ではなく、崩されぬはずの誠心誠意を乱されたキドンに対してである。
どうしてこんなにもキドンを対象にルサンチマンが増幅するのか、これはよもや自分のこのサムライへの恋心の随感ではなかろうかとようやく理解するのだった。
ならば、これほどまでに己に紅涙をしぼらせた責任を、いかにして背負わせようかと考える。
———あとぐされのないようにするとあらば、ひとおもいに殺してしまえば……。
モーティナ王妃の脳裏を、殺意という二文字がよぎる。
キドンさえ消滅すれば、情人を失くした夫は再び自分に関心を向けて、今度こそ愛してくれるのてばなかろうか。また、キドンへのかすかな恋愛感情の渦に流されることもないのだ。
モーティナ王妃は、キドンの殺害を決意した。
ただ、武芸のひとつも習得していない自分が、ダガーを把持してあおったところで、豪腕なキドンによるすみやかな掣肘によって刃傷にも至らぬさまは目に見えている。
そこでモーティナ王妃は、今夜の伯都事件を思い出して名案を発想した。
つまり、魔法を使うのである。
キドンを凶暴伯都と同じ啸風子に変身させて、また人喰いトラの出没なるぞと虚言を吐き散らし、アグレッシブな夜警の守衛兵に殺させれば良いのだ。
さすれば、みずからの白雪の素手も汚さずしてことなきを得る。
そうと決まれば、モーティナ王妃はあたかもふんどしをしめるように気負い立った。
そして、柱廊を引き返して自室に戻るなり、さっそく隠し扉となっている書架を押し開けて階梯下の伏魔殿へこもる。
おいそれと火炉にくべた窯鉢に、いろとりどりの霊薬を溶かして調合し、キドンの異形化をたどる猛毒の製剤に熱中した。
その表情たるや、みにくい妖婆さながらの魔女であった。




