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第一話 深淵の覚醒と呪われし器

漆黒の闇。無限に広がる虚無。

意識という名の灯火が、この絶対的な無の中で揺らめいている。


(…ここは、どこだ?)


思考が形を成すより先に、記憶の断片が奔流となって押し寄せる。

けたたましいクラクション。アスファルトを抉るブレーキ音。そして、宙を舞う自分の身体。

ああ、そうだ。俺――影山蓮(かげやま れん)は、トラックに轢かれて死んだのだ。

平凡な高校生として生を受け、心の内に秘めたる『選ばれし者』としての自覚を誰にも理解されぬまま、あまりにも呆気ない、叙事詩のかけらもない最期を迎えた。


『ぐはっ…!まさか、この俺が…神に選ばれし魂を持つこの俺が、こんな鈍色の鉄塊ごときに終止符を打たれるとは…!だが、案ずるな、世界よ!これは終わりではない…!新たなる神話の扉が開かれる、序章に過ぎないのだ…!』


……なんて、死ぬ間際に脳内で叫んでいた痛々しい記憶が蘇る。正直、めちゃくちゃ恥ずかしい。だが、あながち間違いではなかったのかもしれない。

なぜなら今、俺の意識は明らかに「人」のものではなくなっていたからだ。


《我は、混沌》

《我は、深淵》

《我は、万物を蝕む原初の闇》


脳内に直接響く、荘厳で、禍々しく、そしてどこか懐かしい響き。それは俺自身の本質を告げる声だった。

そうだ。俺は転生したのだ。それも、ただの人間ではない。この世界の法則を根底から覆す、絶対的な存在――邪神として!


「ク…ククク…クハハハハハ!」


声なき声で、俺は哄笑した。

見ろ、かつて俺を嘲笑った凡俗どもよ!俺はついに真の姿へと至ったのだ!この力、この存在感!もはや俺を縛るものは何もない!


そう思った瞬間、全身を凄まじい拘束感が襲った。


(…ん? なんだこれ…!?)


まるで、がんじがらめに鎖で縛りつけられているような感覚。動こうにも、指一本…いや、そもそも俺に指があるのかどうかも定かではないが、とにかくピクリとも動けない。


(おかしい…!この俺が、混沌の化身たるこの邪神が、何かに縛られているだと…!?ありえん!我が漆黒の波動をもってすれば、星々を繋ぐ因果の鎖すら容易く砕いてみせようものを!)


必死に虚勢を張ってみるが、現実は無情だ。俺はどうやら、何かに、あるいは何者かによって、厳重に『封印』されているらしかった。

邪神に転生したはいいが、開幕から詰んでるんじゃないか、これ。

そんな絶望が俺の意識を支配しかけた、その時だった。


「――い…なさい…」

「――ら、出ていきなさい!この呪われっ子!」


外の世界から、甲高い声が聞こえてきた。

それは、まるで分厚い壁を隔てて聞こえるくぐもった音だったが、俺の意識にははっきりと届いた。


「お前のせいで、この前の雨で畑が少し流されたんだ!」

「うちのヤギが病気になったのも、きっとあんたの呪いのせいよ!」


複数の声。女たちのヒステリックな声だ。その声には、粘ついた悪意と、理不尽な憎悪が込められていた。そして、その憎悪の矛先は、一人の少女に向けられているようだった。


「…ごめんなさい…ごめんなさい…」


か細く、震える少女の声。

その声が聞こえた瞬間、俺の意識と繋がる『何か』が脈動した。

そうだ。この少女こそが、俺を封じ込めている『器』。俺が寄生している『宿主』なのだ。


(ククク…面白い。この我を封じるほどの器とは、一体どれほどの乙女か…)


興味が湧いた俺は、意識を集中させた。封印の隙間から、ほんの僅かだけ、外の世界を覗き見る。

視界に映ったのは、石畳の道が続く、古びた村の路地裏だった。

痩せた少女が一人、壁際に追い詰められている。年は十四、五歳といったところか。洗い晒して色褪せたワンピースを身にまとい、陽光を弾く美しい銀色の髪は手入れもされずに乱れていた。恐怖と悲しみに濡れた碧い瞳が、痛々しいほどに澄んでいる。

そして、何よりも俺の目を引いたのは、彼女の右腕だった。

華奢な手首から肩にかけて、まるで黒い茨が絡みついたかのような、禍々しい紋様が浮かび上がっている。それは呪いであり、そして、俺をこの世界に縛り付ける封印の証だった。


「言い訳はいいんだよ!」

「さっさとこの村から出ていけ、悪魔憑き!」


村の女たちは、少女が何かを言うのを許さず、一方的に罵声を浴びせ続ける。エリア、と誰かが彼女の名を呼んだ気がした。エリアナ、だろうか。

彼女――エリアナは、ただ唇を噛み締め、俯いて嵐が過ぎ去るのを耐えていた。その姿は、あまりにもか弱く、哀れだった。


(フン…愚かなる人間どもめ。真の厄災が己の目の前に在ることも知らず、か弱き仔羊を嬲るとは。その罪、万死に値する)


俺は内心で呟く。

だが、今の俺にできることはない。この忌まわしい封印は、俺の力のほとんどを奪っている。

と、その時だった。一人の女が、道端に転がっていた手頃な石を拾い上げた。


「言葉でわからないなら、体で教えてやるよ!」


女が石を振りかぶる。エリアナは碧い瞳を恐怖に見開かせ、ぎゅっと目を瞑った。

その瞬間。

エリアナの心に渦巻いた純粋な『恐怖』と『悲哀』が、濁流となって俺の意識に流れ込んできた。それは、封印という名のダムを揺るがす、強烈な感情の奔流。

ほんの僅か、ほんの一瞬だけ、俺を縛る鎖が、軋みを上げて緩んだ。


(…好機!)


この一瞬を逃す手はない!

俺は全意識を集中させ、力の残滓をかき集め、少女の心へと語りかけた。


『――聞こえるか、我が器よ』


脳内に直接響く、低く、重い声。それは俺自身の声でありながら、もはや影山蓮のものではなかった。それは、永劫の時を生きる邪神の声だった。


「――えっ?」


エリアナが、はっと顔を上げた。その碧い瞳が、困惑に揺れる。自分の腕に刻まれた紋様を見つめ、誰にともなく問いかけた。


「…だ、誰…?」


ククク、と俺は喉の奥で笑った。そうだ、驚け、怯えろ。そして理解しろ。お前がその身に宿している存在の偉大さを。


『我は、汝が内に眠る深淵の支配者。汝が魂に刻まれし、混沌の王』


「な…にを…?」


混乱するエリアナをよそに、石を振り上げた女がまさにそれを投げつけようとしていた。時間がない。


『案ずることはない、小娘よ。汝はただ、望めば良い』

『――あの愚者共に、鉄槌が下されんことを』


俺の言葉が引き金だったのか、あるいは彼女自身が心の底でそう願ったのか。

エリアナの右腕に刻まれた紋様が、不気味な黒い光を放った。


「な、なんだい、その光は…!」


村の女たちがぎょっとして後ずさる。

エリアナ自身も、自分の腕に起きた異変に息を呑んでいた。


『さあ、我が名を呼べ!いや、まだ名は明かしてはいなかったな…ならば、ただ命じろ!“滅びよ”と!さすれば、我が力の奔流が汝の敵を塵芥へと変えるだろう!』


「わ、私…そんなこと…!」


エリアナはか細い声で抵抗する。優しい娘なのだろう。だが、状況がそれを許さない。

女の一人が恐怖を怒りで上塗りし、叫んだ。

「やっぱり悪魔じゃないか!みんな、やっちまえ!」


数人の女たちが、一斉にエリアナに掴みかかろうとする。

その集団的な狂気が、エリアナの最後の理性を吹き飛ばした。


「――いやっ!」


悲鳴。

それは、助けを求める祈りであり、拒絶の叫びだった。

その純粋な感情が、再び封印を揺るがす。


『クハハハハ!それで良い!その絶望、その恐怖こそが我が力の糧となる!』


俺はエリアナの許可など待たず、解き放たれた僅かな力を行使した。

エリアナの右腕から、影が滲み出す。それはまるで黒いインクが水に広がるように、路地裏の石畳を瞬く間に覆い尽くした。


「な、なんだこれは!?」

「足が…!」


影は生き物のように蠢き、村の女たちの足首に絡みついた。それは物理的な拘束力を持たない、ただの冷たい影。だが、触れられた者たちの脳裏には、言い知れぬ恐怖と、おぞましい幻影が流れ込んでいた。


『――跪け、愚かなる者共。我が器に牙を剥いた罪、その魂に刻みつけてやろう』


俺の声を借りて、エリアナの口が動く。いや、正確には俺の声が、エリアナの口を通して世界に響き渡ったのだ。それは少女のか細い声とは似ても似つかぬ、威厳と冷酷さに満ちた神の声音だった。


「ひぃぃぃぃっ!」

「あ、悪魔…!悪魔が喋った!」


女たちは腰を抜かし、ある者は失禁し、ある者は泡を吹いて気絶した。影の触手は幻影を見せるだけに留めたが、彼女たちの脆弱な精神を破壊するには十分すぎたらしい。

やがて影はスルスルとエリアナの腕へと戻っていき、後には無様に這いつくばって逃げ惑う女たちの姿だけが残された。


「……」


静寂が戻った路地裏で、エリアナは呆然と立ち尽くしていた。

彼女は恐る恐る、自らの右腕を見下ろす。先ほどまで黒い光を放っていた紋様は、今は何事もなかったかのように静まり返っている。だが、あの悍ましい感触と、脳内に響いた声は消えない。


「…あなた…一体、誰なの…?どうして、私の腕の中に…?」


震える声で、エリアナが問いかける。

俺は満足げに、そして芝居がかった口調で、改めて名乗りを上げた。


『ククク…よくぞ問うた、我が器。心して聞くが良い。我こそは、かつてこの世界を闇で覆い尽くさんとした存在。星辰を喰らい、次元を歪める混沌の邪神――その名は“ヴォイド・クロウ”!』


「…ヴォイド…クロウ…?」


『いかにも。もっとも、今は矮小なる人間どもの手によって、この忌まわしき封印に囚われた仮初の姿に甘んじているがな!』


威厳たっぷりに告げると、エリアナはさらに青ざめて後ずさった。

「じゃ、邪神…さま…?」

そりゃそうだろう。自分の腕に邪神が封印されていると知って、平然としていられる人間はいない。


(…っと、いけね。ちょっと調子に乗りすぎたか。元日本人だった記憶が、こういう時どう振る舞うべきか囁いてくる。こういう時は、まず安心させることが大事、だったか?いや、邪神が安心させるってのもおかしいか?どうでもいい。俺は邪神ヴォイド・クロウ。ロールプレイを貫徹するのみ)


俺は思考を切り替え、邪神としての威厳を保ったまま続ける。


『…ふん、些末な記憶の残滓が騒ぐわ。かつて我は、汝らと同じ矮小な世界の住人だったこともある。だが、それも悠久の時を生きる我にとっては、瞬きに等しい戯れよ。今の我は、我。それ以上でも以下でもない』


これは独り言のようで、エリアナへの説明でもあった。俺がただの化け物ではなく、元は『そちら側』の存在だったことを、何となく伝えておきたかったのだ。

エリアナは俺の言葉の意味を完全には理解できていないようだったが、その碧い瞳に宿る恐怖が、ほんの少しだけ薄れたように見えた。


「あなたが…私を助けてくれたの…?」

『勘違いするな、小娘。我は汝を助けたのではない。我が器が壊れるのを防いだまでのこと』


俺は冷たく突き放す。


『貴様と我は、生命を共有する共生関係にある。汝が死ねば、この封印の中で我が意識もまた永遠の虚無に沈むだろう。それは我にとって、屈辱以外の何物でもない。故に、我は我が身可愛さに汝を守る。それだけのことだ』


これは本心だった。彼女が死んだら、俺もタダでは済まない。せっかく邪神に転生したのに、何もできずに消えるなんて冗談じゃない。

エリアナは俺の言葉を聞いて、俯いてしまった。

「…そう、だよね。あなたは、邪神様なんだものね…」


彼女の肩が小さく震えている。

だが、しばらくして、彼女は意を決したように顔を上げた。その瞳には、恐怖と、悲しみと、そしてほんの僅かな決意の色が浮かんでいた。

「…契約、しましょう」

『…ほう?』


予想外の言葉に、俺は思わず聞き返した。


「私には、他に誰もいないから。村の人たちからは呪われっ子だって言われて、誰も近づいてこない。今日みたいに、石を投げられることだってある。…でも、もう、そんなのは嫌」

エリアナは、自分の右腕を左手でぎゅっと握りしめた。

「あなたが邪神様でも、悪魔でも、もうどうでもいい。あなたは、私を助けてくれた。私を、守ってくれるんでしょう?」


その真っ直ぐな瞳に、俺は一瞬、言葉を失った。

この少女は、俺が邪神だと知ってもなお、俺に縋るというのか。その孤独と絶望が、どれほど深いものだったのか。

俺の心の奥底で、忘れかけていた影山蓮としての感情がチクリと痛んだ。


(…仕方ない、か)


俺は一つ、ため息のような息を吐き出す。


『ククク…面白い!気に入ったぞ、小娘!その絶望に染まりきらぬ魂、我が器として不足なし!良いだろう、その契約、この邪神ヴォイド・クロウが受けて立とう!』


俺は宣言する。これは、邪神としてのロールプレイであり、同時に俺自身の本心からの言葉だった。


『契約は成立した。汝は我が器となり、我は汝の剣となる。この歪で、呪われた共生関係、存分に楽しむとしようではないか!』


「…うん」

エリアナが、小さく頷いた。彼女の顔に、ほんの微かだが、笑みが浮かんだように見えた。


「私の名前は、エリアナ」

『知っている。我が名はヴォイド・クロウだ。馴れ馴れしく名を呼ぶことは許さん』

「…わかったわ、ヴォイド」

『…話を聞いていたか?』

「ふふっ」


エリアナが、初めてはっきりと笑った。その笑顔は、彼女が背負ってきた過酷な運命を忘れさせるほど、可憐だった。

どうやら俺の寄生先は、ただか弱いだけの少女ではないらしい。なかなかに肝が据わっている。


『…まあ良い。さて、小娘…いや、エリアナよ。まず我らが為すべきは、この忌まわしき封印を解く方法を探すことだ。こんな腕の中にいては、我が力の十億分の一も振るうことができん』

「封印を解く方法…」

『心当たりはないか?この紋様がいつからあるのか、あるいは、これを刻んだ者のことなど』

「ううん、生まれた時からあったって、孤児院の先生が…。私の両親のことも、何もわからないの」

『そうか…ならば、手掛かりはゼロからのスタートか。厄介だが、それもまた一興』


俺たちがこれからのことを話し合っていると、遠くから複数の足音が聞こえてきた。それも、ただの村人のものではない。規則正しく、重厚な金属鎧が擦れる音だ。


『…チッ。厄介なのが来たな』

俺は舌打ちする。

先ほどの力の解放が、余計な輩を呼び寄せてしまったらしい。

路地の角から姿を現したのは、純白の鎧に身を包んだ三人の騎士だった。その胸には、太陽を象った教会の紋章が輝いている。聖騎士団、といったところか。


「この村から、邪悪な魔力の奔流を感じた。発生源はこの辺りか…」

リーダー格の騎士が、鋭い目で周囲を見渡す。そして、その視線が、路地裏に一人で立つエリアナに突き刺さった。

「…見つけたぞ、邪悪の源。小娘、その右腕は何だ?」


騎士の目が、エリアナの腕の紋様に釘付けになる。彼の顔が、みるみるうちに険しいものへと変わっていった。

「まさか…古文書に記されし、『災厄の器』…!?こんな辺境の村にいたとは!」


エリアナはびくりと体を震わせ、恐怖で再び顔を青くした。

まずい。これは、村人にいじめられるのとは訳が違う。相手は邪神や悪魔を討伐することを生業とする連中だ。問答無用で斬りかかってきてもおかしくない。


俺はエリアナの心に再び語りかけた。今度は、落ち着かせるように。


『――慌てるな、エリアナ。我が付いている』

『ククク…面白い。神の狗どもが、自ら死地に足を踏み入れるとはな。良いだろう、我が力の復活を祝う、最初の生贄にしてやろう』


俺は不敵に笑う。内心では冷や汗だくだが、エリアナを安心させるには、この邪神ロールプレイが一番効果的だ。

案の定、俺の言葉を聞いたエリアナは、深呼吸を一つして、目の前の騎士たちを真っ直ぐに見据えた。その碧い瞳には、もはや先ほどまでの怯えはなかった。


「――我に何の用だ、光の眷属どもよ」


エリアナの口から紡がれたのは、再び、俺の――邪神ヴォイド・クロウの声。

少女の姿から発せられる、あまりにも不釣り合いな威厳に満ちた声に、聖騎士たちは驚きと警戒を露わにした。


こうして、腕に封印された邪神(に転生した俺)と、呪われし器となった少女の、奇妙で波乱に満ちた旅路が、今、幕を開けたのだった。

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