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ヴァンダリズム・シンフォニア!  作者: キタノタクト
第一楽章 輝けるセイザの下に――邂逅のソナタ
5/32

4 星乃秤④

「秤ちゃん。正義の味方にならないかい?」


 怪訝な面持ちで秤はじっと目の前の男を見つめた。一体どうしてこんな話に? 秤は思い返してみる。

 紬羽と別れた秤は呼び出された喫茶店に向かった。そこにいたのがこの男だ。

 ピンクのシャツに茶革のアームバンドを着けて、袖を少し折り込んでいる。ネクタイは黒地に黄色の線が入ったレジメンタルだ。その服装がそもそも秤は気に入らない。気取った格好が癇に障る。しかし、それ以上に彼女の目に付いたのはその髪だった。もじゃもじゃの茶髪に幾つか銀髪が混じっていた。つまり、それは秤と同じ髪だった。カペラ、紬羽に続いて本日三人目。人生四人目の変な髪はやっぱり例に漏れず変な奴だった。やっぱり紬羽が例外なのだ。

 まだはっきりと確かめていないのだけれど、というかこいつは秤の顔を見るなり、いきなり意味不明の話を始めたので、名前すら分からないのだけれど、どうやら状況的にこいつが手紙の主と見て間違いなかった。だって、こいつは秤の顔を見るなりいきなり言ったのだ。「可愛くなったね、秤ちゃん。ああ、お父さんと同じ髪だ!」って。その時全身に立った鳥肌はまだ収まりそうにない。

「決して抜けないと言われていたモナコモンテカルロを皆当たり前のように抜くようになったという事実に、ボクは感動と同時に、一抹の寂しさを感じずにはいられないんだよね。車輌の発展、ドライバーの技能向上は素晴らしい事なんだけれど、その結果レースから戦略性が失われてるんじゃないかと。スペックとスキルに任せたラフなドライビングじゃなくて、もっと緻密なタクティクスのぶつかり合いというのが重大で、それは他の何よりもプライオリティが高いよね」

 何言ってんだこいつは。極めて冷めた目で秤は男を睨んだ。ゾクゾクすると同級生の一部に人気らしい秤の視線に、しかし男は気付く素振りすらない。もう我慢ならない。秤は「あの」と声を上げた。男は即座に返してくる。「ああ、ごめんよ!」。

「F1なんて君みたいな中学生は興味無いよね。ごめんごめん!」

 そうか、エフワン? の話だったのか。それが何なのかすら知らないが自分がそれに全く興味無い事はよく分かる。秤が頷けば、男は言う。

「やっぱり若い子はラリーだよね! ドリフトだろ!?」

 「は?」と言う間も無く、男は話し始める。次はダブルアールシー? の話らしい。秤は「あの!」と叫んだ。間を置かずに続ける。

「いい加減にしてください! 私を呼び出した用件はどうなってるんです!? 父の居場所を教えてくれるんじゃなかったんですか!?」

 秤の大声が店内に響いた。「あっ」と思って辺りを見回す、どうやら他に客はいないらしいが……。

「秤ちゃん。他のお客さんに迷惑だよ?」

 何とも言えない笑い顔で男が言う。殴りたい位うざい。秤は憎々しげに男を睨め付けるが、男は勿論気付かない。アイスコーヒーをずるずる啜って、それからバリバリ氷を砕く。もう、存在の全てが不快だ。俯いて耳を塞ごうとした秤だったが、次の言葉ですぐに顔を上げた。

「手紙の事だけどさー」

 無精髭の気持ち悪い口元をじっと見つめる。二の句は中々出て来ない。さっきまでの早口はどこに行った。秤の苛立ちが最高潮になった辺りで男はやっと言った。

「あれ、嘘だから」


「は?」

 随分と間を開けて、秤は言った。

 男は事も無げに言う。

「センパイの居場所を知ってるって書いたでしょ。あれ嘘だからね。キミを呼び出す為の口実さ。知るわけないよ。ボクが知りたいくらいさ」

「は?」

 次の声はすぐに出た。こいつは何を言ってるんだ?

 男はさして悪びれてもいない軽薄な笑みで言葉だけ謝る。

「ごめんごめん。でも、それくらい言わないと、キミは来てくれなかったろう? それは困るからね」

 秤はじっと男の顔を睨んだ。こいつが何を考えているのか、全然分からない。分かりたくもない。だけれど、分からないままでは困る。何と聞けばこいつの不可思議な頭の中が窺えるだろうか? 秤はよくよく考えてから聞いた。

「……本当の用件は何なんですか?」

 嘘を吐いてまで、呼び出したのだ。何か特別な用件があるはずだ。それはごくごく自然な推論に思われた。しかし、男はケロッとした顔で言う。

「いや、何って用があるわけじゃないんだよね」

 秤はもう言葉を失っている。意味が分からない。用も無いのに、人をこんな遠くまで呼び出した? どうかしている。

 大きな溜息を一つ、それから思い切り奴を睨み付けてやる。男がやけに長身のせいで上目遣いになるのが腹立たしい。

「私のことからかってます?」

 男は首を振る。「いいや、全然」。

「じゃあ、本当の用件を教えてください」

「いや、だからさ……」

 男は困ったように首を捻るが、どう考えても困らされているのはこっちだ。男は意味も無く腕を組み替えたりなんかして、それから言った。

「キミがここにいる。それだけでボクの用件は終わってるんだよ」

「は……?」

「つまり、ボクの目的はキミをこの都市(マチ)に連れてくる事であって、それ以外の何物でもないんだよ。強いて言えば、あの人の娘に会いたかったっていうのもあるけどね。でも、それはもう終わったから、キミはあの人の娘だけれど、あくまで娘であってあの人その物じゃないんだ。それはもう確かめたからいいんだ。一目で分かったもの」

 男はそう自己完結して、それから徐に手を上げて、コーヒーのお代わりを頼んだ。秤は大きく肩を落とした。何だかもう怒りすら失せてきた。やっぱり、あいつの友達なんて、あいつと同じような奴なんだ。自分勝手で、自己中心的で……。

「……反吐が出る」

「え? 何か言ったかい?」

 眼鏡の奥のエメラルドの瞳がこっちを見た。気持ち悪い。カラコンでも入れてるのだろうか。

「いいえ、何も!」

 秤は荷物をまとめて立ち上がった。もう顔を見るのすら嫌だった。

 そこに男が言ったのが、冒頭の台詞である。


「秤ちゃん。正義の味方にならないかい?」

 意味不明の言葉に秤は律儀に顔を向けたけれど、しかしそれは彼女を立ち止まらせるには及ばない。彼女を引き留めたのは続く二の句であった。

「お父さんみたいな正義の味方に君もなってみないかい?」

「……なにを言ってるの?」

 秤はじっと男を見つめる。興味を在り在りと表したその瞳に男は気色の悪い笑みを浮かべた。

「あれ? 知らないのかい? お父さんが何をやっていた。どんな人だったのか」

 秤は思った。きっとこいつは私をからかっている。だけれど、足は動いてくれない。悔しいけれど、私は気になっているんだ。あの人のことが。だから、この都市(マチ)に来たんだ……。

 秤はもう一度席に座る事を余儀なくされた。男はそれを満足そうに眇め見て、それから思い出したように鞄を取り出した。鰐皮の分厚いクラッチバック。世間一般に照らして趣味が良いのか悪いのか知らないが、少なくとも秤は嫌いだった。

 スキンヘッドの男がコーヒーのお代わりを持ってきてくれたのと、男がそこから一枚の紙切れを取り出したのは殆ど同時だった。掌大の紙片を男はテーブルに滑らせる。くるくる回りながら紙切れが秤の前にやって来た。そこに書かれたのは気取った筆記体。つまり、それは多分名刺だった。勿論秤には読めないが。

 怪訝な顔で男を見上げれば、男はにやっと笑って、紙片をひっくり返した。

 「室長 有栖那由多」。読めない。秤が眉を顰めれば、男は笑った。

「『ありすなゆた』ね。どうせ皆読めないからさ。ローマ字の方を先に見せるようにしてるんだ」

 そっちも読めないんだから意味無いだろと思いつつ、秤は名刺を読み進めた。左に小書きされた文字「内務省国土局防災部異能災害対策課つかさのみや分室」……。

「内務省?」

 秤は怪訝な声を上げた。つまり、こいつは役人で官僚ってこと? 軽薄な笑みとそれらの単語はしかし全然結び付かない。

「あれ? 君も内務省がお嫌いな人? 無理も無い、創設当時から色々言われてるからね。軍国主義への回帰とか、鵺の復活とか。まあ、何をやってるか分からない怪しい組織って事はボクも否定しないよ。ただ、一つ言わせて欲しいんだけれど、新生内務省は警察を所管していない点で戦前のそれとは一線を画すし、何よりボクら国土局の母体は旧国土庁や旧建設省だし、その中でも防災部は全然メインストリームじゃないし、異災対は特に窓際だから、そんなボクらに軍靴の足音とか言われても困っちゃうんだよね」

 どうやら、有栖は秤の怪訝を別な意味に解したらしい。意味の分からない弁明を秤は勿論聞き流した。女子中学生の中でも割とアホな方である秤は、そんな中央省庁に纏わる話なんてまるで知らない。軍国主義とか、鵺とか言われても何が何だか分からない。

 ただ、秤に分かるのは内務省が省庁であって、そこに勤める人が俗に言う高級官僚だという事だけだ。その事実が秤に強烈な違和感を与えた。この男が内務官僚だというのもまず気になったが、それ以上の違和感だ。自分の父がこの男の「センパイ」だという事。それはつまり……。

「あの人は……父は官僚だったんですか?」

 それはごく普通の推測に思われた。しかし、有栖はそれを鼻で笑う。

「まさか! センパイが官僚だって!? ジョークだとしたら相当寒いぜ?」

 秤は一層眉間の皺を深くして言った。

「普通そう思うんじゃないですか? 官僚のあなたの先輩だったなら」

「あー違う違う。センパイはボクが官僚になる前にセンパイだったんだよ。ボクの昔話とかする? 大分長くなるけど……」

「結構です。あなたの話なんて興味ありません」

 即座に断った秤に有栖はまた気色悪い笑みを浮かべた。ねとっとした視線が舐めるように秤を見つめる。

「なんです?」

 嫌悪感に思わず声を荒げた。有栖はすぐに答えない。勿体ぶったようにコーヒーを啜る。どれくらい経ったろうか。10分以上だったようにも思われるし、本当は1分も経っていなかったかもしれない。とにかく苛立たしい程に焦らしてから、有栖はやっと口を開いた。

「『あなたの話なんて興味ない』。つまり、センパイの事は気になるんだね」

 ドキリとした。「別に……」。思わず言った言葉が更に墓穴を掘るのに秤は気付かない。有栖はケラケラ笑う。

「嫌いなのに、軽蔑してるのに、でも気になって仕方ない。キミは今でもパパが大好きなんだね。幼い頃と同じで」

「好きじゃありません! あんな奴……」

 ぎゅっと噛みしめた唇、脳裏に蘇るあの背中。お母さんはあいつのせいで……。

「――小さい頃だって、好きなんかじゃなかった」

「強がりだね。キミがどんなにパパに懐いていたか。ボクはよく覚えているよ」

「覚えてる……?」

 有栖の顔をじっと見つめる。だけれど、心当たりは無い。

「嘘だ。私はあなたなんか知りません」

「それは若年性健忘という奴だ。ボクは幼いキミを良く覚えているよ。キミはボクの膝で粗相したんだぜ?」

「嘘だ」

 秤は強い目で言った。嘘に決まっている。そうに違いない。無根拠な確信に彼女は支えられている。睨め付けた秤を見つめ返して、有栖はまた余裕ぶった笑みを見せる。

「嘘なら嘘で良い。キミがそう信ずるなら、それはそうなんだろう」

「――それで、その大嫌いなパパの話を、それでもキミは聞きたいかい?」

 心がざわめいて、秤はもう立ち上がっていた。すっかり頭に血が上っている。全く男の掌の上だ。からかわれている。それを自覚しながらも、だけれど、若い激情は止まってくれない。

 有栖はもう引き留めない。それに更に腹が立つ。

 ボックス席を飛び出してから、伝票に気付く。男に押し付けたって良かったけれど、それは癪だ。怒りのままに引っ付かめば、有栖が言った。

「いいよ、ボクが払うから」

 勿論秤は持ったまま歩き出す、レジスターの前に立てば、スキンヘッドの厳つい店主が顔に似合わない苦笑いをしながらやって来た。伝票を押し付けるようにして渡す。

「ねえ、キミ」

 突然の声に飛び上がりそうになる。振り向けば、すぐ真後ろに有栖が立っていた。にやけ面が気持ち悪い。後、距離が近い。話し掛けるな、後ろに立つな。有栖を睨みながら、じりじりと距離を離そうとするが、狭い店内ではそれは叶わない。ああ、鳥肌がやまない。

 勿論、そんな秤の心中なんて気にもしないで有栖が訊いてきた。

「キミってさあ、正義って何だと思う?」

 質問の意図も意味も分からない。ただただ気持ち悪い。無視したかったがそれも逃げるみたいで癪だし、店主は不慣れなのか全然会計を終わらせられない。ガチャコンガチャコン、引出しが開いたり閉まったりを繰り返す。拠ん所なく、秤は有栖に背を向けたまま言った。

「質問の意味が分かりません」

 有栖はすぐに返してきた。

「直感で良いさ。何となく思う事を言ってごらんよ」

「……大事な物だと思います」

「大事?」

「ええ、とても大事な物です。どんな事も正しくなくちゃいけないと私は思います」

 有栖は「ふぅん」と興味なさげだ。お前が訊いたんだろと思うが、もう諦めている。

「じゃあさ、強さってなんだろ? 力ってキミにとって何?」

 またまた質問の意図が意味不明だ。そして、まだ会計は終わらない。さっきから出続けているその長い長いレシートは大丈夫なのか? 店主は落ち着き払っているが、多分それは大丈夫じゃないんじゃなかろうか。秤は溜息を一つして、仕方なしに口を開いた。

「さっきと同じで直感で良いんですか?」

「ああ、いいさ」。有栖はやっぱり即答だ。

 秤は今度はちょっと考えてから言った。

「それも大事な物じゃないですか」

「大事?」

「だって、どんな物も強さが無くちゃ、力が無くちゃ成立しませんから」

「なるほど、力無き正義は無力である。かい?」

「ええ、そうですね。どんな正しい事もやっぱり力が無くちゃ通りませんから」

「なら、正しくない力はどうだろう?」

 秤は即座に言った。「それは暴力でしょう」

「正しくない力は悪ですよ」

 有栖は何故かケラケラ笑う。苛立ちと共に振り返れば、有栖は言った。「キミはパスカルかい?」。誰だよそいつはと秤は思った。秤の怪訝な面持ちを見て、有栖は言う。

「パスカルだよパスカルだよ。アライグマじゃないよ」

 ますます意味が分からない。アライグマって何だよ。何が面白いんだ。直後、レジが轟音を響かせた。振り返れば、小銭が散乱している。レジスターを見る限り、どうやら勢い良く開いた引出しが中のお金をぶちまけたらしい。大きな体を屈ませて、太い指で店主が金を拾っていた。秤は体を屈めて拾うのを手伝った。店主は申し訳なさそうに禿げ頭を伏せる。どうでもいいから、早く会計を終わらせて欲しい。

「……じゃあさ、キミはさ」

 有栖はまだ質問を続けるらしい。上から声が響く。お前も拾うのを手伝えよと思うが、言う事はしなかった。言ってもどうせこいつはやらない。そんな気がする。

「キミはヴァンダルをどう思う?」

 百円玉に触れた指が暫時止まった。ヴァンダル……。異能の力を奔放に振るって世界を乱す悪い奴らだ。

「……どうって、悪い奴らだと思います」

 秤はそのまま答えた。百円玉は中々掴めない。

「彼らには正義が無いから?」

「ええ」

「ヴァンダリズムは正義じゃないかい?」

「……あれは間違ってます。正義なんかじゃない」

 まだ百円玉は掴めない。つるつるとした床の上を右に左に滑っていくばかりだ。

「ならば、“不破プロジェクト”が正義かい?」

「なんですそれ?」

「最近の中学はそんな事も教えないのかい? 異能能力者――レックスを兵器として運用するって奴だよ」

「ああ……。あれも間違ってます。人間を兵器として使うなんて」

「じゃあ、キミはレックスをどうするのが正しいと思うんだい? 彼らという力に具えられるべき正義とは何だろう?」

 秤はちょっと考える。考えながら、指は百円玉と格闘している。爪で引っ掛けようとするのだけれど、中々取れない。やっと爪が入ったと思ったら、くるっと引っ繰り返ってしまった。数字の書いてある方が隠れて、花の描いてある方が上を向く。

「表向いちゃったね」。有栖が言った。変な言い回しだ。何で表? 裏じゃないのって思うけれど、無視して秤は質問に答える。

「レックスに正義なんてあり得ません。存在自体が間違ってますから」

「どういう事だい? キミは力は必要な物だと言ったじゃないか」

「あれは間違った力です。改造手術で手に入れた力でしょう」

 レックスは何やら違法で危険な改造手術によって人為的に生み出される存在だと秤は聞いていた。テロ組織が非道な人体実験の末に手に入れた技術で、一人のレックスを生み出すのに数多の犠牲が必要だと。そんな力は間違っているに決まっていた。

 しかし、有栖は不満を露わにした。まるで子供みたいな口調で文句を言う。「さっきと言っている事が違うじゃないか」。秤は大きく溜息。

「間違った方法で得られた力は当然間違ってます」。何だか子供を諭すみたいな口調だなと自分で思った。しかし、その子供はやはり納得しない。「じゃあ」とお決まりの言葉が聞こえてくる。

「じゃあさ、それがもし正しい方法で得られた力ならどうだろう?」

 百円玉に触れた指がはたと止まった。正しい方法?

「もし、もしもの話だよ。遺伝子改造なんてのが大嘘で、真っ当な修行だったり、或いは全くの偶然だったりにして得られた力だったら、どうなんだろう?」

 やっと百円玉が掴めた。拾い上げて見回す。もう他のお金は全部拾ったみたいだ。秤は立ち上がって、店主にそれを渡した。スキンヘッドがぺこりと会釈する。会計はもう出来ているようでレジスターに330円と表示されている。二人分にしては安いなと思いつつ、500円硬貨を差し出した。お釣りとレシートを受け取って、ポケットに押し込んだ。もうここにいる意味は無くなった。

「だとしても間違ってます。レックスの異能はあまりに強すぎますから。あれはもう暴力です」

「過ぎたるは及ばざるが如し?」

「そういうことです。あんな力を望むこと自体が間違ってる」

「なるほど、中庸が大事ってね。正しくそれは真理だね」

 訳知り顔で頷く有栖は放って、外に足を向ける。飴色のドアノブを握って、扉を開けた所でまた問いが飛んできた。

「じゃあさ。レックスが正しくなるにはどうしたらいいだろう?」

 仕方なしに足を止める。逃げたみたいになるのは嫌だった。

「レックスは強すぎる。だから間違っている。強さは大事な物だけれど、何事にも限度がある物だ。過ぎたる力を求める事は悪だ。キミの論理は理解した。しかし、レックスは弱くなるわけにはいかない。彼らはそういう風に生まれてしまっているのだから。彼らは存在するだけで周囲を傷付ける。キミの言うように、強すぎるからね。カグツチが母イザナミを殺してしまったような物さ。彼らはそういう風に宿命付けられてしまっているんだよ。じゃあ、キミはどうする? 彼らを殺すかい? まるで父イザナギのように、生まれてきた罪でカグツチを――彼らを斬るのかい?」

 早口の文句は要領を得なかった。秤は怪訝な顔で振り返る。

「何を言っているのか、よく分かりません」

「分からないなら分からないで良い。分からないまま答えなよ。どうせこの世界は分からない事だらけだからね」

 芝居がかった仕草で肩を竦めてみせる有栖に秤は更に眉間の皺を深くせざるを得なかった。徹頭徹尾意味不明だ。そういう風に生まれてしまったという言い回しも奇妙だ。レックスは自分で望んで力を得たのだろう。ならば、彼らの罪は生まれてきた事ではない、超常の力に手を出した事だ。

 だけれど、それを指摘するのは議論から逃げ出すみたいで嫌だった。負けず嫌いと生真面目さという彼女の美点はしばしば彼女を困らせる。黙り込んでいると、有栖は嘲弄するようにせっつく。

「どうしたんだい? 答えなよ。間違ってる位に強いレックスが、それでも正義を具えるにはどうしたらいいだろう?」

 大きな溜息を一つして、秤は口を開いた。こいつの存在それ自体も鬱陶しいが、こんな有栖に馬鹿正直に付き合っている自分もまた腹立たしかった。苛立ちながら秤は言った。

「不可能です。最初から間違っているレックスが正しくなるなんて。レックスは存在それ自体が悪ですから」

「ふぅん」。有栖はやっぱり興味なさげだ。「ただ……」。気付けば言っていた。

 男の無関心に腹が立ったのではない。自分の言葉が嫌だった。苛立ち混じりとはいえ、それなりに考えて出した結論だった。考え無しの秤なりに、だが。だけれど、口に出してみると、無性に哀しかったのである。それはあんまりにも寂しい。何か、何か付け加えたい……。

「正しくあろうとする人は、それだけで十分すぎるくらい正しいんじゃないですか。たとえ間違っていても……。正義を求めるその心はきっと既に正しい」

「へぇ」。嘲りを孕んだ有栖の声に、はっと気付いて赤面する。何かすごく恥ずかしい事を言ってしまった気がする。誤魔化すように言った。「とにかく!」。

「とにかく、私はもう失礼しますから」

 まだ何か言われるかと思っていたけれど、意外というか何というか男はもう何も言わなかった。それが何だか拍子抜けで、秤は得も言われぬ感情を感じながら外に出た。盆地特有の生暖かい風が頬を撫ぜる。先頃までは気にならなかったこの街の気候がまるで違って感ぜられた。何だか酷く苛々する。そもそも、なんでこんな街に来ちゃったんだろう? 全くとんだ徒労だ。

 大きな溜息を吐いて、秤は頭を切り換える。このままじゃ本当に無意味だ。せめて何か意味のある物にしたい。悔いるのは彼女の趣味ではなかった。

 そうだ、ごはんだ。と秤は思い付く。ごはんを食べよう。何かとっても美味しくて素敵なランチを。秤は早速スマートフォンを取り出した。偉大なる人工知能“つかさネット”は驚くべき事に秤の空腹も把握していた。スマホを開いた途端、彼は昼食を勧めてくる。薦められたのは駅の裏手にある豚骨醤油ラーメン屋。ニンニクたっぷりの奴。勿論秤の大好物だ。思わず涎が出そうになる。

 もう秤はすっかり有栖の事を忘れている。彼との遣り取りももうすっかり消し飛んでいた。

 秤は猛然と駆け出した。頭の中にはすっかりラーメンの事しか無かったのだ。彼女はこう思っている。私はラーメンが食べたかった。だから、自分で昼食にそれを選んだのだと。その確信に彼女は一片の疑義も挟まない。

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