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episódio.28 懦夫②

 午後のキドンは、厩舎に隣接する蹄洗場にて、黒鹿毛の愛馬に丁寧にブラッシングをする。キドンの不在中、愛馬の洗滌に誰一人として代わりの世話人もおらず、ケアを放置されていたようだ。せっかく鎮静しつつあったフケが、わんさとあふれて落ちる。

 キドンは、さきほどの三銃士から受けた性的含意のある不遜行為で、すっかり早鐘を打ってしまった心臓をなだめられず、不快な緊張感に冷汗(れいかん)を流していた。さすればそれが伝導したのか、黒鹿毛の鬐甲(きこう)をクーミングするに、おのずとりきんで粗雑性を帯びたようで、愛馬が身を引いて嫌がる。さようもなれば、キドンも気概を失って、手に持つ刷毛(はけ)をちから無く体側に沿って下ろした。


 そうしてキドンが恥辱感を味わって下唇を噛み締めているところへまたもやだしぬけに出現したのは、バヌトンを両手にかかえた町娘であった。

 バヌトンの中身は期待を裏切らぬ当然のごとし、黒い斑点の付着した腐れしコッペパンである。


「将帥さま、いつもありがとう」


 町娘は、平素の常套句(じょうとうく)を並べ、いかにもなにかしらの思惑の潜在されたまばゆい笑顔で、キドンへバヌトンを差し出す。

 そのかたえにて、脇目ながらに鑑賞していたグルとおぼしき姉御二人が、カフスで口元を隠しながらあきらかに快然としてほほえんでいた。


 従来なんなく楽々と口内に押し込んでかぶりついていたこの腐れパンを追想するに、今となっては身の毛がよだつほど恐ろしい一連である。

 かような小娘ともども、一国の名誉を背負って戦う大将軍に腐敗した麺包(めんぽう)を献上するとは、いったいどういう神経をしているのだろうか。腹をくだし、顔色を青くして弱った姿の将帥を見て、あざけり笑いたいのであろうか。

 さようにして標的にされる自分はおそらく、忠節国士隊のキャプテンという高身分であるにもかかわらず、軽くみくびられるような偏見の対象なのだろう。


 シェメッシュ小邦にて、啸風子だったころの己が、アルコやドゥルキス大君に色眼鏡で見られたことがあろうか。

 あの小邦には、そんな恣意的先入観はなかった。


 キドンは、表情筋をこわばらせた。

 そうして首を横に振って給餌(きゅうじ)されしバヌトンを断ると、町娘は「今日こそは気味がいい」と言わんばかりに、勿体顔で不敵な微笑をこぼすのである。


「将帥さまのお膝元につかえる私たちからの大切な供物を、お召し上がりなさらないのね?」


 あげくには、媚態(こびたい)のうるんだ瞳でキドンを見上げ、そのようにもの申してあおるのであった。

 かたえの姉御二人も、いよいよくつくつと笑い始める。


 キドンはついに恐怖をもよおして、かたく握る刷毛を手放して砂地に落とすと、搦手門へ向かって駆け出した。

 姉御二人の「逃げたわ、あいつ」とさらに呵呵大笑する気配などには、意に介する従容(しょうよう)すらない。


 公国正面の入口となる大手門とは異なり、人通りの少ない裏側の搦手門は一拍遅れの朝五つに開放されて太陽の暮れる一刻前には閉鎖される。

 キドンは序盤、しがらみ多き母なる国ルンブランにはもう帰らぬつもりで、この裏玄関を一目散に飛び出して行った。


 あの宵の、啸風子となって逃走した当初のように、キドンは城外にしげる密林を分け入ってひたすらに走る。息を切らせるとも力走する両脚を止めることなく、ともかくどこかへ逃避したいがために狂奔し続けた。

 もとより血涙も流れぬ、もはや脂汗も枯れて、それでもなお、同胞から貼られた非国民たるレッテルの響声だけが脳内に反芻される。ただただそれにおののいて、キドンの一時的遁走はなかなか減衰しない。


 そのうちに草叢を抜けて、予期せずして国境の大河へとたどり着いた。

 大河の清水は、キドンの艱苦(かんく)など知るよしもなく、あいも変わらず滔々(とうとう)と流れている。今日の対岸の状況を見るに、常時巡警の騎士団は珍しく不在であった。むろん、アルコのおもざしもない。

 キドンは、泥沼の地面に、ちからなくへなへなと両膝を屈してへたり込んだ。直垂の裁付袴に、へどろがにじむ。


 アルコの七施(ななせ)が恋しい。

 ドゥルキス大君のマフィンを食べたい。


 ルンブラン公国への忘恩のもと背信してシェメッシュ小邦のアルコのもとへ転がり込むことが許されるのであれば、いかにさいわいであろう。


 しかし、先代国王から賜ってきた今上タイラントにつながる皇室の信頼を、いまさらながらに裏切れようか。

 もっとも、キドンのプライドは愛国する忠君にあるのであって、それだけはどうにも捨てられない。いな、妥協したがる己の本音に心底おびえていた。タイラント国王に対する忠誠心を放棄してしまえば、自分には寵愛を拝受される自尊心のなにものをも残らないからだ。今生のキドンには、落人(おちゅうと)であった自身を拾ってくれた国家の御恩をなおざりにする勇気はなかった。


 キドンの心は、タイラント国王の冀求に束縛されているのだった。

 

 虚脱のキドンは放心状態のまま、アルコへの恋心を偲びつつ、衷心へ秘めるにとどめる。

 それから、震える膝頭を押さえながら立ち上がり、受忍のすえ翻筋斗(もんどり)を打って自国へと帰るキドンであった。

 


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