谷にかかる橋(こんとらくと・きりんぐ)
遠い海から吹いてきて、風の塩は徐々に抜けていく。
緑がさざなむ無人の原野を谷がふたつに切り分けている。
青い断崖は下れば下るほど白くなり、谷底にはチョークでひいた線のような風が蛇行していた。
ショートヘアの少女、または長髪の少年に見える殺し屋は後部座席にショットガンとビール、サンドイッチ、トランクには〈ブツ〉を積み、涙色のクーペを運転していた。黒いタートルネックのセーターに灰色のスラックス、上着をビール瓶の上にかぶせてあるので、ショルダーホルスターの銃とスローイング・ダガーがあらわになっている。
殺し屋は谷の西側の道路を走っていた。用があるのは東側である。谷を渡る橋がないかとずっと南へ運転している。
谷を挟んだ先、二百メートル離れたアスファルト道路の上を赤い大型の自動車が走っている。家族旅行らしく、西側に用があった。というのも、ハンドルを握る男がしょっちゅう西側を見てくるからだ。
ゴン! ゴン!
トランクの〈ブツ〉が目覚めて、音を立てる。
「うるさい」
殺し屋はハンドルを右に左に乱暴に切って、〈ブツ〉が気絶するほど頭をぶつけさせた。
依頼人との約束は確実に殺すために谷の上を渡る橋の真ん中から落とせというものだった。
確実性を重視するなら銃で心臓を撃って、ナイフで喉をえぐり出し、焼却炉に放り込むのが一番確実だと殺し屋は提案したが、このあたりの人間にとって、あの谷(つまり、現在、殺し屋の横に飽きもせず存在している大地の裂け目のことだが)あの谷で殺す、それも真ん中から落とすというのは、このあたりに住む人間にとって特別な意味がある。これはよそものには分からないと思うから、黙ってやってほしいと言われていた。
そう言われたら、殺し屋は分かりましたというしかない。
依頼人はこの谷の向こう、東側を先に走ったところにある都市に住んでいる。報酬もそこで受取だったから、橋がなければ、依頼人の希望も報酬もままならない。
だから、橋はなくてはならないのだ。
それは東側の道路を走っている自動車のためにもなる。
どんな目的があるか知らないが、彼らもまた用事があって、谷をこえたいのだ。
太陽が杏の光と紫の影をまき散らしながら西の地平へと転がり落ちると、谷を挟んで走る車はお互い、ヘッドライトが投げ出す光でしか分からなくなった。
夜の運転はたまった疲れでハンドルを誤りそうで、そんなことになったら、殺し屋は〈ブツ〉と心中になってしまう。橋はまだ見えない。
いい加減眠りたいと思ったところで、殺し屋は車を路肩に寄せて、エンジンを切って、ビールを二本飲んで、明日の朝まで眠ることにした。
そのとき、東側の道路を少し見たが、ライトは消えていた。
あの自動車も夜に休むことにしたのだ。
翌朝、殺し屋は起床すると、ホルスターを付け直し、ピーナッツバターを塗ったパンを食べ、パーコレーターでコーヒーを湧かし、カップをふって、コーヒー殻を捨てた。
東側の道路でも同じように朝食をとっていた。双眼鏡で見てみると、ベージュのセーターにハンチングをかぶった父親が妻と子ども――男の子と女の子をせかしている。
殺し屋もはやく仕事を済ませたいので、午前六時に出発した。
東側の道路の自動車も同じように出発した。
朝のなめらかな陽光が草原を満たし、見るもの全てが好ましく見える。ブリヤン草。廃屋。薄く望む山々。スピードメーター。吸い殻でいっぱいの灰皿。ワイパーの死角に残った雨の流れた跡。
吸い殻から一本取って、火をつけ、島のような雲がいくつも流れる青空の下に橋を見つけたのは出発から五時間経った、午前十一時だった。
アスファルトの道路が赤い鉄骨に支えられていて、たもとのプレートにはこの橋の建設費用のほとんどを寄付した大富豪を讃える詩が典雅な文字で打ちつけてあったが、それは感謝の念が詩そのものを駄文に変えてしまういい例だった。
涙色のクーペは橋へと曲がり、その中央で駐車すると、トランクの鍵を開けた。
二日前、殺し屋は〈ブツ〉を違法馬券販売事務所で見つけて、ショットガンの銃身でぶん殴ったとき、〈ブツ〉をパンツ一枚にして口と両手両足をガムテープでぐるぐる巻きにした。
トランクのなかの旅路で〈ブツ〉は口と足のガムテープを切って、水虫だらけの足で殺し屋を蹴った。
「わっ」
と、殺し屋が倒れているそばから、〈ブツ〉が
「助けてくれ!」
と、叫ぶのがきこえた。
立ち上がってみると、東側の家族旅行の自動車がもう橋に入っていて、数十メートルのところで停車していた。
〈ブツ〉は自動車へ走っていた。
だが、運転する父親は外に出て〈ブツ〉を助けるかわりにアクセルを踏み込み、〈ブツ〉を轢き潰すと、まっすぐ殺し屋に向かって走ってきた。
殺し屋はドアを開けて、後部座席のショットガンを引っぱりだすと、赤い自動車を狙って、発砲した。
フロントガラスが割れて、ボンネット横のスペアタイヤがもげ落ちた。
自動車の助手席から母親が片手を窓から出して、銃を撃ってきた。
引き金を引いたまま、槓桿を動かして、散弾を全部撃ち尽くし、さらにホルスターのリヴォルヴァーも撃ち尽くすころにはフロントグリルとライトが消え、剥き出しのエンジンが湯気を吹き散らし、頭の消し飛んだ父親がアクセルペダルを踏んだまま、ハンドルへ突っ伏し、車は殺し屋まであと五メートルのところで急ハンドルを切って、欄干を破って、谷底へと落ちていった。
ふたりの子どもを乗せたまま。
橋を渡って、三時間ほど走ったところで、ショルダーホルスターに銃を入れ、ショットガンを手に持った男たちが道路を塞いでいた。
「このあたりで赤い自動車を見なかったか? 家族で逃げてる連中なんだが」
「――見てないけど、なんで?」
「草原のど真ん中で宿屋をやっていた連中だが、金目のものを奪って客を殺して埋めてたんだが、それがバレて逃げた」
「悪いやつもいたもんだね」
「まったくだ」
殺し屋は指名手配書を受け取って、東の都市へと車を走らせた。