月はその手の中に
この作品は、2025年11月に発行された『筑波大学文芸部24生誌 月はどこにありますか』に寄稿した作品を加筆修正したものです。また、「カクヨム」にも同一作品を投稿しています。
「本物の月って、形が変わるんだって!」
「はあ?」
生ごみの匂いがうっすらと漂う校舎裏にしゃがみ、ニカは瞳を輝かせていた。
ニカから「とっておきの話があるの」と呼びだされたロムは、伝えられた情報の荒唐無稽さに呆れている。
「何言ってるんだよ。月は丸に決まってる。四角だの三角だのになるとでも言うのか?」
「ちーがーう! 月はね、円になったり半円になったり細くなったりするの!」
「丸くない月なんて見たことあるか? どうせまた陰謀論にでも踊らされてるんだろ」
「本当だって! 昔の書物に書いてあるもの。ボクたちが見てる月は、コロニーのドームに投影された偽物なんだよ!」
ニカはいつもこういった話──自分たちは政府に騙されているとか、学校では嘘を教えられているとか──をロムに聞かせてくる。
中には真実味を帯びたものもあったが、今回ばかりはあまりにもぶっ飛んでいるため、ロムも怪訝な顔を改めることができなかった。
「月は常に円形。午後六時に昇って午前六時に沈む。当たり前だろ? 俺はこの後奉仕活動だからもう行かないと」
「えー」
ロムは立ち上がった。
人目と監視カメラの目を気にしなければならない話をするときにニカがいつも使うこの場所は、近くにダストシューターの排気口があるためいつも悪臭がする。
あまり長時間ここにいると服や髪に匂いが移るのでさっさと立ち去りたかった。
不意に標準服の白いシャツの袖が引っ張られる。
「それなら一緒に見に行こう。そうしたら信じてくれるよね?」
「見に行くって、何を」
嫌な予感がする。
「もちろん、本物の月を見に。コロニーを抜け出して」
「危なすぎる。それに規則違反」
「きっと大丈夫だよ。それにさ、もうすぐ卒業してこの学園コロニーを出なきゃいけないし、思い出作りみたいな?」
「思い出作りの規模感じゃないだろ」
ニカはむ、と頬を膨らませる。
「じゃあいいよ。ボク一人で行く」
「いや、やめとけって」
「ロムは来なくていいよ。保身が大事なんだもんね? ねえ真面目くん」
「……っわかったよ、行けばいいんだろ」
まんまとニカの煽りに乗ってしまった。
煽ってきた当の本人は、さっきのむくれ顔はどこへやら、鼻歌でも歌いそうなほど上機嫌だ。
「ちょっとだけだからな。少しでも危なかったらすぐ引き返す。じゃあな、俺は急いでるから」
ロムは一人、校舎の影を後にする。手首の端末を見ると、集合時間まであと五分を指していた。
あの会話を交わした次の日、ニカは学校に来なかった。
教師からは風邪だと説明されたが、仮病だろう。
ニカとロムは初等科からの縁だが、ニカが風邪を引いたことなどこれまで一度もなかった。
しかし、その次の日もさらにその次の日も登校してこなかったことには流石のロムも心配になる。
寮にも街中にも監視カメラがあるため、サボれば簡単にバレる。
バレたら教室に連れて行かれるのが普通だ。
数日も学校を休むということは、監視カメラを余程上手く撒いたか、大人たちが隠したがる事情があるのか、本当に風邪を引いているか。
もしもう一日ニカが欠席したら寮を訪ねてみよう。
ロムがそう思い立った矢先、ニカは登校してきた。
ニカは教室に入ってくるなり、ロムのところに真っ直ぐやってきて腕を引っ掴んだ。
普段はあんなに五月蠅いくせに無言のままロムの腕を引いていくニカに、ロムもまた黙って着いていくしかなかった。
ニカが立ち止まったのは、あの排気口近くの校舎裏だった。
「明日、連絡船の発着所に来て。月を見に行く」
「あ、明日?」
いくらなんでも早すぎやしないか。そう言おうとしたが、できなかった。
「時間が、ない」
顔を上げたニカの左頬には、鋭利な刃物で傷付けられたような大きな瘡蓋があった。
袖口から覗く細い手首はうっすらと黒ずんでいる。
ロムの腕を掴む力が強くなる。
ロムはその手をそっと引き剥がした。
ニカの指がひくりと震える。
「行こう。今からでも」
「え、」
今度はニカが呆気にとられる番だった。
頼りなげに宙を彷徨っていたニカの指を、ロムはもう一度捕まえてみる。
「でも、今日は学校が」
「そんなのどうだっていい」
初めてちゃんと握ったニカの手は、思ったより小さかった。
「どうだっていいよ。だから、一緒に月を見に行こう」
ニカはこくりと頷いた。
微かにロムの手が握り返された気がした。
そうして、二人は真昼の学校を抜け出した。
コロニー間連絡船の発着所までは二時間を要した。
街中に張り巡らされた監視カメラの網をかいくぐり欺かなければならなかったせいだった。
幸い、今日は中等部の試験後の休暇だったおかげで、平日の昼日中に学生風の二人組が校外を出歩いていても怪しまれることはないように思えた。
そうはいっても人目やカメラを気にして自然と体を強張らせるロムと対照的に、ニカの歩調は自然だった。
「ロム、挙動不審すぎ。もっとリラックスしないと怪しまれるよ」
ニカにも言われたが、無理な話だった。
何せロムはこれまで規則破りを犯したことなどなかったからだ。
道中、二人の頭上をモーター音が通り過ぎたときには心臓が止まる思いがした。
固定の監視カメラとは別に、治安の良くないエリアやカメラの少ないエリアを飛び回るドローンカメラだった。
このときばかりは、ニカが繋いだままの手に力を入れたのがわかった。
「……道を変える?」
極力口を動かさぬよう、声を出さぬようにしてロムは囁いた。
「いや、大丈夫。むしろこのまま知らん顔したほうがいい」
ニカはドローンが去っていった方を一瞬見遣ったが、すぐに元の調子に戻っていた。
つい先程の、飼い主に捨てられることを察知した子犬のようなしおらしい様子とは打って変わって、ニカは恐ろしいほどにいつも通りだった。
ただ、笑顔が中途半端にしか形成できていなかった。頬の傷のせいかもしれない。
「ボク、たぶんもうすぐ消されるんだ」
貨物倉庫の扉の鍵穴にピンを突っ込みながら、ニカはさも明日の授業の発表順について話すみたいな調子だった。
「ボクの親が反政府運動をしてるのは知ってるよね」
「うん。だから初等部の頃、友達を作らなかったんだろ」
「そこにわざわざ話しかけてきた変な奴がロムだったよね。懐かしいなあ」
ニカがピンを回すと、鍵はガチャンと大仰な音を立てて動いた。
この音が誰かに聞かれているのではないかとヒヤリとしたが、自分たち以外の人が動く気配はなかった。
そこから、貨物倉庫の扉が開くまで二人は一言も言葉を交わさなかった。
絶対に途中で大人に捕まると思っていたロムは、ここまで来られたことにむしろ恐怖を覚え始めていた。
今にも物陰から警備隊の黒い隊服を着た大柄な男が飛び出してきて自分たちを殴り殺すのではないかという想像が、冷たい壁に触れた左腕に纏わりついていた。
あるいは、自分たちはまだ泳がされていて、外に出た途端に射殺されるのではないか。
隣にいるはずのニカは死んだように静かだった。
ニカが本当にそこにいるのか不安になって、ロムは暗闇の中で右手をそっと伸ばした。
指先が布に触れて、ようやくニカの長い髪が肩を流れる時のさらりという微かな音がした。
触れた場所がニカの腕だということに気づくのと、暗闇に一筋の光が差し込むのは同時だった。
倉庫の積み下ろし用のシャッターが開いたのだった。
二人は呆気なくコロニーの外の大地を踏みしめていた。
そこには、銃口はなかった。
あったのは、一面の緑の背の高い草と、目の眩むような青い空と、白金色の光を放つ太陽だけ。
ロムは言葉を失うしかなかった。
学校でも家でも、コロニーの外は生物の住めない荒野が広がっていると教えられてきたから。
「……っはは、あははは、外だ外だー!」
ニカが草をかきわけて走り出す。
背の低いニカをすぐに見失ってしまいそうで、ロムも慌てて後を追った。
ニカの亜麻色の髪は、本物の陽光を浴びて鮮烈な金色に輝いていた。
「あ、そうだ、月は?」
ロムが呼び止めると、幼子のようにはしゃいでいたニカがやっと立ち止まった。
よく考えてみると、いやよく考えてみなくても、月は夜に出るものなのだからこんな日中に見えるはずがなかった。
だが、ニカは微笑んで空を指さした。
太陽の少し下に、切った爪の欠片のように薄く白っぽいものが見えた。
「月はあそこにあるよ」
それが月であるという根拠はどこにもなかった。
それでも、その天体に手を伸ばしたニカの姿が全てを証明していた。
少なくとも、ロムにとってはそうだった。
「ニカ」
「何?」
「ニカはさ、まだ消えちゃだめだと思う」
右手を差し出して、ニカの左手を掬い取る。
「わかった。……まだ、頑張ることにする」
そうして、二人は我を忘れて走った。
ふざけて、転んで、笑いあった。
白い防護服を着た大人たちが表れて、逃げて、捕まって、草むらの向こうでニカが殴られたのが見えて、叫んで、体中に痛みが走って、それで、それで、
俺は何をしていた?
ロムは鏡の中の自分の顔を見つめた。
最近、自分が今何をしようとしていたのかわからなくなってしまうことが増えた。
まだ三十にもなっていないが、ボケてきたのだろうか。
右手に剃刀を持っていることに気づき、髭を剃ろうとしていたことを思い出す。
水道水でなんとか寝癖をなでつけ、手首に着けた端末を確認すると家を出る時間まであと五分だった。
コーヒーを空の胃に流し込んで朝食ということにする。
鞄に仕事の道具を詰め込んでアパートを出た。
オフィス──といっても下町の近くの寂れた下請け会社だが──に向かう途中、指名手配犯の掲示板の前を通る。
いつもは不細工でむさくるしい男たちの顔がずらりと並ぶ掲示板だが、今日は何か違和感を覚え、ロムは立ち止まる。
違和感の正体は、右下に新しく追加された女の指名手配犯だった。
左頬に大きな傷跡のある、金髪の女だ。罪状は、国家叛逆罪。
たかが指名手配犯が一人増えただけで、俺は何をしているんだ。
ほんの数秒でロムはまた歩き出した。
何か忘れているような気がするが、思い出せない。
たぶん、昨日あった取引相手の発注ミスについてだろう。




