4 新王様
窓の外から、微かに聞こえる鳥のさえずりが、夜明けの訪れを告げていた。
夜遅くまで読んでいた本が、床へ落ちる音が聞こえる。
アリアはまだ眠らせてほしいと、ベッドの上で身をよじっていた。
塔の外から低い音が響いてきた。
鐘の音だ。
アリアは耳を澄ませた。鐘が四回鳴る。
(なぜこんな時間に鐘が?…)
彼女はベッドから起き上がり、冷たい床を踏みしめながら窓へと向かった。
塔の上からは街の全景が一望できた。朝の薄明かりが街の屋根や通りをやさしく照らし出し、絵画のような風景が広がっていた。
アリアの目は自然と遠くの島に向けられた。
そこには一筋の灰色の煙が立ち上ってる。
(朝早く煙があがるなんて初めて見たわ…)
彼女は不安な気持ちを抑えつつ、塔の窓からもう一度、外の風景を眺めた。
朝の空気はひんやりとして、鼻を刺すような新鮮さがあった。
遠くから運ばれてくる海の香りと、街の中のパン屋から漂う焼きたてのパンの香りが混ざり合い、彼女の心を少しだけ落ち着かせた。
しばらく窓辺に立っていたアリアは、ふと時計を見て時間を確認した。
塔の中での彼女の日課が始まる時間が近づいていることに気づき、再び部屋の中へと戻った。汚れた靴を履き、閉ざされた先へ向かった。
「おはようございます、テリーさん」
「…やあ。もうそんな時間か」兵士のテリーはあくびをした。
「お願いします」
アリアがそう言うと、テリーが鍵を回した。
「時間に正確だな」
鉄格子の扉が開いた。
「はい。外に出れる時間は少しでも無駄にしたくないんです」
十代の女の子が自由になれる時間。それが朝の時間だけだなんて。
「お前も大変だな」
「大変?テリーさんの方が大変ですよ。眠いの我慢してお仕事だなんて」
「俺は起きていたぞ。ただ目をつむっていただけだ」
笑って二人は塔を降りていく。テリーだけはアリアと話をしてくれる。
「そういえば今朝、鐘が鳴ってましたよね」
「あぁ…王様が亡くなられたんだよ」
「…亡くなった?…」
「あぁ、お前、お会いしたことがあるんだっけ?」
厳しい目と髭面を思い出いだした。
「どうして?原因はなんですか?」
「『灰色病』になられてしまったんだ」
「…そんな!」アリアは驚いた。
「今朝の煙島の煙は、王様の…だったんですね」
王様の死を聞いた朝、アリアはいつものように外を駆け回る気にはなれなかった。
灰色病で亡くなるなんて、信じられなかったのだ。
「もういいのか?」テリーもそう言うくらいの短さで引き上げた。
塔の窓から外を見た。普段なら美しい景色も、今日は色を失って見えた。
食事の味も感じられず、心の中には重い石が残っているようだった。
ため息ばかりが増えていく。
「今後私はどうなるのだろう」
ここから出られる気配が一向になかった。
彼女は本を読んで気を紛らわせようとしたが、集中できなかった。
テリー以外の看守は、アリアとは一切口を利かない。テリーが当番の日まで誰とも話せず、孤独感がますます募るばかりだった。
そんなある夜、アリアが眠れずに本を読んでいると、突然、奇妙な声が聞こえた。
『うぅぅ…ぐぅぅぅ…』
まるで遠くから響いてくるような、低く唸るような声だった。
アリアは耳を澄ませた。
「…誰か…いるの?」
『…どうしたら…いい…私はどうすれば…いいんだ…』
その声はまるで地獄の底から這い上がってくるかのような、不気味な響きを帯びていた。
声は次第に遠ざかっていき、塔の中は再び静寂に包まれた。
アリアは冷たい汗をかきながら、看守の方を見たが、何事もなかったかのように立っている。
話しかけてもなにも無駄なことはわかっていた。
(動物の声?いや、動物じゃないわ)
アリアは動物と目を見て心をかわせないと、言葉がわかならい。
ではなぜ、言葉が聞こえるのだろうか。また新たな力なのか?
アリアの心には、恐怖と不安が入り混じった感情が渦巻いていた。
再び本に目を戻そうとしたが、集中できるはずもなかった。
アリアはいつも通り早く目を覚ました。
朝焼けの光が、建物の屋根や道を柔らかく照らしている中、町全体が何か特別な期待感に包まれているようだった。
王様の死から数日たった今、広場には、色とりどりの旗や装飾が美しく飾られていた。
「おはよう、アリア」と先に声をかけたのはテリーだった。
彼は今日の見張り役だった。
「テリーさん、おはようございます!」
アリアは元気よく返事をし、聞きたかったことを聞いた。
「お城で何かあるんですか?」
テリーはいつも通りの笑顔で鍵を開けた。
「ああ、今日はヴィクター王子の即位式なんだ」
「即位式?」
「そうだよ。今日、ヴィクター王子が、王様にご即位される。今日は警備も大変なんだ」
テリーの言葉に、アリアは「ふーん」と頷いた。
「それにな、今日は有名な大道芸人が来るんだ。俺も戦争が始まる前に子供と一緒に見たことがあってな。とにかく、技がすごくてな。綱渡ったり、輪っかとか投げ合って、面白いんだ」
テリーは、目を輝かせながら、両手を広げ、空中で輪っかを投げている仕草を見せた。
まるで子供のように無邪気な彼の姿に、アリアは思わず微笑んでしまった。
「テリーさんみたいなお父さんなら、子供も楽しいだろうな」
アリアの言葉に、テリーの表情が少し曇った。
「そうでもないさ…。お前のお父さんはどうだった?」
アリアは父ライルの事を思い出した。優しかったが今思うと、それは研究対象にしか思っていなかったからではと思った。
「…楽しい人ではなかったかな。…でもチョビ兄さんはすごく優しくて、色々な言葉を教えてくれました。医師を目指して本土の学校へ行っていたんです。母さんも医者なんですよ」
「そうか」
テリーはアリアの方に向き直り、優しく微笑んだ。
「でも、随分と会っていないから二人ともどうなっているのか…」
アリアの声には、一抹の寂しさが滲んでいた。
「まぁ、とにかく、今日は大道芸を見て楽しめよ!塔の上からなら広場の様子がよく見えるだろうからな」
「はい、楽しみにしてます」
その時、アリアは足をとめて、辺りを見回した。
「どうした?」テリー振り向いた。
あの低い声が聞こえる。
「……ヴィクター王子…頼りない……心配?」聞こえた言葉をそのまま声した。
「まぁそうだな。若くて色々と問題もあろうだろうよ。でも亡き王様がしっかりと教育されているだろうから心配するな」
……声が聞こえなくなった。
「ねぇテリーさん、何か聞こえなかった?」
「何が?」
「…いや、気のせいです」
塔の外に出ると、アリアは深呼吸をして、朝日を浴びた顔を上げた。
「やっぱり、外はいいなあ…」
アリアは、白詰草の群生に寝転がり少しの間だけその解放感に浸った。
しかし、心のどこかで、まだあの不思議な声が気になっていた。
アリアは頭を振って、考えないようにした。こういう時は、何かした方がいい。
「そうだ!」
アリアは草むらに座って何かをつくっていた。
すると目の前に、ふと影が落ちた。
「お前、何をしてるんだ?」
アリアは声の主を見上げた。若い男が立っていた。
テリーが近づいてきたが、男はアリアにわからないように、静かに手を上げて制した。
「あ、あの…白詰草の草冠を作ってます」
アリアは驚きながら、自分が作った草冠を見せた。
「それが冠?みすぼらしいな」
「…え?」
アリアは監視しているテリーを探した。テリーは遠くでこちらを見ている。
「あの…あなたは誰ですか?」
「俺?俺は…馬のエサをやりに来た…兵士だ」
男は答えた。
アリアは男の服装を見た。
シワ一つない、きれいな絹のシャツを着た兵士だった。
「…へぇ。朝から馬の世話なんて大変ですね」
「大変ではない。馬は優しいぞ。一度触ってみるといい」
アリアは少し困った顔をして、「えぇ、いつか」と答えた。
「いつかじゃなくて、今からだ」
と兵士が言った。
なんて馬鹿なことをいうのだろう。
「そんな事、できるわけないじゃないですか」アリアは言った。
「お前が、動物と話せることを知っている」
「…何のことですか?」
この兵士はやはり…。
「…あなた…兵士じゃないでしょう?もしかして…ヴィクター王子ですか?」
と尋ねた。
綺麗な服を着た兵士が微笑んだ。
「そうだ。どうしてわかった?」
「兵士はそんな綺麗な服を着ていません。それに私の情報を知っているのは限られているでしょうから」
「なるほど、そうか」とヴィクター王子は頷きながら、
「君はアリアだね。頼む、馬の気持ちを聞いてくれないか」と言った。
「私は…どんな動物とでも話せるわけではありません。目をみて心を通わせないと」
「今朝、馬が死んでしまう夢を見た。頼む。亡き王様が大切にしていた馬なんだ。最近元気がなくて、エサも食べようとしない。この馬まで死なれると僕は…」
ヴィクター王子の顔がゆがんだ。
「…わかりました。もし話ができなくても罰しないでくださいね」
「ありがとう!」
ヴィクター王子はほっとした表情を見せた。
「おい、そこの看守、お前はそこで待て!」
ヴィクター王子はテリーに向かって言った。
アリアはしょうがなく、白詰草の草冠を自分の頭に載せて、ヴィクター王子の後を静かに追った。
ヴィクター王子が馬小屋を案内すると、一匹のたくましい茶色い馬がいた。
「この子だよ。名前はスノウ」
名前を呼ばれたことに反応して、スノウがこちらを向いた。
「たてがみで隠れて見えないけど、ほら白い斑点があるだろう。これが雪みたいだから俺がスノウと名付けたんだ」
アリアはスノウに近づき、優しく首に触れた。
スノウの目を見つめ、静かに心を通わせようとした。
「こんにちは。私はアリア。あなたの気持ちを知りたいの」
と静かに話しかけた。
スノウはアリアの手を感じ、少しずつリラックスしていった。
スノウの目がアリアをじっと見つめ、何かを伝えてきた。
「王様が姿を見せないのがさみしい…」とアリアが言った。
「そうなのね…。でも王様は亡くなったのよ」
スノウは信じられないというように、何度も首を大きく動かした。
「でも大丈夫よ。これからは、こちらのヴィクター王子が来てくれるわ。そうですよね?」
「…あぁ、できる限りここへ来るよ」
ヴィクター王子はスノウの首を撫でた。
「良かったわね」
アリアがスノウに優しく触れ続けると、スノウはアリアの手に鼻をこすりつけ、なつくようにしてそのまま彼女に見つめた。
「え、そうなの?わかったわ。いいわよ」
アリアが頭にかぶっていたの白詰草の草冠を外して、スノウの前に差し出した。
スノウその香りを嗅ぎ、次の瞬間、それをパクリと食べてしまった。
「白詰草が大好きなんだって」
アリアは笑いながらスノウの首を撫でた。
ヴィクター王子もその光景を見て微笑んだ。
「君のおかげでスノウも安心したみたいだ。君は本当にすごい力を持っているんだな」
「ゴホン」咳が一つ響く。
アリアの体がビクッと驚いた。
振り向くと、いつの間にかテリーが馬小屋にいた。
「ヴィクター王子、そろそろ我々は戻らないといけません」
テリーが言った。
「本来なら、ここへ来るのも規則違反です。早朝なので人がいませんが、見つかったら大変なことになります。今後はどうかきちんと我々に申し付けてください」
「…そうだね。悪かった」
「それと…」まだ小言が続くのかと思ったが、
「新王様、ご即位おめでとうございます」
テリーが敬礼をし、アリアを外へ出るよう促した。
「どうか、新王様に幸運が訪れますように」
アリアもそう言って慌ててテリーの後を追った。
アリア達が見えなくなるまでその場に立ち尽くし、ヴィクター王子は自分に訪れるであろう未来に思いを馳せた。
「幸運か…。そんなもの来るわけがない」
その言葉は小さく、夜明の空に消えていった。