おはようございます、異世界です
「……さま。李瑠様」
聞き慣れた声が鼓膜を揺らして、意識はフッと目覚めた。
いつも通り、神作に起こされる朝が来たのか……と寝返りを打てば、心地いいはずのベッドシーツがなんだかガサガサして質が悪い。
微かな違和感により鮮明になった頭で、まだまだ眠くて重い体を起こす。
目元を擦りながら瞼を持ち上げてみると、そこにはいつもと変わらないメイド服姿の神作がいて、一つ違ったのは余裕綽々な無表情が今は緊張したような堅いものだということくらいだ。
「李瑠様、落ち着いて聞いてください。あ、おはようございます」
「ん……おはよう。朝からなに?」
「我々はどうやら、異世界転生してしまったようです」
「は?」
寝起きから訳の分からないことを聞かされて、目をまん丸と開けてみると……確かに、身の回りの環境が慣れないものだったことに気付く。
お世辞にも広いとは言えない室内には、私のいるベッドとサイドテーブルくらいしか無く、木で作られた内装はところどころ古さが目立った。
「こ、ここは…?」
「山小屋のようです。李瑠様がお目覚めになる前に、色々と物色してみたのですが……家主は不在でした」
先に起きて調べてくれていた神作によると、どうやらここは異世界かもしれないらしい。小屋にあった書物のいくつかを読んで、現世とはまるで違う世界だと判明したんだとか。
ちなみに文字は日本語で、使用されている言語は同じだったそう。
そんな都合のいいことある……?とか違和感を抱えながらも、置かれている現状から夢じゃないことは火を見るよりも明らかだった。
「で、でも……私達、現世で死んでないわよね?」
「はい、そのはずです」
「じゃあ、なんで転生なんて…」
「それについてですが、お見せしたいものが……口で説明するより早いかと」
珍しく戸惑っている様子の神作に連れられ、寝室だと思われる部屋を出て、キッチンやら食卓テーブルがある場所を抜け向かった一室には、
「なにこれ…?」
「おそらく、召喚の儀式をしたものと思われます」
床に大きな魔法陣が描かれ、火の消えたキャンドルが円を書くように置かれた光景が広がり、神作の説明の説得力は高く嫌でも納得できた。
薄暗い室内には壁一面に本棚があり、整理されていない本がそこかしこに散らばっている。
「ここに置いてある本の多くは、黒魔術に関するものでした」
本のひとつを手に取って、パラパラと捲りながら神作が静かに呟いた。
「机にあった手記には、“いよいよ明日、実行に移す”と。そう記してありました」
「……つまり、ここの家主が何かしらの召喚魔法を使ったってこと?」
「はい。その可能性が高いかと」
「でも……だとしたら、家主はどこにいるの?」
「それが…」
私の質問に言い淀んだ神作は、何かを思案した後で魔法陣のそばに落ちていた衣服をそっと手で指した。
ただ単に脱いだだけでは…?という疑問は、わざわざ主張されたことの意味を考えれば、すぐに分かる。理解すると同時に湧き上がったのは、ひとりの人間が消えたことに対するおぞましさと呆気なさだ。
「召喚は禁忌魔法のようですし、それ相応の代償を支払う形となったのでしょう」
「代償ね……そこまでして、何を召喚したかったの?」
「こちらをご覧ください」
答えは、机の上に積まれている紙の中に紛れていた写真にあった。異世界にも、写真が存在していたことに少し驚く。
映っていたのは仲睦まじそうな夫婦と幼い少女で、何度も触っては涙で濡らしたのだろう、ところどころ汚れや劣化が目立った。
抜け殻を見るに、家主は男性で……亡くなった妻と娘を呼び戻そうとしたことは、考えなくてもこれだけの情報があれば想像つく。
私達ふたりがここに召喚されたのも、二つの魂を蘇らせようとした結果だろう。
「事情は理解したけど……なんかまだ信じられない。実感がないっていうか」
「気持ちの整理をするためにも、ここは一度休みましょう。幸い、先ほど通った部屋に食材が常備されておりました。朝食をご用意いたします」
「……ありがとう」
異世界に飛ばされても神作は平常運転で、リビングであろう部屋へ移動してからは何食わぬ顔でキッチン周りで作業を始めた。
私はどうしていいか分からないから、とりあえず椅子に座って待つ。
「……困りましたね」
「どうしたの?」
「火の付け方が分かりません」
だけど数分もせず、神作が困った声を出したから立ち上がる。
「向こうのコンロとは違ってシンプルな作りなので、もしかしたら原始的な方法で火を扱っているのかもしれません」
「原始的な方法?」
「有名なものだと、木と木を擦り合わせて火をおこすやり方です。しかし、材料が手元にありません」
「それじゃあ、どうするの?」
「集めに行きましょう。李瑠様を置いてはいけないので、ついてきていただけますか」
「も、もちろん」
異世界に来て初めての外。多少の不安はあったものの、本音を言えば好奇心の方が強くて神作の後をついていった。
「わ……綺麗」
リビングの扉を開けて出てみた外の世界は一面緑色で、木漏れ日が幻想的な雰囲気を生み出していた。
整備された道もなく、ぽつんと一軒だけ小屋が建っている様は現世では見たこともない風景で、ここが異世界であることと共に森か山の奥だということも察せた。
新鮮な空気は澄み切っていて、暑くも寒くもない心地のいい温度と風が体を包む。
ひとつ不思議なのは、小鳥のさえずりも生き物の気配もなく、自然が生み出す木の葉の擦れる音だけが響いてる静寂さだ。
「まずは木を集めましょう。ついでに水源も見つかればいいのですが…」
私と違って感動した様子もなく物事を進めようとする神作の言葉を遮るように、ガサガサとした大きな音が響き渡った。
「お下がりください、李瑠様」
揺れる葉の動きを警戒して、咄嗟に私の肩を抱いた神作はどこからか取り出したナイフを逆手に持って構えた。
周辺にはまた静けさが訪れ、緊迫した空気の中……草影から勢いよく飛び出すように現れたのは水色の何かだった。
「す、スライム?」
驚いて向けた視線の先には、ぽよぽよとしたフォルムをしたスライムに似た生物がいて、ぴょんと跳ねながらこちらへ近付いてくる。
「え……かわいい」
水の塊みたいなそれはよく見れば可愛くて、愛着が湧くような姿をしていたけど、神作は容赦も躊躇いもなくその生物に向かってナイフを振り下ろした。
ナイフの先端が内部にあった青の内臓に触れた途端、プシュンと音を立ててスライムは姿を消す。
残ったのは目の前で繰り広げられた残酷な死への戸惑いと、一枚のコインだった。
「……なるほど。この世界ではモンスターを倒すことでお金を得られるようです」
銅色のコインを拾った神作は冷静な分析を口にして、私はただただ困惑する。
「それに、“経験値”も得られるようです」
「経験値?」
「スライムを倒した時、“3pt”とうっすら文字が浮かんだのですが…李瑠様には見えませんでしたか?」
「ごめん、そこまで見てなかった…」
「経験値が存在するということは、我々にはレベルの概念が適用されている可能性が高いです。となると……ステータスも付与されているかもしれません」
「ゲームみたいね…」
冷静に状況を判断しつつ、憶測を立てていく神作を尊敬と畏怖の念を込めて見る。
異世界にいても彼女は逞しく、頼りがいがある存在で、秘めた恋心は加速していくばかりだ。……本人は、そのことに気づきもしないけど。
「兎にも角にも、モンスターが潜んでいる危険な状況です。私から離れないでください」
「……うん」
守るためであろう握られた手に動揺しながら、歩みを進める。
そうしてたまに現れるスライムを倒してはコインを拾い集め、火起こしのための木や枯れ葉も回収し、散策の途中で小川を見つけたことで神作の望むものは全て手に入り、一旦日が暮れる前に家へと戻った。
自然の中、一緒に歩けただけで私は大満足で、帰ってからは用意された食事を食べて一息ついた。
「……これから、どうする?」
「李瑠様は、どうしたいですか」
質問に質問で返されて、面食らう。
どうしたいかと問われれば、正直まだ分からない。それを判断するための情報が足りてない、といった方が正しい。
ただ、ひとつ思うことがあるとすれば、
「私は、神作と一緒にいられればそれでいいかな」
婚約者もいない、跡継ぎのことを考える必要もない……しがらみのないこの世界で、神作さえいればそれだけで充分だった。
むしろ、元の世界に戻るよりもいいのかもしれない。
このままふたりきり、この小屋でのどかに過ごすのも。それはそれで幸せだと思う。
帰ったら待ち受けているのは望まない結婚、妊娠、出産の数々で、辛い現実に耐えられるか分からないから。
「神作は、どうしたい?」
それでも、彼女の意思も確認したくて聞けば、
「……仰せのままに。李瑠様の願いが、私の願いですから」
結局、欲しい答えは得られなかった。
神作はいつもそうだ。自分のことは語らず、私の意見ばかり尊重しては付き従う。
雇われの身なんだから当たり前と言えば当たり前で、だけどそれじゃあ複雑な乙女心はより複雑になり、気分は下がっていく一方だ。
「じゃあ、結婚してくれる?」
少しでも暗い気持ちを晴らそうと叩いた軽口に、神作の口元が小さな笑みを作った。
「仰せのままに。……と言いたいところですが、家訓により禁じられております故。その願いだけは、応えられません」
「……知ってる」
戻っても、“家訓”とやらに縛られた神作は私の告白を拒み続ける。断るための、体のいい理由かもしれないけど。
でもここでは関係ない。私達の交際を反対する人間はいないのだから。
そう考えたら、これはチャンスだ。
せっかくの異世界転生、楽しまなきゃ損だと、沈みそうになっていた心をなんとか持ち直した。
これを機に神作との距離を縮めて、いずれは……幸せな未来を想像して胸を躍らせる。どうするかはそうなってから決めても遅くはない。
そもそも、現世に帰れる保証もない。
「神作」
「はい、李瑠様」
「改めてこれから、よろしくね?」
斜め後ろに立っていた彼女の方を振り向きながら伝えたら、無表情ではあるけど柔らかな視線が返ってきた。
「はい。異世界であろうとも、全力でお守りいたします」
こうして、私と神作の異世界生活が幕を開けたのだった。
口説き落としちゃうぞ、という決意を胸に。