episódio.34 笑わぬ虎は、青瞳を愛する③
さて、赤毛が噴血したときのアルコは、苦しまぎれに隠忍していた。
竹弓を引きしぼる両腕が、気力の吸い取られるように震える。
それは、殺人鬼への怒髪衝天がゆえではない。ならば怒涛にして花と散りし諸氏に対する悲嘆なるかと問えば、そうでもない。
玉砕してしかばねの小山となった戦友の惨劇を見て、はたや自分も前轍を踏むのではないかと戦慄しているのだった。何者なるか不詳ながらに一騎千当のつわものの、我が肉身に切迫する現実のなんたる悚然であることか。
して、ややもなく赤毛が鮮血を噴きこぼして卒倒せし。
ゆえに、この巨体を利用して隠れていた殺人鬼のシルエットが露出する。
かく油断を見据えたアルコは、渾身の金矢を一発放った。
その速度たるや電光石火のごとく、目視ならぬ夜風がまるで半分に割れるかのようである。
本心では浮き足立っておびえているアルコではあるが、当該の一矢は、仲間の遺恨を晴らさぬかぎりにおいては一死をもって祖国に報いるべしと、今ここで殺人鬼の首玉を討ち取らんがために乾坤一擲のほぞを固めた一射にほかならない。
さもあらば、大気を切るさきの鷲矢には、アルコのおそるべき騎士精神が憑依していたであろう。
しかれども、一直線に飛翔した早矢はむなしくも、殺人鬼のあやつりしサーベルによる分断ではばまれてしまうのだった。
アルコは、背負う平胡簶に馬手を回して乙矢をつかみ取り、機敏として一本をつがえて次の一射にそなえる。
もみあげからしたたり落ちる汗水を、肩口でぬぐうほどの弛緩もない。
するとおりしも、ひとときの松籟ありて、木々の嫩葉が揺らめくに、そそがれた月明かりが殺人鬼のおもかげを照らす。
さすれば、殺人鬼の本地はなんと、ルンブラン公国忠節国士隊将帥のキドンにして、ありし日の啸風子たるルーであった。
当時の一晩、懇意を宣誓して緩慢に釈放処置したはずの親友が、なぜに今節讐敵と変わり果てて対岸に出現したのであろうか。従来の間柄をかえりみるに、こやつの本性は恩を仇でかえすような人柄だとはとうてい思えぬ。
アルコは、おおよそ、キドンが隊名の通り忠節を尽くさんがために自分との友情をもとったのではないかと推察する。母国において、なんぞや釘を刺されたに違いあるまい。
啸風子の解呪によって正体が発覚してもなおアルコから「親友だろ」と告白されたさいには、愁眉をひらいて真心のこもった喜色を示していたあのころのキドンとはまるで様子が異なる。
目下のキドンのありさまは、通常凡人の心に刻まれているはずの人情という人間味が極度に薄れており、あたかも本物のバケモノのようであった。
「ルー……、ルー……!」
アルコははじめ、大股で迫り来るキドンの良心が回復することを期待して、懸命に啸風子の名前を呼びかけた。
「ぼくたち、親友じゃないか!そうだろ!」
しかしてキドンにその気配がまったくないので、将帥の完全に血ののぼりきった頭を冷めさせるばく、いったん気絶に至らしめようと急所を避けつつ、やじりの根元に逆刃をほどこした尖矢を連射する。
ところが、その尖矢のどれもがキドンのサーベルに跳ね返されてしまうので、徒矢ばかりが土壌につのった。
やがては矢数も底をつきかけ、残るるはあと一本となる。
覆水盆に返らぬこの一本にこそ死力を捧げ、アルコはいやましに情念を込めて発射した。
されば幸運にも、アルコの会心をいましもあれ回避できなかったキドンの、利き手である右肩に命中するのであった。
ただ、細矢の一本刺さった程度では疼くまないキドンである。右肩に刺さった一本がよほどうっとうしかったのか、尖矢の形状にして腸繰にもかかわらず、みずからの肩肉をえぐってまで根こぎ取った。
尖矢の食い込んだ鈍痛さえももはや感じぬのか、キドンの表情は能面のごとくに氷結したままである。さほどまでに、啸風子の殺気はアルコに集中していたのであろう。
しかるあいだにも、ついにキドンの鋭刃がアルコへ到達する。
アルコは、反射的に竹弓で振るわれしサーベルの侵食を防いだが、丈夫な竹製で応じるにしても強靭な鉄器にはかなわずしてむろんへし折られてしまう。したらば腰帯にはさんでおいた匕首で応戦するが、短刃である時点でキドンの長尺なサーベルとはあきらかに性能が劣っていて、かようなやはり戦闘には不向きだ。
キドンのたたみかける猛攻を防御するのが精一杯なアルコは、あとずさりを余儀なくされ、どんどんうしろへと追いやられていく。
このままでは背後にて大口を開ける幽谷へ突き落とされてしまいかねないと思ったアルコは、せめてもの形勢逆転に繋がる反撃をせねばと考え、匕首を思い切りサーベルに打ち付けようとした———。




