一緒にご飯を食べよう
異世界に来て、初日で直面したのはお風呂、トイレ問題だった。
小屋には日本で言うボットン便所に近いものがあって、便座の奥にはスライムがウニョウニョと気持ち悪く動いていた。神作が言うには、このスライムが人間の汚物を食べることで処理しているんだとかなんとか。
スライムはご飯を、私達は清潔を。お互い利害が一致した素晴らしい共存である。おかげで臭いなんかも気にならない。
だけど日本の綺麗なトイレを知っている身からすれば、鉄で作られた便座の冷たさやスライムの出す音や動きが絶妙にキモくて苦痛で、早くも現世に戻りたいと思い始めていた。
お風呂に関しては、もう風呂場すらないから桶にお湯を作って外で体を流すしかない。
「頭洗いたい……シャンプー欲しい〜」
はじめは囲いも何もない外で服を脱ぐことに抵抗があって、その影響で初日は結局お風呂に入れず、翌日の朝には心折れかけていた。
「スマホもないし、お菓子もない……暇すぎる」
「それでしたら李瑠様、暇つぶしがてら散策へ出向きませんか。この世界について、まだまだ知りたいこともたくさんありますから」
「……行く」
相変わらず質の悪いベッドの上で足をバタつかせていたら、神作に誘われて出かけることにした。
服は小屋にあるものをお借りして、きっと亡くなった奥さんが着ていたんだろう白のワンピースに身を包む。神作は昨日と変わらないメイド服だった。
「どこに行くの?」
「実は近くに滝のある水場を見つけたんです。そこで体を清めようかと」
「一緒に?」
「はい。李瑠様をひとりにして、何かあってはいけませんので」
ということは、あの神作と裸の付き合いができるかもしれない。
やましい気持ちというよりは、非日常的なイベントが舞い込んできたことに興奮を覚えて、滝までるんるんで向かうこと数分。
「話と違うじゃない!」
「……はて、なんのことでしょう」
「なんで私だけ脱いでるの!」
滝に着いて早々、あれよあれよと流されるまま服を脱がされて、水に入ったはいいものの……神作はメイド服のまま水場に足をつけていた。
局部と胸部を腕で隠しながら指をさしても、肩を竦ませてやれやれといった態度は変わらない。
「ずるい!そっちも脱いでよ」
「ふたりして無防備な姿になり、暴漢に襲われては困ります」
「こんなとこ、スライムくらいしかいないから大丈夫でしょ。人なんていないよ」
「モンスターから李瑠様を守るためにも、脱げません」
頑なな相手にぐぬぬと下唇を噛んで、悔しいから手で水を掬って掛ける。
避けもせず体で水を受け止めた神作はパパっと服についた水滴を払い落として、静かな目をこちらに向けた。
「おやめください、李瑠様」
「へへん。濡れちゃえば脱ぐしかないでしょ?おりゃおりゃ」
「子供みたいな真似を……私がやり返さないとでも思っているのですか」
「主に逆らえるものなら、逆らってみれば?」
やーいやいとはしゃいだ私の挑発に、ピクリと眉を動かした彼女からの仕返しを警戒したけど……結果、ただため息をつかれて終わった。
「李瑠様のお気の済むまでどうぞ。ご自由に」
「……そう言われるとやりづらいんだけど」
両手を軽く広げて開き直られるから、からかう気も失せて今度は背を向けてみた。
滝の周りは小さな湖のようになっていて、今いるより少し奥に行くだけでけっこう深そうな色をしている。だから手前で水浴びをすることにした。
木々が拓けた先にある空は青く、流れる雲の白さがよく映える。見上げているだけで、説明しがたい幸福感で満たされた。
思えば、過保護な父の目があったからいつも遊ぶ時は安全が確保されている場所で、こういった自然の中で過ごすことなんて今までに無かった。
「こうやって水辺で遊ぶなんて、初めて…」
「お気に召していただけましたか」
いつの間にかすぐそばまで来ていた神作に後ろから声を掛けられて、肩越しに振り向く。
「もしかして…私のために連れ出してくれたの?」
「……慣れない土地での生活は、ストレスが溜まるでしょう。李瑠様の精神衛生の管理も、私の仕事ですから」
「神作は、無理してない?」
「はい。こういった環境下でも李瑠様をお守りできるよう、サバイバル等の訓練も受けております。このくらい慣れたものです」
火起こしから、水の調達……モンスター退治。何から何まで卒なくこなす彼女の裏には、私の知らない努力がある。
彼女が昨日、火を起こすために何度も失敗を繰り返し、掌に血豆を作ったことも、気付いていた。
背後にいる神作の肩に体重を預けて、顔を見上げる。
「ありがとう……神作」
「いえ。私のことは気にせず楽しんでください。召使いの心配なんて必要ありません」
「……今は雇われの身じゃないよ」
自虐の含んだ言葉に傷付いたのは私の心で、異世界に来てなお神作と私の間にある拭えない主従関係に虚しさを募らせた。
きっと彼女の事だから、どこに行っても必ず線引きをしてくる。たとえ私が賃金を払わず、契約に縛られていない状況だとしても、染み付いた奴隷根性はそう簡単に取り払えないだろう。
濃く、分厚く引かれた線を、消したい。
「ねぇ、かみさ……くしゅん!」
「李瑠様、私の名前は“かみさくしゅん”ではありません」
「し、知ってるわよ!今のはくしゃみだから!」
「冗談です」
「真顔で冗談言わないでよ…」
鼻をすすりながらぶるりと体を震わせる私に、神作はタオルを持ってきて肩に掛けてくれた。
「いつまでも水に浸かっていては冷えますから……帰りましょう」
「ん……そうする。けっこう水冷たくて寒くなっちゃった」
「帰ったら、温かいスープをご用意致します」
何度も背中をさすって、少しでも寒さを和らげようとしてくれる優しさにキュンとしつつ、渡されたワンピースに着替える。
神作は濡れたまま、何も気にせず私の手を引いて木々の間を抜けていった。
小屋に着いてからは、さすがに風邪を引いちゃいそうで心配になって「着替えたら?」と自分の方から提案した。
「なんなら私が選んであげよっか、服」
「いえ。お気持ちだけで…」
「いいからいいから」
渋る神作の背中を押して、木製タンスの前まで連れて行く。
私服姿なんて滅多に見れなくて貴重だから、ワクワクした気持ちでタンスを開けた。
「何がいいかな〜。スカートとか履く?履いちゃう?」
「……動きやすい服装以外は着ませんよ」
「え〜、せっかくだもん。お揃いのワンピースとか…」
「李瑠様」
服を物色していた手をそっと掴まれて、すぐ後ろに神作の体温を感じる。
その事に動揺して動けずにいたら、少し怒ったようにも見える顔で覗きこまれて、距離の近さにもドギマギして硬直してしまう。
「何かあった時、李瑠様を守れないのは困ります。……ですので、動きやすい服でお願いします。絶対に」
「あ、う……うん、わかっ…た」
厳しめの声には頷くのが精一杯で、気恥ずかしさを誤魔化すため適当に掛けてあった服の一つを手に取る。一応、スカートは避けて。
それを渡したら神作はすんなり受け取って、あっさりと体は離れた。
後ろで着替え始めた布連れの音を、振り向いていいのかどうか分からなくてしばらくその場で直立不動のまま待った。
「き、着替えた?」
「はい」
いったいどんな格好だろう、とドキドキした胸に手を置いて振り向くと、
「……少し大きいですね」
やや不満そうに腕まくりをする神作の姿が見えて、その仕草に心を掴まれる。
白のワイシャツにサスペンダー、カーキパンツという狩人のような格好はスラリとしたスタイルの彼女にはよく似合って、ついつい上がるテンションは胸の内だけでなんとか留めた。
長い黒髪をひとつに結び直すのもかっこよく映って、さらに恋心は加速する。
「さて。着替えも済みましたし、夕食にしましょう」
「う、うん!」
私のために食事を用意してくれる姿も、椅子に座ってニコニコで眺めた。
出来上がってからも、お皿をテーブルに並べ、いつもの定位置である斜め後ろに立った神作の方を向く。さっき滝の前で言おうとしていて、言えなかったことを思い出したから。
「ねぇ、神作?」
「はい」
「今日からは、一緒に椅子に座って食べてくれない?」
「……李瑠様、私は召使いです。お気遣いいただかなくとも大丈夫ですよ」
「そうじゃなくて。ひとりで食べるご飯はさびしいでしょ?だからお願いしてるの」
あくまでも“お願い”であることを強調して言えば、予想通り神作は躊躇った後に自分の分のスープをお皿によそい、テーブルを挟んで向かい側の席についた。
こうして向き合う形での食事は初めてで、見慣れない光景にソワソワする。
簡単には従ってくれないと思ってたけど、これは嬉しい誤算だ。
「さ、いただきましょ?」
「はい。頂戴致します」
私の前でご飯を食べることも今までなかったから、些細な動きのひとつ逃さないようじっと見つめる。
見られているせいか僅かばかり食べにくそうに眉をひそめた神作だったけど、丁寧な所作でスープを口に運んだ。もしかしたら、マナー的なものも教育のひとつにあるのかもしれない。
こんなにも私の隣に立つに相応しい品の良さを兼ね備えているのに、使用人だなんて信じられないしもったいない。
やっぱり、付き合いたいな。
「おいしい?」
「……李瑠様にお出しするものですから。美味しくないものは作りませんよ」
「そうだね。神作の作ってくれる料理は、いつもおいしいよ」
「恐縮です」
この世界にいれば、ふたりで食卓を囲むことも日常になって、いつしか当たり前に変化するのかな。
そう考えたらやっぱり現世に帰りたい気はしなくて、私の心はフラフラと悩むことすらしてくれない。そのくらいには、神作の存在は大きなものなのだ。
「神作」
「はい」
「だいすき」
思いのまま伝えた言葉を、彼女はどう受け止めたのか。
「……私には、もったいないお言葉です」
表情ひとつ変えず、ポツリと呟いた神作の気持ちなんて、私には分かるはずもなかった。