3 星乃秤③
「すごい! すっごい! すーっごい!」
貧困な語彙を体全体で補って、秤は体全体で喜びを表した。遠巻きに冷たい視線が注がれ、傍らの紬羽は恥ずかしそうに苦笑いをしていたが、そんな事勿論秤は気にしない。気付きもしない。彼女の双眸はこの素晴らしい都市だけを見ていて、他の何も見てはいなかった。
紬羽が案内してくれた都市はどこもどれもすごかった。服屋に入ればAIが似合いの服を選んでくれるし、おまけにどれも体にぴたりと合う。カフェに入れば、給仕はロボット。AIで好みを判定してお勧めのコーヒーを運んできてくれる。秤には勿論とっても濃いエスプレッソ。可愛らしいホログラムの顔をした観光案内AIはとっても丁寧で親切だし、交番から飛び出してきた巡回ロボットも愛嬌がある。ロボットにドローンにAI、まだ外では珍しいそれらがこの都市には溢れている。無人化、機械化、省力化。21世紀の政策課題の凡そ全部をこの都市は既に達成し尽くしている。田舎育ちの少年のあどけない心は文明の刺激に沸き立った。
「溶けちゃいませんか?」
紬羽に言われて秤は自分がアイスクリームを食べていた事を思い出した。都市を歩き回るのに疲れて、街角のベンチに腰掛け休んでいたのだ。そこに小っちゃなロボットがタイヤをカタカタ言わせてやって来てアイスクリームを勧めるから、何も考えずに買ってしまった所であった。
秤は紙のカップに入った丸いアイスをスプーンで豪快に抉り取った。何とも言えない暗褐色――彼女はそれをどどめ色と呼ぶ事を知らない――のアイスは秤好みのケミカルな味付けだった。何で出来ているのか何て想像だに怖ろしい。化学的で退廃的な魔性の味。鼻を突く薬臭さが何とも心地良い。この彼女の他には到底誰も好みそうにない――と言うより口に入れる事さえ厭いそうな味付けは勿論たった今AIが選んで作ってくれた秤専用である。
「美味しい、ですか?」
怖ず怖ず尋ねる紬羽に秤は満面の笑み。
「うん! 食べる!?」
目を爛々と輝かしてスプーンを差し出す秤を紬羽は何とも言えない顔で見つめる。ちょっと困ったような笑顔だ。勿論その原因は明らかに奇異なアイスクリームの味付けにあるのだけれど、自己の味覚が異常な自覚の無い秤は当然それに気付かない。きょとんと小首を傾げ、「食べないの?」。結局、紬羽の方が折れて口を開いた。それに相当な勇気が要ったであろう事になど勿論秤は気付かない。彼女は躊躇無くスプーンを突っ込んでいる。
紬羽は一瞬目を見開いた。可愛らしい顔が青くなって、大きな瞳が秤を見上げる。
「美味しい?」
秤は無邪気に聞いた。アイスクリームとしては異常な程長い時間を掛けて、それを咀嚼した紬羽は何とも言えない顔で笑った。秤にはその裏にある真意がよく分からない。美味しくなかったのかな? なんて思いながら、もう溶けかけたどどめ色をスプーンで掬う。うん、やっぱり美味しい。
「楽しいですか? この都市は」
紬羽が発した不意な問いに秤は大きく肯いた。
「もちろん!」
快活な秤にしかし紬羽は怪訝顔だ。「本当ですか?」。わざわざ念押しする紬羽に鈍い秤でも違和感を覚えた。しかし、それでも秤は深く考えない。自分の心に満ち満ちる気持ちを言葉にするのに何の躊躇いも要らなかった。秤は再び大きく肯いた。
「楽しいよ。とっても」
混じりけ無しの笑顔を見て、紬羽はやっと疑念の色を消した。
「……そうですよね。楽しいに決まってますよね」
その顔に一条差した影に何か言おうとした時、何かが視界を遮って、言葉を留まらせた。見上げれば、やはりそれは件の大男。男は低い声で言う。「時間だ」。
秤は抗議の目を向けたけれど、紬羽は素直に頷いた。
「お姉さん、私も楽しかったです」
「行っちゃうんだ……」
「はい、時間ですから……」
紬羽はにこっと微笑んで席を立った。「じゃあね」。秤は短く見送った。小さな背中が離れていく。
「ねえ!」
秤は思わず呼び止めていた。紬羽が振り向くより先に言葉が出ていた。
「なにが見たかったの?」
戸惑う紬羽に秤は続ける。
「双眼鏡でなにを見るつもりだったの?」
なんでこんな事を聞くんだろう。秤は自分で不思議になった。しかし、聞かずにはいられなかったのだ。聞かなければならない気がした。
妙な問いに紬羽はああと頷いた。「もういいんです」。
「見たかった物はもう見られましたから」
「見たかった物?」
秤の問いにもう紬羽は答えない。代わりにじっと秤の顔を見つめて、クスッと微笑を浮かべた。
男の咳払いが紬羽を急かした。秤は勿論条件反射で男を睨み付けたけれど、最早刻限は伸びないようだった。
「……秤さんの髪。私はとっても好きですよ」
その笑顔の可憐さに秤はと胸を打たれた。純なる言葉は固い胸を溶かし掛けた。されど、すぐに記憶の池沼から噴き上がった暗黒がそれを阻んでしまう。
「そんなことないよ……」
こんなの間違ってる。普通じゃない。普通じゃないから、だから綺麗であるはずもない。好かれるはずもない。常人離れした紬羽の容姿に惹かれながら、しかし秤は自身のそれは憎んでいた。その自家撞着を解く術を少女はまだ持たない。だから、彼女は頑ななままだった。
「そんなに自分を嫌わないで下さい」
秤は俯いた。無理だよそんなの。だって、この髪は……。あの人の……。
子供染みた秤を大人びた眼差しで見つめて、紬羽は別れの言葉を言う。
「……お姉さんの旅が良い物で終わりますよう。無事に元あった場所へ帰れますよう。お祈りしております」
紬羽はとうとう行ってしまった。
言葉の裏に潜んだどこか蕭然とした蔭の色。聡い瞳の端に僅か残った悲哀の色。それらが秤に嫌な印象を残した。
しかし、ともかく紬羽は行ってしまった。だから、秤はもうそれを考えるのはやめた。過ぎ去った事に拘るのは彼女の趣味ではなかった。
秤はふとあの新幹線の少女――カペラを思った。そして、先頃別れた紬羽とを比べた。二人は全然違っていた。だがしかし、どちらも酷く大人びていた。年相応の幼さが彼女達に無いのはどうしてなのだろう。それは元来の物なのか、或いは何かの事由がそれを失わせたのか。二人がどちらも引き摺っていたあの蕭然とした影が果たしてそれと関連するのだろうか。
秤はそんな所を全く感覚的に捉えて、感性のままに扱った。しかし、言語化され得ぬそれらは感性の域を出でる事無く、思考の俎上に載る事は無かった。秤は二人に思いを馳せたけれど、しかしそれは全く思いのままに終わり、秩序立った考えに昇華される事は無かった。
きっと少女達には少女達の事情があった。そして、秤には秤の事情があった。両者は懸隔していて、二度と交わる事が無いように思われた。だから、秤はもう深く考える事も思う事も無かった。
そしてそれは一般の常識に照らして全く正当な論理であったのである。とにかく今この時までは。