第十八話 エルフの森と閉ざされた心
エルフの隠れ里は、巨大な古代樹が天を覆う、鬱蒼とした森の奥深くに存在した。
森の入口には、見えない結界が張られており、ジンが持つ特殊な通行証がなければ、俺たちは森に入ることすらできなかっただろう。
「この森は、『迷いの森』とも呼ばれてる。結界のせいで、方向感覚が狂わされるんだ。下手に動けば、一生ここから出られなくなるぜ」
ジンが、馬車をゆっくりと進めながら説明する。
森の中は、空気が澄み切り、神聖な気配に満ちていた。だが、同時に、部外者を拒絶するような、張り詰めた雰囲気も感じられた。
やがて、俺たちの前に、弓を構えた数人のエルフが姿を現した。
彼らは、皆、驚くほど美しい容姿をしていたが、その瞳は氷のように冷たく、俺たちに向けられていた。
「…止まれ、人間。ここは、汝らが足を踏み入れて良い場所ではない」
リーダー格のエルフが、鋭い声で言った。
ジンは馬車から降り、両手を広げて敵意がないことを示す。
「俺はジン。以前、おたくらの厄介事を解決してやったことがあるだろ?この通行証はその時の礼だ」
リーダー格のエルフは、ジンが示した通行証を一瞥すると、少しだけ警戒を解いた。
「…ジン殿か。確かに、あなたには借りがある。だが、その後ろの者たちは何だ?特に…その娘から感じる、禍々しい気配は…」
エルフの鋭い感覚は、エリアナの腕に宿る俺の存在を、即座に見抜いていた。
「話せば長くなる。こいつの命が、今にも消えそうだ。頼む、長老のティターニア様に会わせてくれ。魂の治癒ができるのは、あの方だけなんだ」
ジンが頭を下げる。
エルフたちは顔を見合わせ、相談を始めた。
やがて、リーダー格のエルフは、ため息をつくと、弓を下ろした。
「…ジン殿の頼みとあらば、無下にはできん。長老にお繋ぎしよう。だが、長老が汝らに会うかどうかは、我らにも分からん」
俺たちは、エルフたちに案内され、森のさらに奥へと進んだ。
エルフの里は、巨大な樹々の上に、美しい橋や住居が築かれた、幻想的な場所だった。
俺たちは、里で最も大きな樹――『世界樹』と呼ばれる巨木の根本にある、広大な空間へと通された。
そこに、彼女はいた。
長い銀髪は床に届くほどで、その顔には深い叡智と、千年を生きた者の憂いが刻まれている。エルフの長老、ティターニア。
彼女は、玉座のような椅子に静かに腰かけ、俺たちを、特に意識のないエリアナを見つめていた。
「…その娘が、かの『災厄の器』か。そして、その腕に宿るのが、混沌の邪神ヴォイド・クロウ…」
ティターニアの声は、鈴が鳴るように美しかったが、その響きは冷ややかだった。
「…嘆きの谷の呪いを解いたのは、お主たちであろう。そのことには感謝する。だが、それはそれ。これはこれだ」
彼女は、きっぱりと言い放った。
「我らは、人間界の争いごとには関わらぬ。ましてや、邪神と、それに連なる者たちの手助けをする義理はない。その娘の魂が尽きるのは、自らの力に溺れたが故の、自業自得。お引き取り願おう」
ティターニアの言葉は、冷酷な拒絶だった。
ジンが食い下がろうとするが、周囲のエルフたちが、無言の圧力でそれを制する。
やはり、ダメなのか。
俺の意識に、再び絶望が影を落とす。
その時だった。
俺は、エリアナの口を通して、最後の力を振り絞って叫んだ。
『――待て!』
その声は、邪神の威厳に満ちたものではなく、ただただ必死な、懇願の叫びだった。
ティターニアは、少し驚いたように、こちらを見た。
『…俺は、邪神だ。混沌の化身だ。だが、今は、ただの男だ!大切な女の子一人、守れない、無力な男だ!』
俺は、プライドも何もかも、全てかなぐり捨てた。
『あんたたちエルフが、人間を嫌う理由は知っている。かつて人間が、この森を焼こうとしたことも、あんたたちの同胞を傷つけたことも、俺の魂の記憶の片隅に、知識として残っている!』
俺の言葉に、ティターニアの眉が、ぴくりと動いた。
『だけど、こいつは違う!エリアナは、誰よりも優しくて、誰よりも孤独で、それでも、必死に生きようとしてきた!神に呪われた運命を押し付けられても、誰かを憎むことすらしなかった!そんなこいつが、なぜ、自業自得なんて言われなきゃならない!』
俺の魂の叫びに、エリアナの右腕の聖印が、最後の力を振り絞るように、強く、輝いた。
その光は、もはや禍々しいものではなく、ただひたすらに、温かく、優しい光だった。
『――頼む!こいつを、エリアナを助けてくれ!もし、助けてくれるなら、俺の、この邪神の魂を、どうしようと構わない!こいつの命の代償に、俺の全てを差し出す!だから…!』
俺は、生まれて初めて、誰かのために、心の底から頭を下げた。意識の中で。
その想いが、聖印の光を通して、ティターニアの心に届いた。
彼女の氷のように冷たかった瞳が、大きく、揺れた。
長い、長い沈黙が、その場を支配した。
やがて、ティターニアは、深いため息をつくと、静かに立ち上がった。
「…面白い。邪神が、一人の人間のために、己の魂を投げ出すか。神々の戯曲も、随分と、おかしな方向へ進んだものよ」
彼女は、ゆっくりとエリアナの元へ歩み寄ると、その額に、そっと手を触れた。
「…良かろう。その絆、その想いが、本物かどうか。このティターニアの目で見極めさせてもらおう」
彼女の瞳には、冷たさではなく、深い興味と、そして、ほんの少しの慈愛の色が浮かんでいた。
「…娘を、泉へ」