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第三話 宿場町の残響と魂の共鳴

夕陽が森を紅く染め、長い影が地面を這う頃、俺とエリアナは人気の無い森の奥深くで足を止めた。

村を出てから、丸一日。追っ手の気配はまだないが、油断はできない。聖騎士団という連中の執拗さは、俺の魂に刻まれた本能が警告していた。


「…今日は、この辺りで休みましょう」


エリアナが、疲れの滲む声で言った。彼女は慣れない長旅で、心身ともに限界に近いはずだ。白い頬は血の気を失い、美しい碧い瞳にも疲労の色が濃く浮かんでいる。


『フン、致し方あるまい。我が器が先に音を上げては、神話の続きが紡げんからな』


俺は尊大な口調で応じる。内心では、彼女の体調を気遣う、影山蓮の人格が顔を覗かせていたが、それを悟られるのは癪だった。邪神としての威厳は、俺に残された数少ないアイデンティティなのだ。


エリアナは近くの倒木に腰を下ろし、小さく息をついた。彼女は自分の右腕――つまり、俺が封印されている腕――を、左手でそっとさする。


「…ヴォイドは、お腹は空かないの?」

『愚問だな、小娘。我は概念。我は深淵。食事などという、矮小な生命活動は必要とせん。だが、汝は違う。肉の器を持つ者は、喰らわねばその機能を維持できん』

「…うん」


とはいえ、食料など持っているはずもない。エリアナは途方に暮れたように、暗くなり始めた森を見渡した。


(やれやれ、仕方ない。ここで俺の博識を披露してやるか。元高校生のなけなしの知識だが)


『…案ずるな、エリアナよ。我が悠久の記憶が、この森に潜む恵みを指し示している』

「え?」

『その木を見てみろ。枝に実っている赤黒い果実…あれは“夜苺(ナイトベリー)”と呼ばれるものだ。毒はない。飢えを凌ぐには十分だろう』


俺が指し示したのは、現代日本の知識でいうところの木苺に似た果実だった。もちろん、この世界の正式名称など知るはずもないので、それっぽく厨二病ネームを付けてやった。エリアナは半信半疑ながらも、俺の言葉に従ってその実を一つ摘み、恐る恐る口に運ぶ。


「…あ、甘酸っぱくて、おいしい…」

ぱあっと、彼女の顔が明るくなった。その純粋な反応に、俺の意識の奥底がむず痒くなる。


『ククク…当然だ。この我が言うことに間違いはない』


火の起こし方についても、俺は元現代人の知識を総動員して教えた。火打石などないため、木の棒を高速で回転させる摩擦発火法だ。

「フン、我が魔力の残滓を触媒とすれば、恒星すら生み出せるものを…!今は、この原始的な手法に甘んじるしかないのが口惜しいわ!」などと嘯きながら、エリアナに的確な指示を出す。

やがて、か細い煙が上がり、小さな火種が生まれた。パチパチと音を立てて燃え盛る焚き火が、二人の周囲を暖かく照らし出す。


エリアナは、揺れる炎を見つめながら、ぽつりと言った。

「…すごい。ヴォイドは、何でも知ってるんだね」

『当然だ。我は森羅万象を識る者。だが、この程度の知識は、我が深遠なる叡智の、塵芥にも満たぬ一片に過ぎん』

「ふふっ、そっか」


エリアナが、小さく笑った。恐怖や悲しみではない、穏やかな笑み。その感情が、温かい微風のように俺の意識に流れ込んでくる。それは、俺を縛る封印の鎖を、ほんの少しだけ、優しく撫でるような感覚だった。


(…悪くない)


孤独な少女と、腕に封印された邪神。傍から見れば滑稽で歪な関係だろう。だが、この奇妙な共生関係は、確かに俺たち二人を繋ぎ、支えていた。


数日後、俺たちは鬱蒼とした森を抜け、ようやく街道へとたどり着いた。そして、さらに半日ほど歩き続け、寂れた宿場町に到着した。

聖騎士たちの追跡を警戒し、エリアナは道中で手に入れたボロ布のフードを目深に被り、右腕は決して人目に晒さぬよう、常に左手で庇うようにして隠していた。


「…大きな街へ行く前に、少し休みましょう。食料も、もうないし…」

エリアナの提案に、俺も同意した。情報収集の必要もあった。


俺たちは、埃っぽい空気が漂う宿屋兼酒場に足を踏み入れる。中では、粗野な身なりの男たちが昼間から酒を飲み、下品な笑い声を上げていた。エリアナは身を縮こませ、人目を避けるように隅のテーブルへと向かう。


「…いらっしゃい。嬢ちゃん一人かい?」

宿の主人が、無愛想に声をかけてきた。エリアナはこくりと頷き、なけなしの銅貨で硬いパンと薄いスープを注文する。


俺はエリアナの意識を通して、酒場の喧騒に耳を澄ませた。

こういう場所は、情報の坩堝だ。ゴロツキや旅商人が持ち込む噂話の中に、俺たちにとって有益なものが紛れているかもしれない。


『…耳を澄ませろ、エリアナ。奴らの下卑た会話の中に、真実の欠片が隠されているやもしれん』

(うん…)


しばらく聞き耳を立てていると、案の定、興味深い会話が聞こえてきた。傭兵らしき二人組の男たちだ。


「おい、聞いたか?お貴族様のお触れだよ」

「ああ、あの『災厄の器』を探してるってやつだろ。なんでも、見つけ次第、生きたまま捕らえろってさ。報奨金が金貨百枚だってんだから、たまげたもんだぜ」

「金貨百枚!?そりゃすげえ!どんなお宝なんだ、その器ってのは」

「なんでも、古の邪神が封じられてる呪いの器らしい。銀髪に碧い瞳の小娘で、右腕に禍々しい紋様があるとか…」


その言葉に、エリアナの体がびくりと震えた。スープを掬っていたスプーンが、カチャンと音を立てて皿に落ちる。


(…ヴォイド…私たちのことだ…)

『…ククク、どうやら我が首…いや、我が腕には、随分と高値がついたらしいな。光栄なことだ』


俺は虚勢を張るが、内心は苦々しい思いだった。聖騎士団だけでなく、国、あるいは教会そのものが、賞金稼ぎまで動員して俺たちを追い始めたのだ。これでは、街を歩くことすらままならない。


「しかも、その邪神ってのが厄介でな。影を操って、人の精神を破壊するらしい。聖騎士団の精鋭部隊が返り討ちにあったって話だぜ」

「へっ、マジかよ。そりゃあ、俺たちみてえなチンピラじゃ、手も足も出ねえな」

「だから『生け捕り』なんだろうよ。下手に殺そうとすると、何が起こるかわかったもんじゃねえってことだ」


男たちは、ガハハと下卑た笑い声を上げた。

俺たちが緊張に身を固くしている、まさにその時だった。


「よぉ、そこの嬢ちゃん。一人で寂しいのかい?」


ぬっと、テーブルの前に大きな影が差した。見上げると、先ほどまで話していた傭兵とは別の、酒臭い息を吐き出す三人のゴロツキが、下卑た笑みを浮かべてエリアナを見下ろしていた。


「俺たちと、楽しくやろうじゃねえか」

エリアナは顔を伏せたまま、小さく首を横に振る。

「…放っておいてください」

「つれないこと言うなよ。そんなフードで顔を隠してないで、見せてみろって」


リーダー格の男が、乱暴にエリアナのフードに手を伸ばす。

その瞬間、エリアナは咄嗟に身を引いた。その拍子に、彼女が庇っていた右腕が露わになり、ワンピースの袖がずり落ちる。

黒い茨のような紋様が、ゴロツキたちの目に晒された。


酒場が一瞬、静まり返る。

ゴロツキの一人が、エリアナの腕の紋様と、彼女のフードの隙間から覗く銀髪と碧い瞳を交互に見比べて、目を見開いた。


「…お、おい…こいつ…銀髪に碧い目…右腕に紋様…」

「まさか…手配書の『災厄の器』じゃねえのか!?」


ゴロツキたちの目の色が変わった。下卑た欲望が、強欲な光へと変貌する。

「金貨百枚が、向こうから歩いてきやがったぜ!」


リーダー格の男が、エリアナの腕を掴もうと手を伸ばす。

酒場にいた他の客たちも、遠巻きにこちらを見ているだけで、助けに入ろうとする者は誰もいない。むしろ、好奇と値踏みするような視線を向けていた。


エリアナの心に、純粋な恐怖が渦巻く。あの村での記憶がフラッシュバックする。理不尽な悪意、逃げ場のない絶望。その強烈な感情が、ダムを決壊させる濁流となって、俺の意識へと流れ込んできた。


(…来たか!この瞬間を待っていた!)


『クハハハハ!愚かなる亡者どもよ!自ら死の淵を覗き込むとは、褒めて遣わす!』

俺はエリアナの心に語りかけ、力の解放を促す。

『さあ、我が器よ!汝の恐怖を力に変え、奴らに絶望という名の鉄槌を喰らわせるのだ!』


だが――

(くっ…!?)

力の奔流が、途中で滞るのを感じた。聖騎士との戦いで受けた神聖力によるダメージが、未だに俺の魂核――力の源――を蝕み、その機能を阻害しているのだ。まるで、錆びついた水道管のように、力がうまく流れない。


『おのれ、神の狗どもめ…!この我に、これほどの深手を負わせるとは…!』


俺が焦っている間にも、ゴロツキの汚い手が、エリアナの腕を掴もうと迫っていた。

エリアナは恐怖に目を見開き、ぎゅっと目を瞑る。


その、瞬間だった。

彼女の口から、悲鳴ではない、凛とした声が迸った。


「――ヴォイド!力を貸して!!」


それは、ただ恐怖に怯えるだけの声ではなかった。

俺という存在を信じ、共にこの窮地を乗り越えようとする、強い『意志』と『信頼』。

受動的に感情を流すだけだったエリアナが、初めて能動的に俺に力を求めたのだ。

その魂の叫びは、これまでのどんな感情の奔流よりも強く、鮮烈に、俺の魂核を打ち震わせた。


『…!』


錆びついた水道管を、強力な水圧がこじ開けるような感覚。

俺の力と、エリアナの意志が、完全に一つに溶け合う。

魂の共鳴(シンクロ)

それは、俺の力を新たな次元へと昇華させる、奇跡の触媒だった。


『クハハハハハハ!見事だ、エリアナ!それでこそ我が器!良いだろう、その信頼に応え、新たな神話の一節を紡いでやろう!』


俺の歓喜の叫びと共に、エリアナの右腕の紋様が、これまでになく濃密な闇を放った。

しかし、その闇は広がるのではない。紋様から、まるで生きているかのように、数本の黒い茨のような影が伸び出したのだ!


「な、なんだこりゃ!?」


影の茨は、ゴロツキたちの腕や足に、蛇のように絡みつく。

「うおっ!離せ!」

男たちはそれを振り払おうとするが、影は物理的な実体を持ったかのように、彼らの身体を締め付けた。それはもはや幻覚ではない。紛れもない、物理的な『拘束』だった。


『ひれ伏せ、塵芥ども。これぞ、我が器との絆が紡ぎ出す、戒めの力――“影縛りの茨シャドウバインドソーン”!』


俺はエリアナの口を借りて、高らかに技名を宣言した。

ゴロツキたちは身動き一つ取れなくなり、その場に引き倒される。影の茨は彼らの身体に食い込むように絡みつき、その冷たさが骨の髄まで恐怖を浸透させていく。


「ひぃぃぃ!た、助けてくれ!」

「悪魔だ!こいつ、本物の悪魔だ!」


先ほどまでの威勢はどこへやら、ゴロツキたちは醜い悲鳴を上げた。

酒場はパニックに陥り、他の客たちも我先にと逃げ出していく。宿の主人も、カウンターの下で震えているだけだ。


エリアナは、自分の腕から伸びた影の茨が、大の男たちを無力化している光景を、呆然と見つめていた。

「…これ、が…私の…」

『否、我らの力だ、エリアナ』


俺は、彼女の心に優しく語りかけた。

『汝の意志が、我が力を新たな段階へと引き上げたのだ。我と汝の魂の同調率が高まるほど、我が力の顕現も、より強力かつ多彩になる。これは、この忌まわしき封印を解くための、大きな手掛かりやもしれんぞ』


俺の言葉に、エリアナははっと我に返った。そして、自分の右腕を改めて見つめる。その瞳には、もはや恐怖だけではない。自らの内に宿る力と、そのパートナーである俺への、確かな信頼が宿っていた。


「…うん」

彼女は力強く頷いた。

「私たちは、二人で一つ、なんだね」


『ククク…いかにも!』


俺たちはゴロツキたちを縛り付けたまま、金も払わずに宿屋を飛び出した。

夕暮れの宿場町を、二人で駆け抜ける。


「これから、どうするの、ヴォイド?」

『決まっている。目指すは、この国の心臓部――王都だ。あらゆる情報と知識が集まる場所。そこならば、『災厄の器』や我が封印に関する、古文書の一つや二つ、必ず見つかるはずだ』

「王都…」

『ああ。追っ手は増えるだろう。苦難の道になるやもしれん。だが、恐れることはない。汝には我がいる。我には汝がいる。我らが手を取り合えば、神々が定めた運命すら覆してみせよう!』


俺の言葉に、エリアナは力強く頷いた。その顔には、もう村にいた頃の怯えた少女の面影はなかった。

一人の邪神と一人の少女。二人で一つの存在となった俺たちは、追っ手という名の観客と、世界という名の舞台を背に、王都を目指す。


(見ているがいい、神よ、そして世界よ!我ら、混沌の王とその器が奏でる、反逆のプレリュードはまだ始まったばかり。この旅路の果てに、汝らが築いた偽りの秩序を、根底から覆してくれようぞ!)


闇に沈みゆく地平線の先、遠い王都の灯りを幻視しながら、俺は新たな決意を胸に刻むのだった。

こうして、俺たちの奇妙で、絶望的で、そしてどこか希望に満ちた逃避行は、その次なる章の幕を開けた。

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