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ヴァンダリズム・シンフォニア!  作者: キタノタクト
第一楽章 輝けるセイザの下に――邂逅のソナタ
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6 錦弾正①

 警察というのは嫌な仕事だと思う。本当に。

 若い頃はこの仕事があんなに楽しかったのに、あんなに誇らしかったのに。その気持ちはこの頃すっかり失せてしまっていた。

 思い返せばあの夜だ。あの夜からすっかり全てが一変してしまったように思う。そう思うのは年を食ったせいだろうか。あの思い出は皆美化された思い出に過ぎなくて、他の事は皆忘れてしまっただけで、俺は唯一つだけ憶えているあの記憶を、あの夜を、全ての原因に求めているだけかもしれない。

 だとしても、彼は恨まずにはいられなかった。若い頃には若い頃の苦労があったのだとしても、あの夜が全てを変えたのは事実だ。俺を、世界を、そして彼女を……。

 (にしき)弾正(だんじょう)はじっと厳めしい瞳で以て隣席の彼女を見下ろした。小柄な少女だ。140cmを切っているだろう。資料には12歳とあったが、同年代の平均より随分と小さい。顔立ちもよく見れば、背と同じでまだ童の色をよく残している。しかし、幼い印象を受けないのは、それどころか大人びた感さえあるのは彼女の纏う独特な雰囲気のせいだろう。どこか達観したような群青の瞳、眉の位置で切り揃えられた艶やかな黒髪、やや伸びて肩口に触れそうな毛先は微かに萌葱に染まっている。

 美しい少女だと思う。もう初老を越えた弾正にそう思わせる程に彼女は大人びていた。そこに年相応の愛らしさやあどけなさはまるで無い。唯そこには静かな硬質な美がある。まるで絵画や彫刻のような、どこか不気味な美しさ……。この世ならざる物の持つ美。

 バケモノ。資料にあった形容を弾正は思い返した。なるほど、彼女は正にバケモノだろう。だから、こういう扱いも致し方ないのかもしれない。

 弾正はじっと彼女の向こうにある窓を見た。そこから外の景色は全く見通せないが、スモークフィルムで曇った窓の外側には金網が張られているはずだった。前に目を遣れば、運転席との間にも同じように金網が張られている。こちらはカーテンでしかと蔽われている。

 これは護送者。被疑者――つまり犯罪者を移送するのに使われる車輌である。

 中型バスを改造したそれに弾正と彼女の二人で座っていた。他にも席があるのにわざわざ彼女の隣に座るのは勿論逃亡防止である。

 彼女は犯罪者ではない。しかし、その扱いは明らかに犯罪者だ。それも殺人でも犯した重大事件の被疑者のような。年端もいかない少女をこんな物に載せて、まるで物のように移送しようとしている。そうだ、俺達は彼女を載せて移すのだ。彼女が自ら乗って移るのではない。そこに自発や自由意志は全く無い。その人権は明らかに制限されている。彼女は全然自由人ではない。しかし、それは許される。何となれば、彼女はバケモノだからだ。

 視線に気付いたのか、或いはずっと気付いていて、今思い立ったのか、彼女は小さな顔をこちらに向けた。「すまない」。思わず言いたくなる。だけれど、言うわけにはいかない。立場がある。何より、それはあまりに彼女に申し訳ない。「すまない」と謝られて、彼女がどうして納得しようか。況してや許してくれるはずもないのだ。「すまない」と本当に思うのなら、俺は彼女を解放してやるべきだ。しかし、それは叶わない。なら、せめて毅然としているべきだ。堂々としているべきだ。それが正義の代行者に相応しい振る舞いだ。たとい、間違っていても、それでも俺は正しくなければならない。社会の為に、秩序の為に、公共の為に、護るべき何かの為に、俺達は彼女を犠牲にするのだ。その自由を、その日常を、確かにあったはずの少年時代を、そしてあどけなさを――。ならば、せめて胸を張ろう。この不正義を正義と示そう。彼女が諦められるように。それがせめての誠実さだ。

「優しいんですね」

 不意に彼女が笑って、弾正は思わずドキリとした。ちらと窓に目を遣る。黒々とした窓に映った自分の顔は見事に峻厳としていた。これで良い。弾正はほっと安心するが、勿論これも顔には出ない。出さない。

「どういう意味だ?」

 厳かに問えば、彼女はまた笑った。やめてくれ、そんな哀しい顔で何を言うんだ。

 果たして、少女の言葉は哀しかった。

「だって、これ外してくれましたから」

 彼女は手首をくっつけて笑顔の前に掲げた。まるで手遊びで花を作るみたいな仕草だが、勿論意味するのはお遊戯ではない。小さな細い手首に嵌まっていたのはあってはならない物。警察官として任官したあの日、下げ渡された正義の象徴。――手錠だ。

「不必要だから外したまでだ」

「いいえ、嘘です。必要に決まってます。むしろ、不十分な位です。初めて会ったあの時が正しいんですよ」

 少女の言う通りだった。必要無いなんてはずは無い。本来はあれが正しいのだ。初めて会った時のあの姿が。ああではなくてはならないのだ。

 弾正は思い返した。初めて会った時の彼女を。拘束衣を着せられ、猿轡を噛まされて、腰縄を付けられて引き出されてきた彼女を見た時、弾正は思わず鉄仮面を崩しそうになった。それは警察官として20年に亘って奉職してきた弾正でも見た事が無い過剰な拘束だった。剰えそれが年端もいかない少女に対しての物など考えられなかった。その上、彼女は何の罪も犯していないのである。こんな不正義が許されるのかと心は憤激した。しかし、理性に照らせば、それは全く正当であった。彼女にはそうされるだけの理由があった。そして、彼女を取り囲む男達にはそうしなければならない理由があった。それは虐待でも何でもなく、必要に応じた物であったのだ。男達は彼女を心の底から怖れていた。だから縛った。そしてまた弾正も彼女を怖れねばならなかった。それが彼を懊悩させた。

 弾正は迷ったけれど、やはり理性より視覚の衝撃が強かった。白い衣と黒のベルトのコントラスト、そして何よりも冷たい床の上で揃えられた小さな足指。逃亡防止の為に彼女は靴さえ履かせて貰えなかったのだ。在り在りと現前した不正義を弾正は見過ごせなかった。怯えて命令を聞かない男達の代わりに、手ずから拘束具を外し、年に相応しい服を着させた。

 せめて、手錠くらいは。そう言って縋った男達の為に、つい昨日まで彼女の小さな手首は縛められていた。だが、それも今朝外した。拘束が必要無いはずは無かった。しかし、殊手錠については無用とも言えた。彼女がその気になれば、あんな物何の役にも立たないからだ。

 あの男達だって分かっていただろうに。しかし、彼らは安心したかったのだ。手錠が彼らの心を護ってくれた。そして、情けない事にそれは弾正も同じだった。今朝初めて手錠を外した時、すっかり拘束を解かれた彼女と相対した時、まるで緊張しなかったと言えば嘘になった。

「……錦さん。ありがとうございます」

 彼女がまたにこっと微笑んだ。「何がだ?」分かっていながら弾正は聞いた。言ってくれるなよ、そう願いながら。しかしやはり彼女は言った。「私を外に出してくれてありがとうございました」。

「まさかもう一度この都市(マチ)を自由に歩けるなんて思ってもみませんでした」

 ひょっとしたら。弾正は思った。これは彼女なりの嫌がらせなのかもしれない。そうだ。きっとこれは嫌味だ。自分にこんな仕打ちをした社会への怒りを彼女は俺に向けている。なら、甘んじて受けようと思った。しかし、辛いのも事実だった。心のどこか弱い部分がずっと突かれている。

「買い物も出来ましたし、お姉さんに都市(マチ)を案内出来ました」

「知ってますか? 私、この都市(マチ)、大好きだったんです。社会の授業で『自分のまち』っていう発表をした事があって、私、先生にすごく褒めて頂いたんですよ」

「あっ、そうだ。学校もです。最後に学校も見られて嬉しかったです。遠目だったけど……。本当にありがとうございました」

 その瞳は全く真っ直ぐで無垢だった。それがまた弾正を苦しませた。いっそ言ってくれ給え。詰ってくれ給え。恨んでくれ給え。その方がずっと救われる気がした。そして、救われたがっている自分を嗤った。どうして俺が救われよう? 楽になれよう? 彼女は誰にも救われず、永遠に楽になれないのに。彼女のような無辜の市民を救うのが俺の仕事のはずなのに。俺はこれから更に彼女を苦しめるのだ。

「……錦さんには沢山我が儘聞いてもらいました。でも、それも今日までですね」

 寂しげに笑って、彼女は顔を俯かせた。「我が儘」。その言葉が弾正を苛んだ。可愛い服が着たい。買い物がしたい。都市(マチ)を自由に歩きたい。学校に行きたい。そんな些細な事も彼女においては我が儘だった。ありとあらゆる自由は許されず、全ての権利は制限された。全ては社会の為に――。その大義の下、幼気な少女は犠牲になる。しかし、それも公共の安全の為なら、強ち非道とも言い切れなかった。彼女一人の自由の為に、1億2000万国民を危険に晒す事は出来ない。彼女はそういう類いの危険物なのだ。

 弾正は彼女の「やりたい」我が儘を殆ど叶えてやった。しかし、「やりたくない」我が儘はとうとう叶えられず仕舞いだ。そして、それが彼女の希求する最大の我が儘だろう事を思えば、弾正の胸はしくしく痛んだ。

 やむを得ないのか? 本当に……? 他に手段は無いのか……?

 湧き上がった疑念の水底に引き摺り込まれそうになった弾正を救ったのは携帯電話のバイブ音だった。弾正は我に返った。見れば、車外からの呼び出しだ。落ち込んだ心が引き上げられて、思わず助かったなんて思ってしまう。いつからかずっとそうだ。難しい事は考えないようにして、目を背けてる。俺は逃げ出している。悪から、正義から、そして自分自身から――。

 職務を言い訳にそんな自問からも逃げ出して、弾正は彼女に目を遣った。

 弾正が何も言う前に彼女は手を差し出した。手首をくっつけて、笑いながら。それを見て、弾正は思わず手錠に伸ばした手を止めた。

 今回の護送計画で彼女の正体を知っているのは、知って良いのは弾正しかない。他の警察官は皆彼女を少年ヴァンダリストだと思っている。テロリストに感化され、重大犯罪を引き起こした少年犯だと。誰も彼女がバケモノだとは知らない。この小さな体に核をも越えるような超常の力があるなど想像だにしない。

 だから代わりを呼ぶ事は出来ない。呼べば彼女の正体に感づくやもしれぬ。感づかずとも彼女が何か言うかもしれない。それはまずい。俺の責任問題になる。

 彼が車外に出ている間彼女は一人きりになる。従って、厳重に拘束する必要がある。決して逃げ出さないように。目を離しても問題無いように。

 理性的に考えれば、手錠どころかあの拘束衣でも手緩い。シートに縛り付けても良い位だ。分かっている。だけれど……。

 群青の瞳がじっとこちらを見ている。海のような青の向こうで彼女は何を思っている? 敵意も害意も、何の憎しみも感じさせない純真無垢な瞳が怖ろしい。弾正はじっと睨んだ。従順に差し出されたその両手。俺は……。俺は……。

「必要無い」

 そう言って弾正は立ち上がった。

「え?」

 見上げた瞳が大きく見開かれた。それを見ていられなくて弾正は顔を逸らす。

「すぐに戻る」

 背を向けたまま言った。

「錦さん」

 呼び掛けた声に弾正は振り返らなかった。何を言うか分かっていたから。


「ありがとう」


 その言葉を最後に櫛羅紬羽――“湖の乙女”は姿を消した。

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