9 国境越え
朝もやが漂う静かな家の前で、アリアは最後の準備を整えていた。アリアは「メグ」という名の若い女性に成りすまし、カイ団長、ジン、リサ、マルタおばばといった大道芸人たちと、看守だったテリーと共に旅に出る。
大道芸人の長であるカイ団長はスノウともう一頭の馬の手綱を握りしめ、荷台の支度を終えて待っていた。
エミカが歩み寄り、そっとアリアの手に煤こけた指輪を置いた。
「母さん、これは何?」
「ライルがはめていた指輪よ。奥森の漆黒獣を焼却した時、灰の中から出てきた指輪らしいわ。あなたに何か関係があるかもしれない」
アリアは人差し指にはめてみたが、ぶかぶかだった。よく見ると煤こけた金の輪には、赤い石が埋め込まれている。
「これに通して、首から下げておくといいわ」
エミカが黒い革紐を差し出した。
アリアは指輪を紐に通し、それを首にかけた。指輪が胸元で重みを感じさせるたびに、彼女の心には煙島での思い出が響いてくるようだった。
その場に立っていたチョビも、妹を見守っていた。彼の目には別れの痛みがあったが、それをぐっとこらえ、アリアに向かって言った。
「気をつけてな。また、必ず会おう」
アリアは頷くだけで、言葉にできず、精いっぱいの笑顔を二人に見せた。
そしてアリアは荷台に上がった。
二頭の馬が蹄を鳴らす。カイ団長が手綱を軽く引き、馬車が静かに動き始めた。
冷たい早朝の空気が彼らの間を流れ、大道芸人たちとテリーが荷台に座りながら、周囲を警戒するように見回していた。
「さぁ、行こう!」
カイ団長が合図を送ると、馬車はゆっくりと動き出した。
病院の前から、エミカとチョビが見送る姿がだんだんと遠ざかっていく。
朝日が昇り始め、アリアの胸には新たな冒険の幕開けを告げる輝きが宿っていた。
まだ早朝のため、ほとんどの村人は眠りについていたが、国境には数人の兵士が警備に立っていた。
馬車が近づくと、兵士たちは少しばかり不審な様子で目を細めた。
一人の兵士が手を挙げて馬車を止めた。
「おい、こんな早くからどこへ行くつもりだ?」
カイ団長は落ち着きを装い、愛想よく微笑んだ。
「おはようございます、旦那様。我々は大道芸の一座で、隣国の市場で公演があるんです。早くから準備しないといけないのですよ」
兵士は眉をひそめ、馬車の中をのぞき込む。
「大道芸?そんなに早く動き出すのか?しかもこんなに寒い日に…」
「おい、あの剣は何だ!検査させてもらうぞ」
兵士の一人が前に進み出て、彼らの荷物を指さした。
カイ団長はにっこりと笑いながら言った。
「大道芸の道具ばかりでございます。ご覧の通り、何も怪しいものはありませんよ」
兵士は荷台に上った。
「奥には猿がいますから、旦那、気を付けてくださいね」
カイ団長は大声で叫んだ。
アリアはじっと息を殺し、視線を下に向けた。
「キキー、キッキー」猿の声が荷台に響く。
彼女の心臓は緊張で早鐘のように打っていた。テリーもじっと動かず、アリアのそばに寄り添っていた。
兵士は一つ一つを丁寧に調べ終わり、荷台から降りた。すると突然スノウの方をじっと見つめた。
「この馬は…」
アリアは心臓が止まりそうになり、テリーも僅かに息を飲んだ。
「ずいぶん立派な馬だな…」
カイ団長は一瞬言葉に詰まったが、すぐに明るい声で言った。
「そうでしょう?我々をただの大道芸人と侮ってはいけませんよ。見た目だけでなく、我らは人も馬も一級品です!少し芸を見せましょうか?」
「ほう、見せてくれるものがあるなら、少しばかり楽しませてもらおうじゃないか?」
兵士達は笑みを浮かべたが、その目は冷たかった。
「もちろん、もちろん!」
カイ団長はすぐに返答し、馬車から軽やかに飛び降りた。
「リサ、ジン、少しだけ披露してやってくれ。兵士様方に楽しんでいただけるように」
リサとジンは緊張を隠しながら馬車から降り、さりげなく芸を披露し始めた。ジンは華麗な剣のパフォーマンスを見せ、リサは鮮やかな布を使い、おばばの笛の音に合わせ踊りを披露した。
テリーは緊張の中でも冷静さを保ち、アリアを見守っていた。
「ふむ、なかなかの腕前だな」
兵士は少しばかり興味を引かれたようだが、完全に許した様子ではなかった。
「でも、この時間に通るのはやはり不自然だ。上官に報告してからでないと、通すわけにはいかん」
アリアは内心焦りを覚えながらも、あえて口を開いた。
「おじさん、頼むよ!」
テリーはアリアが何を言い出すのか驚いて、アリアの服を引っ張った。
アリアは、服を引っ張られても続けた。
「こんな寒い中、待つなんて勘弁してよ。あたいはこの通り、手と足の骨が折れてるんだよ。おじさんたちも怪我したことがあるなら、この寒さがど、れ、だ、け、骨に染みるかわかるだろう?早く行かせてくれよ」
兵士たちの疑念の視線がアリアに注がれる。
彼女は心臓が早鐘のように鳴るのを感じながら、必死にメグとしての演技を続けた。体を少し震わせ、あたかも寒さに耐えられないかのように見せる。
「怪我人を待たせるのは酷だろう。こいつらはただの大道芸人だ、問題ないさ」
一人の兵士が言った。
「だが、念のためだ。上官が来るまで待つしかない」
最初の兵士はまだ慎重だった。
その時、カイがゆっくりと口を開いた。
「上官が来るまで待ってると、俺たちのショーが台無しになるぜ。楽しみにしてる村の子供たちも、待ちくたびれちまう」
アリアは、静かに息を吐きながら、兵士たちの反応を見守った。
兵士たちは顔を見合わせ、しばしの沈黙が流れる。
すると最初の兵士が大きくため息をついた。
「わかった、通れ。ただし、怪しい動きがあれば、容赦なく引き戻すからな。行け!」
カイ団長が手綱を軽く引き、馬車が再び動き出した。
兵士たちの姿が視界から完全に消えるまで、馬車の中はまるで時間が止まったかのように静まり返っていた。しかし、兵士たちの姿が遠ざかり、見張りの目から完全に逃れたと感じた瞬間、緊張の糸がぷつりと切れた。
緊張が緩んだ瞬間、アリアの肩から少しだけ力が抜けた。
荷台の中で、他のメンバーもほっと息をついた。冷たい朝の風が、彼らの間を吹き抜ける。
アリアは深く息を吐き出した。
「よかった…本当に通れた…」
テリーも同じようにほっと息をつきながら、静かに言った。
「とりあえず、イノト国を出ることができたな。あの兵士たちには心底冷や汗をかかされたが…」
「でもアリア、あの言い訳には驚いたぞ!」
カイ団長が笑いながら振り返り、荷台の中にいるアリアに目を向けた。
「お前があんな口調で話すなんて、思わず笑いそうになったぜ!」
アリアも笑い声を漏らしながら応じた。
「ふふ、私も自分でびっくりしました。なぜかあんな言葉遣いが出ちゃって…」
リサが肩をすくめながら、柔らかく微笑んだ。
「でもそのおかげで助かったんだから、感謝しないとね。危うくここで捕まるところだったわ」
太陽がゆっくりと東の空に昇り始め、朝もやが消えていく。辺りが温かな光で包まれ、冷たい朝の空気が少しずつ和らいでいく。新たな一日が始まり、馬車はその光に導かれるように、次の目的地へとゆっくり進んでいった。




