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ヴァンダリズム・シンフォニア!  作者: キタノタクト
第一楽章 輝けるセイザの下に――邂逅のソナタ
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1 星乃秤①

 思春期の少女というのは大抵父親を嫌う物だろうけれど、殊彼女――星乃(ほしの)(はかり)の場合はその厭悪は並みの物ではなかった。父という言葉を聞くだけで、こめかみがひくつき、漆黒の瞳により一層黒い影が差した。無理もない話である。何せ、彼女の父は母を殺した男なのだから。

 殺した。という言葉が正当でない事は秤だって理解している。そうだ、母は勝手に死んだのだ。分かってる。だけれど、分かりたくない。認めたくもない。強がって母を嗤ってみた頃もある。いつまで待っても来ぬ人を当ても無く待ち続けた愚かな人。だけれど、だけれど、やっぱりそれは辛い。強がりの言葉を吐けば、胸の奥がしくしく痛む。だから、やっぱりこれは嘘なんだ。

 だから、母は悪くない。しかし、一方的に被害者だと言うのはやっぱり胸が痛む。だから、母はやっぱり勝手に死んだのだ。そして、やっぱり父は母を殺したのだ。母は馬鹿な人だったかもしれない。だけれど、母は悪い人じゃなかった。それに付け込んだあいつよりずっと綺麗な心をしていたのだ。

 そんな風にどうにか押し込めていた複雑な感情がとうとう溢れ出す原因になったのは突然やって来た奇妙な手紙だった。母がまだ元気だった頃――もう5年近く前になる――に暮らしていたあのマンションのポストに入っていた物だと聞いた。勿論、秤はもうとうにあそこにはいない。だから、届くはずの無い郵便物なのだけれど、住所も郵便番号も書かないで、ただ「星乃秤ちゃんへ」とだけした宛書を見るとどうやら送り主は直接ポストに入れたらしかった。その迷惑な郵便物を現居住者に見せられた管理人が秤達一家の事を思い出して、秤の法律上の保護者になっている叔母の所へ転送してくれた物が、またまた転送されて秤の暮らす私立中学の寮にやって来たという事らしい。

 「お父さんの居場所を知っています」。それが文面の全部だった。妙な癖字で書かれたそれを見た途端、秤に猛烈な厭悪が込み上げた。押し込めたはずの記憶が飛び出してきて、彼女の心を掻き毟る。

 父は失踪して久しかった。病気の母を置いて、あいつは家を出て行ったのだ。引き留めた秤を乱暴に振り払ったあの無骨な手を秤はしかと覚えている。あいつの後ろ姿は確かに思い出せた。足首まであろうかというベージュのトレンチコートに、浅く被った中折れ帽。くたびれた襟足には秤と同じ金の髪が混じっていた。あの景色は嫌な位に克明なのに、あいつの顔は全然出て来ない。思い出されるのは何もかも後ろ姿ばかり。それが妙に悔しくて、そんな自分が嫌になる。

 艶々のA4紙の末尾には日時と住所。この日にここに来いという事だろうか。何とも不躾な手紙だった。「秤ちゃんへ」という宛名からして不躾だ。というか、不気味だ。気色が悪い。気付けばぞわぞわと鳥肌が立っていたのを秤は覚えている。

 思えば、あんな手紙。信用する方がどうかしている。女子中学生の部屋に直接投函された差出人不明の呼び出し状。考えれば考える程、変質者の臭いしかしない。なのに、秤はのこのこと呼び出しに応じてやって来てしまった。

「はぁ……」

 車窓を流れる景色を見つめながら、秤は大きな溜息。やっぱりやめとけば良かった。

 北関東の田舎町にある寮を出て、バスで私鉄駅まで。そこから特急に乗り込んで、地下鉄直通で新宿駅へ。そこから更にエスカレーターで地下へ下って、面倒な審査をパスして、ようやく新幹線ホームへ、そこから乗り込んだのがこの車輌。抉れたみたいに尖った頭が特徴のリニアモーターカー。中央新幹線――東京は新宿から山梨を経て南アルプスをぶち抜き名古屋へと至る夢の新路線だ。目的地はつかさのみや。副首都計画によって作られた計画都市である。そこが手紙の相手に呼び出された場所だったのだ。

 つかさのみやは日本の中の独立国家とまで渾名される街であるから、“入国”は中々面倒だ。何せ査証がいる。予め申請を行って審査に通らないと新幹線への乗車さえ許されない。さっき秤が通ったのがそれだ。そして、新幹線に乗り込んだ後も面倒だ。降りてからまた審査を受けなければならない。手荷物検査も乗車前と駅を出る時の二回あり、どちらも非常に厳重。対ヴァンダル、対ヴァンダリストのモデル都市として新しく作られた街だから、当然テロ対策は厳重なのである。残念ながら対策の効無く、テロ事件は度々起きているようだけれど――。

 市民の招待があれば、審査は随分簡単になるらしいのだけれど、呼び出しの相手はそれをしてくれなかった。当然だろう。名前すら書かない奴である。だから、秤は自分で申請を行って、審査を受けて、そうしてどうにかこの日までに観光ビザを間に合わせたのである。一体何故そこまでして、どこの誰かも分からない相手に、それもあんな人の居場所を聞きに行かなきゃならないんだろう。秤は本日何度目か分からない溜息を吐く。

 窓の外の景色が徐々にゆっくりになっていった。リニア特有の慣性を感じさせない急減速で車輌がホームに滑り込んでいく。新相模原のアナウンスが流れて、車輌が停止する。降りる人は誰も無いが、何人かが乗り込んできた。その内の一人、長い髪をした少女が秤の前で立ち止まる。日本人離れした亜麻色の髪の先に、幾つか赤い房が混じっている。染めたのではない。直感的にそう思った。自分と同じ、奇妙な地毛……。西洋人形めいた少女の美貌も手伝って、暫し秤を硬直させる。

「邪魔なんだけど。どいて」

 少女の言葉に秤は「あっ」と気付く。秤の席は2列シートの通路側、つまり少女の席はその奥の窓側で秤が退いてあげないと座れないのだ。無遠慮な物言いにちょっとむっとしながらも、秤は立ち上がった。気が付かなかった私が悪いけど、そんな言い方しなくても良いじゃないかと心中でぶーたれている。新幹線なんて乗ったの初めてなんだから。自分の座席を探すのだってちょっと大変だったんだぞ。

 少女は勿論礼も言わなかった。黙って秤の前を通り過ぎて、無言でリクライニングを倒す。手に持っていたカップを窓辺に置いて、ポケットからスマホを、鞄からコードを取り出して、アームレストのコンセントで充電し始めた。何だかすごく慣れている。それが田舎者の秤には格好良く思える。

「なに?」

 視線に気付いた少女がこっちを睨む。秤は慌てて視線を逸らした。「なんでもない」。そうは言うものの何だか悔しい。馬鹿にされた気がする。

 こっちは新宿から乗ってるんだ。相模原より都会なんだと意味不明な言説を唱えて、自分を落ち着かせる。この子の事は無視しよう。さっきまでと同じに、普通にしてれば……。そう思って、車窓に目を遣れば、また少女と目が合った。「なんなの?」と小馬鹿にしたように笑われて、むっとしてそっぽを向き直す。お前の方を見たわけじゃない。私は景色が見たいんだ。しかし、そう主張するのも何だか子供染みていて憚られたし、何よりも少女の顔を視界に入れながら、先程までのように無心で景色を眺められる気がしなかった。

 為す所無く、現代人の性で意味も無くスマホを取り出せば充電が70%だった。別に少なくはない。けど、一応充電しておこう。別にここにコンセントがある事を今さっき知ったからではない。違うもん。本当だもん。

 プラグを差そうとして、秤は「あれ?」と声を上げた。上手く嵌まらない。あれおかしいな? アームレストを覗き込む。あれ?

 悪戦苦闘していると脇からクスクス笑声が聞こえてくる。秤が顔を上げれば、やっぱり隣の少女が笑っている。

「通路側はそこじゃないよ」

「え? じゃあどこ?」

 キョロキョロ見回すが、分からない。暫しそうしていると、少女が「もう……」と身を乗り出した。

「ここ」

 少女がプラグを嵌めたコンセントは前の座席の背中にあった。何だってこんな所に……。

「ありがとう」

 釈然としない気分でお礼を言った。何で? 何でここ? どうして左右で同じじゃないの? 憮然としてコンセントに刺さったプラグを睨んでいれば、少女がまたクスクス笑った。

「この車輌、色々おかしいから。急造品だからね」

「急造品?」

「本来は5年後の開業予定だったでしょ? それを政府がNRに無理言って前倒しさせた。だからあちこち無理があるの」

「ああ……」

 そう言えば、そんな話だったような、そうじゃないような……。曖昧な頷きに少女が笑った。

「知らないの? ニュースくらい見なよ」

「うるさいな……」

 恐らく年下だろうに無礼な奴だ。そりゃ確かに私はニュース見ないけどさ……。

「コンセントの場所も知らないし、ニュースも知らないし、何も知らないんだね。年上のくせに」

 少女の物言いに秤は顔をむっとさせた。そんな秤を見て、少女はケラケラ笑う。

「仕方ないな、教えてあげるよ」

「いい」

「そんなこと言わないで、私が教えてあげるから」

 断ったのに少女は話し始めた。得意満面なその横顔は年相応の幼さで悔しいが可愛らしい。秤は仕方なく耳を傾ける。

「お姉ちゃんが今現在乗ってるのは日本旅客鉄道中央新幹線きぼう号。東京は新宿駅を発して、新相模原、新甲府、新飯田、つかさのみやを経て、終点名古屋までを40分で結ぶ、最高速度500km/h超電導リニア方式の夢の新幹線だよ。東京から名古屋までを真っ直ぐに南アルプスを貫通して結ぶ、日本の新しい大動脈。本来の開業はNR手動で5年後のはずだったけれど、副首都計画の一環として政府主導になって、7年も前倒しされたの」

 少女の説明は見事だった。秤が「へえー」と素直に感心すると、少女は嬉しそうに身を乗り出す。中々可愛い所もあるんだなと思った。

「ねえねえ、副首都計画は分かる? というか、お姉ちゃんってどこで降りる?」

「つかのさみやだけど……」

「じゃあ分かるよね? 目的地だもんね? 言ってみて?」

「ええ?」

 秤は思わず口籠もった。社会の授業とかニュースの内容とかを思い出して、どうにかそれらしい事を言ってみる。

「だから、あの、あれでしょ。東京に代わる新しい首都を作ろー。みたいな?」

 少女はやっぱり口を歪めた。

「お姉ちゃん、馬鹿?」

 秤は思わず顔をむっとさせる。

「馬鹿じゃない!」

「だって、馬鹿じゃん。そんなことも知らないの?」

「うるさいな。中学生は忙しいの。試験とかあるんだから。小学生とは違うんだから」

「私だって中学生だよ?」

「嘘、何年?」

 秤は思わず少女の顔を覗き込む。絶対に小学生だと思っていた。少女は満面の笑みで言う。

「来年1年生!」

「やっぱり小学生じゃん……」

 秤はがっくりした。つまり、小六じゃないか。こっちは中三だぞ。来年高校生だぞ。あれ? 小六に知識量で負けてる中三ってやばい? どうせ高校もエスカレーターだからって、ちょっと勉強サボりすぎたんじゃないだろうか。

 そんな秤の心配を余所に、少女は朗々と話し始める。

「副首都計画、つまり首都機能の移転はずっとこの国の政策課題の一つだったの。東京一極集中の解消ってやつね。だけど、言われるばかりで誰も行動に移そうとはしなかった。それが具体化したのが2001年。前年の大晦日に起きた“ミレニアムの夜”を受けて、首都機能移転は第一の政策目標になった。そこで全国で候補地の選定が行われて、その結果選ばれたのが私達が今向かってる、岐阜県南東部いわゆる東濃地域だよ」

 少女はそこまで一息に言ってしまうと、「ねえねえ」と聞いてくる。

「副首都には名古屋や大阪、他の沢山の街も名乗りを上げたの。でも、その中で選ばれたのは一番の田舎だった東濃。どうしてか知ってる?」

「え?」

 秤はそう言えばと思った。どうしてだろう。考えた事も無かった。秤が答えられないのを見て、少女は嬉しそうに顔を綻ばせる。

「それはね! それはね! 田舎だったからだよ!」

「え?」

 どういう事だろう。新しい首都にするなら、都会の方が都合が良さそうな物だ。疑問に首を傾げれば、少女は得意げに胸を張る。

「お姉ちゃん。首都は一番大きな街に決まってるって思ってるでしょ?」

「え? 違うの?」

 首都は一番大きな街。常識だ。日本なら東京、アメリカならニューヨーク。イギリスならロンドン。フランスならパリ。ほら、どれも一番大きな街だ。

「ふっふっふ。実はそうとは限らないんだよ。例えば、アメリカの首都はニューヨークじゃなくて、ワシントンD.C.でしょ? オーストラリアはシドニーでもメルボルンでもなくキャンベラ。ブラジルはサンパウロでもリオデジャネイロでもなく、ブラジリア。ほら、実は必ずしも、一番大きな都市とは限らないんだよ」

「へ、へぇ……」

 頷きながら、秤は動揺している。え? アメリカの首都ってニューヨークじゃないの? え?

 そんな動揺が察せられたのか、少女は小馬鹿にしたような笑みを上げる。

「お姉ちゃん、もしかしてオーストラリアの首都はシドニーだと思ってた? 結構いるんだよねそういう人。でも、違うんだなー」

 まさか、そもそもシドニーってなんなのか知りませんとは言えない。オーストラリアの首都ってウィーンじゃなかった? そんな事を思いながら、秤は適当に頷いた。少女の解説は続く。

「オーストラリアがシドニーに首都を置かなかったのは、メルボルンとの奪い合いになったからなんだよ。二つの街が『うちが首都だ!』って喧嘩しちゃったから、しょうがないからその中間にあるキャンベラに首都を作ったの。ブラジリアも同じような理由だよ。実は中央政府を置くには、地元の自治体が強くない方が都合が良いんだよね」

「じゃあ、東濃が選ばれたのは地元の自治体が弱いから?」

「そう! 今つかさのみやがある辺りには幾つかの町が分立してたんだけど、どれも財政基盤は貧弱で合併を模索してた。だから、名古屋や大阪みたいに地元政界や地元財界に配慮する必要が無かった。自治省――今は内務省になったけど、その官僚達はそこに目を付けたの。だって、彼らが作ろうとしていたのは、既存のあらゆる行政構造から抜け出した全く新しい新都市だったからね」

「構造改革の極み……だったっけ?」

 秤は何となく口にした。社会の授業で先生が言ってた気がする。少女は嬉しそうに「そう!」と頷く。

「だって、つかのみやは県に属さない自治体でしょ?」

 秤はそう言えばと頷いた。岐阜と長野の間にあるつかさのみやはしかしどちらの県にも属さない。つかのさみやは特別市。県から独立した存在なのだ。

「日本は廃藩置県以来、全ての地域が県か府に属してた。あ、北海道は例外だけどね。だから、どこに副首都を置こうとも、県の掣肘は免れない。名古屋や大阪みたいな大都市に置いたら尚更ね。でも、自治省の官僚達はそれが絶対嫌だった。元々、官選知事復活を期していたわけだしね。選挙で選ばれた知事の言う事なんて聞きたくないの。だから、わざと田舎に副首都を作った。そして無理矢理に県から切り離しちゃったの。それがつかさのみや特別市。前世紀の弊風から脱した全く新しい未来都市。規制緩和と多額の交付金によってなる官僚達の理想の計画都市だよ」

「へぇ……」

 感心しつつも、秤は生返事を返した。正直あまり興味が無かった。というか、途中から何を言っているのかよく分からなかった。そんな秤を見て、少女はやっぱり馬鹿にしたように笑う。

「理解出来た?」

 秤はむっとして言った。

「もちろん。というか、元々分かってたし」

 勿論、嘘である。少女はニヤニヤと笑う。「本当かなあ?」。何とも腹の立つ得意顔だ。

「……じゃあ、副首都計画の今の目的は分かる?」

 不意に少女の雰囲気が変わった。鳶色の瞳に嫌な光が灯った。

「……今の目的?」

「そう。今の目的。誰が定めたわけでもない。 自治省でも、防衛庁でも、警察庁でもない。政界でも財界でもないよ。誰の意思ならずして、しかし計画はねじ曲げられた。あの都市(マチ)は意思を持たない意図に巻き込まれてる。それは明確なイデオロギーなんかじゃない。誰の思想でも考えでもない何かによってあの都市(マチ)は引き摺られ、変容してる。それが何なのかお姉ちゃん分かる?」

 怪訝な目を向ける秤を嘲るようように、少女は得意げに語り始めた。

「……意思ならぬ意思とでも言おうかな。明確な主義でも思想でもない何か。心のような不安定な何かがあの都市(マチ)をそして私たちを引き摺っていく」

「それは、誰の心なの?」

「誰でもないよ。だけれど、誰でもある」

「は?」

 目を丸くした秤に少女は不意に話題を変える。

「ねえ、お姉ちゃん。集合的無意識って知ってる? カール・グスタフ・ユングだよ」

 答える代わりに秤は首を傾げた。少女はまた馬鹿にしたように笑った。

「スイスの精神学者だよ。分析心理学の創始者」

「へぇ……」

 説明になっていない説明に生返事する秤に少女はまたケラケラ笑った。そして、また出し抜けに言う。

「ねえ、お姉ちゃん。百合若大臣とオデュッセイアって似てると思わない?」

「は?」

 百合若? え? 誰?

 秤の怪訝な面持ちに少女はまた高く笑う。

「じゃあ、アーサー王とヤマトタケルは? 孫悟空とハヌマーンは? スサノオとヘラクレスは?」

「エジプトのアトゥム、アステカのケツァルコアトル、フィジーのデンゲイ。彼らはどれも創造に関わる神様だけれど、皆蛇の神様なんだ。これってどうして?」

「エジプトのピラミッドは有名だけれど、メソアメリカにもピラミッドがあるのは知ってる? メソポタミアのジグラッドも形が同じだよね。ストーンヘンジやカルナック列石と同じような遺跡が日本にもあるって知ってる?」

「先史時代に作られたペトログリフやペトログラフは同じ意匠の物が世界中の別の場所で見つかってる。それってどうしてなんだろう?」

 矢継ぎ早な問いに秤はぽかんと口を開けた。間の抜けた顔を見て、少女はまたクスクス笑う。

「……つまり、世界中の全く別の場所、全く交流の無かったはずの地域で同時多発的に全く同じ物が作られてるの。ユーラシア大陸を挟んで、東と西にある日本とブリテンに同じ神話と遺跡があって、コロンブスが達するまで一切の交流が無かったはずのユーラシア大陸とアメリカ大陸にも同じ神話、同じ遺跡がある。全く別々に生まれたはずの文明に何故か異常な程共通点がある。これってどうしてだと思う?」

 秤は困ってしまう。どうしてって言われても……。彼女はそもそも少女の話すら1割も理解出来ていない。ただ、秤は理解出来る範囲内で考え込んだ。分からないなら分からないなりに答えを出してしまうのは、彼女の美点であり欠点でもあった。

「それって同じ物なんでしょ? じゃあ、同じ人が作ったんじゃないの?」

 言ってしまってから、秤は後悔した。少女があんまりに馬鹿にしたように噴き出したから。

「……そんなに笑わなくてもいいじゃん」

「……ハハハハ!!! だって、あんまりにもあんまりな答えだから……! お姉ちゃんってつまらない人だね!」

「え? つまらないって?」

「世界中に共通する遺物は実は同じ人間が作った。世界を蔽う超古代文明、或いは人類文明共通の創始者たる宇宙人。そんなの使い古されたオカルトだよ。お姉ちゃんみたいな馬鹿が大好きな発想」

 どうやらあんまりにも在り来たりな発想だったから、少女に笑われてしまったらしい。秤は唇を尖らせる。だからってそんなに笑わなくてもいいじゃないか。秤の抗議の目を余所に、少女は朗々と続ける。

「ユングはお姉ちゃんよりちょっと、いや、だいぶ賢かったから、そんな安直な考えにはならなかったの。ユングは人類それ自体の歴史に着目した。お姉ちゃんが考えたような同一の個人じゃなくて、同一の祖先に原因を求めたの」

「祖先?」

「そう、出アフリカ説って知ってる?」

 秤は首を振り掛けて、慌てて頷いた。それがまた少女の嘲笑を買う羽目になる。

「嘘吐かなくて良いよ。教えてあげる。出アフリカ説は進化論で有名なチャールズ・ダーウィンが唱えた人類の共通祖先に纏わる説だよ。ダーウィンの進化論によれば、人は共通の祖先から進化して誕生した存在。その進化の起こった場所がアフリカなんだ」

 進化論? ダーウィン? 秤にはその程度の知識すら無い。目を回す秤を見て、少女は言い添えた。

「つまり、私たちは皆アフリカで生まれたご先祖様の子孫ってこと。私もお姉ちゃんもね。共通の祖先としてはミトコンドリア・イブなんかが有名だよね。現生人類から最も近しい全人類共通の女系祖先。私たちは全員その女性の遺伝子を受け継いでる」

「ユングが着目したのは正にそれなんだ。一見無関係な世界中の民族だけれど、でも皆同じ遺伝子を受け継いでる兄弟なんだ。そこに秘密があるんじゃないかって、ユングは疑った。それが遺伝子に刻まれた記憶、“元型”だよ」

 少女は窓辺のドリンクを取り上げて、ストローを噛みながら続ける。

「つまり、人類共通の遺伝子記憶が私たちの意識に無意識の内に影響を与えてるって考え。それが集合的無意識。私たちは個人同士には一切の交流が無くても、同じ記憶を見ているから、同じ物語や同じ建物を作る」

 ズズズとジュースの啜られる音を聞きながら、秤は考えた。同じ物を見てるから、だから同じ物を作る。一見すると尤もらしい。だけれど、果たして本当にそうだろうか。同じ物を見ていたからって、まるっきり同じ物になるだろうか。秤は疑っている。人はそれぞれ全然違う生き物だ。自分とこの少女がまるで違うように。同じ物を見ていたって、まるで違う物を作る。それが人間ではなかろうか。秤はそんなような事をしどろもどろになりながら、少女に言ってみた。少女は手元のジュースを気にしながら、だけれど根気強く支離滅裂なる秤の論を聞いてくれた。そして、ストローから小さな唇を離して、不意に言った。

「お姉ちゃん、リベンジって知ってる?」

「は?」

 秤はまた怪訝な顔をせねばならなかった。なんでこの少女の会話はこんなに突拍子も無いのだろうか。何だか、自分とは思考の流れが隔絶しているような気がする。秤は怪訝な顔をしたまま、思った所を述べた。彼女は言葉に関しては全く正直で、真っ直ぐで、滞るという事を知らない。

「リベンジはリベンジでしょ? やり返してやる? みたいな……」

 少女はにんまり微笑んだ。してやったり。みたいな顔だ。

「やっぱりお姉ちゃんそう言ってくれると思ってた。お姉ちゃんはリベンジを『借りを返す』みたいな意味だと思ってるでしょ?」

 ああ、「借りを返す」か。そんな格好いい言い方があったのか。なんて思いながら秤は頷く。そして聞き返した。

「違うの?」

「正確にはね。だって、英語のRevengeは復讐って意味だから。ちょっと物々しいでしょ?」

「復讐……」

「そう。そんな強い言葉が何故かちょっと違った使われてる。どうしてだと思う?」

 秤は目で訊いた。「なんで?」。少女は得意満面解説してくれる。

「お姉ちゃんが使った意味でのリベンジは元々プロレス用語なの。それを一般に広めたのはプロレスファンだったとあるプロ野球選手。その人が使ってから、リベンジの意味が全然変わったんだよ」

「え? 私プロレスなんて見ないし、野球も見ないけど……」

 秤はプロレスとレスリングの違いが分からない。日本にプロ野球チームが何個あるのか知らないし、甲子園がどこにあるのかすら知らない。多分大阪だよね? それぐらいが彼女のプロレスと野球に対する認識である。

 少女はまた胸を張って、誇らしげに笑う。ピンと一本指を立てて、流麗に語った。

「それがすごい事なの。お姉ちゃんはプロレスも野球も知らない。なのに、リベンジの意味は分かる。お姉ちゃんだけじゃない。この国の多くの人がそうだよ。由来も語源も知らないまま、この言葉を使ってる。まるで違うはずの色んな人たちが意味も分からず、同じ言葉を使う。それは皆が同じ物を見たからだよ。テレビっていう共通の媒体をね。その記憶がお姉ちゃんに継承されたんだよ」

「人間は確かに多種多様だよ。だけれど、意外と同じだったりもする。人間は共感する生き物。だから、同じ物を見て、同じように泣いたり、笑ったりする。そして同じ人間になる――。リベンジはマスメディアによる人間の均一化の良い例だと私は思うな」

「均一化……」

「そう、同じ物を見た人は同じように思うの。同じテレビを見た人が同じ言葉を使い、それを聞いた人がまた同じ言葉を使う。これって何かに似てない?」

「それが集合的無意識って事?」

 少女は大きく肯いた。

「そう。テレビは正に元型であり、集合的無意識だよ。集団の成員全員で共有された共通の情報媒体。先史時代のそれらが神話やピラミッドになったように、前世紀ではそれらがイデオロギーとして顕れた。前半期においては新聞が、後半期にはテレビが、時代に即したマスメディアが大衆を導いた。植民主義と帝国主義、そして欧化主義。世界中の全く別の人種民族が共通の主義主張を共有した。やがて、世界は対立する二つの陣営、西と東、資本主義と社会主義という善悪二元論に単純化される。ゾロアスター教が形を変えて、人類普遍の価値観になったんだよ。人間はそうやって操られ、均一化された」

「それが……あの都市(マチ)を操ってるって言いたいの?」

 秤はすっかり広がってしまった話を最初に戻した。少女は不敵に笑う。

「……それは前世紀までの話。明確な誰かの意思が、社会と都市を操る時代はもう終わっちゃった。これからは……」

 少女はそこで話を止めると、不意に立ち上がった。逃げるの? 強い目で見上げた秤に少女はニッコリ笑って言う「どいて?」。

 その言葉に列車がつかさのみやに着いていた事を知る。周囲の乗客もぞろぞろと席を立ち始めていた。こうなると田舎育ちの秤はもうパニックである。何が何やら分からない。立ち上がって右往左往していると少女は秤の脇を擦り抜けていった。

「じゃあね、馬鹿なお姉ちゃん?」

 嘲りを残して少女は列車を飛び降りていく。悔しくなって、思わず秤は叫んだ。

「あんた名前は!?」

「カペラ!」

 遠くからそれだけ響いてきて、少女は去って行った。

「カペラ……」

 その名前を舌先で転がす、彼女の言葉や仕草を思い返しながら。

「……操られるなんてありえない」

 秤にはただそれだけに留まらない強い反発があった。操られて溜まる物か、操られるなどという事があるはずもない。彼女は自らの意思を自らで所有していると信じてやまない。そして、その確信は彼女という人間の正しく軸として機能している。だから、秤は自分を傷付けられたみたいに酷く怒った。

 しかし、秤にはその怒りの訳を明瞭に言語化する事が出来ない。カペラの何が気に入らないのかはっきりと言葉に出来ない彼女は勢いそれに明確な反駁を加える事も出来ない。そういうわけで、秤は更に腹を立てた。少女の――カペラの存在がただ彼女は気に入らないでいる。

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