第十二話 竜の墓場と過去の残響
嘆きの谷の内部は、地獄という言葉が生ぬるいほどの光景だった。
紫色の瘴気が霧のように立ち込め、視界は極めて悪い。足元はごつごつとした岩場で、一歩踏み外せば奈落の底へと落ちてしまいそうだ。
「ヴォイド、瘴気が…」
エリアナの体調は、俺の力で守ってはいるものの、芳しくなかった。彼女の魂に宿る聖なる力が、この谷の邪悪な瘴気と反発し合っているのだ。
『案ずるな。我が闇で、汝の光を包み込んでいる。しばしの辛抱だ』
谷を進むにつれ、俺たちは異様なものを見つけるようになった。
それは、巨大な骨だった。何十メートルもある肋骨がアーチ状になっていたり、巨大な頭蓋骨が洞窟のようになっていたり。それらはすべて、かつてこの地で神々と戦い、そして滅んでいった竜たちの亡骸だった。
「…竜の墓場、か。伝承は本当だったんだな」
ジンが、巨大な竜の頭蓋骨を見上げながら呟いた。
その時だった。
ゴゴゴゴゴ…と、地面が揺れるような音が響き、目の前の竜の頭蓋骨の眼窩に、青白い鬼火が二つ灯った。
そして、周囲に散らばっていた竜の骨が、ひとりでに集まり、組み上がっていく。
やがて、骨だけで構成された巨大な竜――ボーンドラゴンが、その威容を現した。
「おいおい、冗談だろ!アンデッドのドラゴンだと!?」
ジンが悲鳴に近い声を上げる。
ボーンドラゴンは、空っぽの顎をカチカチと鳴らし、俺たちに向かって敵意を剥き出しにした。
『フン、神々に滅ぼされた無念が、この地の瘴気と結びついて生まれた亡霊か。哀れな存在よ』
俺は冷静に分析する。
『だが、我らの道を阻むというのなら、二度目の死を与えてやるまで!』
「ヴォイド!」
エリアナが右腕を掲げる。魂が共鳴し、聖印が輝く。
『――喰らえ!闇と光の葬送曲!“聖魔光条”!』
エリアナの腕から放たれたのは、もはや茨ではない。闇と光が複雑に絡み合った、一本の巨大な光線だった。
それは、俺の混沌の破壊力と、エリアナの聖なる浄化の力を併せ持った、対アンデッドにおける最終兵器とも言える一撃。
聖魔光条は、ボーン・ドラゴンの巨体に直撃した。
――ギシャアアアアアアアアッ!
ボーンドラゴンは、断末魔の叫びを上げた。
闇の力がその魔力核を破壊し、光の力がその魂を浄化していく。骨の巨体は、聖なる炎に包まれ、やがて塵となって崩れ落ちていった。
「…はぁ…はぁ…」
エリアナは、強力な技を使った反動で、肩で息をしている。
「…やったの?」
「ああ、お見事だ、エリアナちゃん」
ジンが、冷や汗を拭いながら言った。
だが、安堵したのも束の間だった。
一体倒すと、まるでそれを合図にしたかのように、谷のあちこちで竜の骨が組み上がり始めたのだ。
二体、三体…気づけば、俺たちは十体以上のボーンドラゴンに囲まれていた。
「嘘だろ…!こんなの、キリがねえ!」
ジンが絶望的な声を上げる。
確かに、一体一体を倒すことはできても、この数ではエリアナの体力が持たない。
『…チッ、亡霊どもが、鬱陶しい!』
俺は舌打ちし、思考を巡らせる。
(こいつらは、谷に満ちる竜王の無念と瘴気が力の源。ならば、その源を叩けば…!)
『エリアナ!谷の中心へ走れ!奴らの相手をするな!』
「でも!」
『奴らは、この谷の怨念そのものだ!本体を叩かねば、無限に湧いて出る!ジン!エリアナを援護しろ!』
「言われなくても!」
俺たちは、迫りくるボーンドラゴンたちの間を縫うようにして、谷の中心へと駆け出した。
ジンがナイフを投げて陽動し、俺はエリアナの腕から小規模な影の弾丸を放って、敵の足止めをする。
巨骨の隙間を駆け抜け、襲いかかる顎をすり抜ける、命がけの鬼ごっこだ。
そして、俺たちはついに谷の中心部にたどり着いた。
そこは、周囲よりも一段と開けた広大な盆地のようになっていた。
そして、その中央には。
一本の巨大な、水晶のように透き通った槍が、大地に突き刺さっていた。その槍の穂先からは、今もなお、神聖な気が立ち上り、周囲の瘴気を押し留めている。
だが、その槍は、一体の巨大な竜の心臓があったであろう場所を、貫いていた。
それは、他のどの竜よりも巨大で、荘厳な亡骸。鱗は黒曜石のように輝き、その巨体からは、死してなお、王者の風格が漂っていた。
初代竜王、バハムートの亡骸。
そして、槍が貫いた胸元の、すぐ側。
竜王が最期まで守ろうとしていたかのように、その前足に抱えられるようにして、一つの小さな祭壇があった。
祭壇の上には、涙の形をした、青白く輝く宝石が安置されていた。
それが、俺たちが求めていた聖具――『神光の涙』。
『…見つけたぞ!』
俺たちが希望の光を見出した、まさにその時。
背後で、全てのボーンドラゴンたちが動きを止め、そして、一体へと融合し始めた。
骨が軋み、絡み合い、一つの巨大な、歪なキメラのような姿へと変貌していく。
それは、この谷に満ちる全ての怨念が、一つの形を取った、まさしく『嘆き』の化身だった。