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episódio.38 笑う虎

午後、厩舎に隣接する蹄洗場にて、キドンは黒鹿毛の愛馬に丁寧にブラッシングしていた。

 最近になってようやくフケが鎮静したのだが、洗滌せんできにあたっては、念には念を入れて皮膚ケア用のオーガニックな石鹸を使用し続けている


 のち、キドンのもとへ町娘が一人駆け寄ってきた。

 彼女は、麻布をかぶせたバヌトンにコッペパンを数個ほど盛り付けてかかえ持っている。これぞ期待を裏切らぬ当然のごとし、黒い斑点の付着せし腐臭を放つ麺包である。


「将帥さま、いつもありがとう」


 町娘は、平素の常套句じょうとうくを並べ、いかにもなにかしらの思惑の潜在されたまばゆい笑顔で、キドンへバヌトンを差し出した。

 そのかたえにて、脇目ながらに鑑賞していたグルとおぼしき姉御二人が、カフスで口元を隠しながらあきらかに快然としてほほえんでいる。


 ようするに、連中はキドンへのハラスメントを楽しんでいるのだ。

 三流にもおよばぬうら若き娘子じょうしが、一国の驍将ぎょうしょうを相手に陰湿な無礼をはたらくなど品位に欠ける。


 とはいえ、さようなあばずれの自己認知としていわばあさはかたる行動を低俗なることとも感じ入ぬところを見るに、こちらも野卑にかまえてその出鼻をくじく甲斐があるというものだ。

 

 キドンは、バヌトンの腐れしコッペパンをひとつ手に取ると、それを町娘の朱唇皓歯しゅしんこうしに押し当てた。

 あたかも、「おまえがお食べ」と強いるかのようである。


 したらばどうであろう、町娘の性悪な愛嬌は一変して消失し、あからさまに顔面をみにくくしかめるのだった。

 震憾する町娘は、キドンからの摂食の強要をこばむように、一歩二歩とあとずさりをする。

 

 かたえの姉御二人も、見るからに冷笑を引き攣らせて血相を変えた。

 キドンの無色透明ともあろう人柄をあなどって気弱なるや将帥殿とばかり思っていたのに、まさかこの芳紀ほうきに対してまつろわぬ返報をなすりつけたるとはまったくの不測であったようだ。

 さればすぐさま愚妹ぐまい()()()を引いて、走り去って行くのであった。


 弁天娘に拒絶されたキドンは、しばらく呆然としてたたずむ。それからやおら、手元の腐れパンをそこいらの土壌に放り捨てた。

 そうしてなにくわぬ涼しい美顔で、愛馬のブラッシングを再開するのだった。


 かの町娘とておそるるに足らず、現在のキドンはバイタリティーにあふれている。いまとなってはもう、あにはからんや薮から棒が飛び出てこようとも怯える因子はない。

 キドンをそのように認識するならば、黒鹿毛を愛撫する彼の口元はほのかに笑っているように見えた。

 

 キドンの脳裏には、もはや愛しき親友とのメモリーの片影も残ってはいないであろう。

 それについての是非は、第三者の所見にゆだねることとしよう。

 


                     fin.

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