第一話 棚からぼたもち01
棚からぼたもち、などということわざがある。棚からぼたもちが降ってくる状況が令和の世を生きる現代人にとって幸運かどうかはさておき、思いがけない幸運というものは突然に降ってくるものかもしれない。
宝くじが当たった。一等前後賞合わせて10億円。俺は何十回も当選番号を確認し、高鳴る鼓動を抑えながら銀行へと向かった。
ドラマでは机の上に10億円を山積みにされ、これが10億円です、と見せ付けられていたが現実ではそんなこともないようだ。少し年季の入った店長らしき男が俺の通帳を両手で渡してくれただけだった。
10億円24万3200円。通帳には見たこともない桁数の数字が並んでいた。社会人3年目の俺にとっては過ぎた額だ。俺は足早に家に帰り、一人暮らしの古いアパートの扉をしっかりと施錠した。
「10億円……当たっちまったよ……」
玄関の扉を背もたれにして、俺はずるずると座り込む。今まで夢心地だったが膝はバッチリ笑っていた。
「なにしよ……」
宝くじを買った時、欲しいものややりたい事などたくさんあったはずだが、今はなに一つとして浮かばなかった。とりあえず給湯器に電源を入れ、シャワーを浴びることにする。
まさか、今朝の朝食代もケチるようだったおれが1日もたたずして億万長者に。事実は小説より奇なりとはよくいったものだ。
●◯
その日の晩に10億円を手にするなど夢にも思わず、大刀洗太一は目を覚ました。昨日の夜にスーパーで買った50円引のパンを食べ、首にネクタイを巻くと早足で家を出る。
満員電車に揺られること1時間。俺は自分の勤める会社に出勤を果たした。近くの席に座る同僚に挨拶をし、その日の予定を確認すると会社を出ていく。
俺の勤める会社の名前は『株式会社マルボウズ』一般的な知名度はほとんどない。というのもマルボウズは医者や科学者、工学者など珍しい職業の人々を相手に仕事をしているからだ。具体的には医療用器具や実験道具などの卸売りである。
俺はそんな会社の営業職についていた。毎日のように病院や研究所を訪問している。この日も例に漏れず営業のため足を動かしていた。
本日訪問する先は全部で4件。それぞれが遠いため、移動だけでも一苦労だ。
1件目は「国立理化学研究所」名前の通り国営の理系研究所である。俺はこの研究所の生物学研究室の担当を受け持っている。
◯●
「大刀洗さん、お疲れ様です」
俺が生物学研究室を訪れると室長は笑顔で歓迎してくれた。
「お久しぶりです。何かがようだそうで」
「いや、実はですねとうとう光学顕微鏡が壊れてしまいまして」
以前から光学顕微鏡の調子が悪いとは聞いていた。あらかじめ用意していた資料を鞄の中から取り出す。
「では、こちらの製品などはいかがでしょう。こちらの顕微鏡は従来より1.26倍の倍率を誇ります。また、持ち運びもしやすく軽い設計です」
「いや、大刀洗さん、申し訳ないですが型の古い顕微鏡で結構です。なんならこの壊れたものと同じものでも」
「……そうですか」
国立理化学研究所。仰々しい名前と裏腹にこの研究所は困窮を極めている。働いている人材も、意識の高さも一流なのに、他国と比べればその給料は極端に低い。有能な人材が次々に去り、設備不足から実験もままならないのにもかかわらず、その現実に気づく人はほとんどいない。
「では後日製品をお届けに参ります」
「よろしくお願いします」
俺は生物学研究室を出た。理化学研究所は広く、駐車場に着くまで5分ほど歩く。コツコツと白い廊下を歩いていると後ろから何者かに腕を掴まれた。
「おわっ」
「来て」
俺の腕を掴んだのは生物学研究室の新人研究者、最邪凛千だった。170センチもある長身と、腰まで届く長い黒髪、そして鋭い目つき。どこか近寄りがたい印象を受ける。
そんな彼女に腕を引かれ、俺が連れて行かれたのは女子トイレ。そのまま中に入り、個室にまで連れて行かれる。
最邪凛は後ろ手で扉に鍵をかけた。トイレとは言え狭い個室。ため息をつけば最邪凛の顔に息がかかってしまうくらいの距離に俺はギリギリまで後退りする。
「やっと2人っきりになれたね……」
「なれたというか、したというか……」
恥ずかしそうに顔を俯かせる最邪凛。目線はそれほど変わらないはずなのに、最邪凛は器用に上目遣いで俺を見つめる。ふと目線を落とすと白衣はボタンを全て開いており、やけに胸元を強調させるような服を着ていた。
「ねぇ、今おっぱい見た?」
「見ていない」
「ふふふっ、うそだ」
「見ていない」
「もー強情なんだから」
白い歯を見せて笑う最邪凛。彼女は俺に一歩近づいた。俺は極力彼女と目を合わせないように視線をぐるぐるとさせる。
「ねえ、太一さん。おねがいがあるんだけど」
「話だけなら聞いてあげよう。うん」
「わたしね、ジムロート冷却器が欲しいな。どうしても手に入らなくて……」
ジムロート冷却器。全世界人口の99.99%がその存在を知ることなく死んでいくであろう実験器具である。
「そういう依頼は室長を……」
「なんか最近乾燥するね」
俺の言葉遮り、最邪凛はリップクリームを俺の目の前で塗り始めた。じっくりと塗り終え、唇を鳴らした後、最邪凛は再び俺に問う。
「だめ?」
「だめ」
沈黙。すると最邪凛の目がどんどん鋭くなっていく。
「金なら払う。もってこい」
「だめだ。そんなことのために生物研究室からの信頼を失いたくない」
最邪凛千。この女は危険な女だ。東京大学を卒業し、そのまま研究所への入社を果たした最邪凛はまさにエリート理系女子である。俺も詳しくは知らないが、彼女の卒業論文は世界にその名を轟かせるほど素晴らしいものだったらしい。理化学研究所に入った後も次々と功績を残している。
だが、彼女は『キメラ』を作ることを夢見ているのだという。キメラ、それは動物改造のことだ。品種改良や異種交配などとは異なり、動物本体に直接手を下す。例えるならカエルにスズメの翼をくっつけるようなことだ。
当然のことながら、倫理的にタブーである。新しい種族を生み出すのとは訳が違い、2匹の動物を1匹にしてしまうのだ。世界中の動物愛護団体が糾弾することだろう。
「いいから持ってこいよこのゴミ屑がっ!!!! ぶち殺すぞっ!!!」
それでもこの女は研究を秘密裏に進めているらしい。少しずつ実験用具やモルモットがいなくなるのを他の研究者は見て見ぬ振りをしているらしかった。
「聞いてんのかこのタコこら!!」
それにしても大した変わりようである。全くもって気の強い女だ。まあ、ここまでアクが強くなければ科学者の世界など生き残れないのだろうが。
「大刀洗。わたしが今ここで大声をあげたらどうなると思う? 女子トイレの個室で男女2人きり。実験してみようか?」
「安心しろ。その時は俺はこれを提出する」
俺はは所からスマートフォンを取り出した。画面には録音中。という文字。絶句する最邪凛を尻目に俺は個室を出た。
彼女の性格はさておき、その才能は本物だ。作らせようと思ったら本当にキメラを作り上げてしまうことだろう。若干見てみたい気もするが、企業に所属する人間である以上その協力はできない。
俺は理化学研究所を出る。そして優京大学大学院へと車を走らせた。