第一話 下北沢の日常
「えっ! また、ダメですか……?」
「ごめんよー。ミナちゃん。俺はさ、ミナちゃんの曲、いいと思うんだけど。やっぱり俺もサラリーマンだからさ、上がうんと言わないと……」
中堅のレコード会社の小さな会議室。
タバコのシミがたくさんついた、黄ばんだ壁紙。
アーティストのポスターやグッズが壁際に乱雑に置かれている。
蛍光灯が一つだけの薄暗い空間。
そこに私は、担当の男性とお互いパイプ椅子に座り、安っぽい机をはさんで向かい合っていた。
はあ……もうこれで、何十回目かな……
私は、深くため息をついた。
「ミナちゃん……俺が言うのもなんだけどさ。華やかな芸能界で活躍できるのって、ほんの一握りなんだよね」
担当の人は黒いジャケットにノーネクタイのワイシャツ。でも、そのワイシャツは三日間くらいそのまま着てるんじゃないかな。シワになっていて、襟元が汚れていた。
あごには、ひげがぽつぽつと生えている。
「は、はい……」
確かに、この業界って、ほんと大変そうなんだよね……
「夢破れたヤツとかさ……俺はいっぱい見てきたわけよ」
「はぁ……」
「だからさ……そろそろミナちゃんも、堅実な道を探っていくのも、アリなんじゃない?」
担当の人はまるで妹でも諭すかのようにそう言った。
私はいたたまれなくなって、お礼を言って、その場を去った。
私の名前は、草橋ミナ。二十四歳。華やかな芸能界で歌う、シンガーソングライター……
を目指して、下積み中……
実際の私は、下北沢の安アパートに住んでいて、ファミレスでアルバイトをして生活費を稼いでいる。その大事なお金で、ギターや声楽のレッスンを受けたり、小さなライブハウスを回って、なんとか歌わせてもらっている。
もちろん、現在、メジャーデビューする予定も……なし。
今日みたいに、レコード会社にデモCDを持ち込んでも、門前払いの日々。
そうだ、このあとバイトいかなくちゃ、遅れちゃう……。
春……出会いと別れの季節。
私のアルバイト先のファミレスも、バイトの学生さんが多いので、卒業すると、ゴソッと人が変わる。そして、四月になると、新しく人が入ってくる。
もう私はこのバイトを始めて六年だから、その光景にも慣れた。
バイト同士でお付き合いをしている男女も、離れ離れになる時は涙を流しているけど、半年もすると、別れた、他の人とお付き合いしている、なんて噂が出る。
私? 私は、三年前に当時お付き合いしていた彼氏と大ゲンカして別れてから、ずっとフリー。
恋愛に関しては、私は自分から攻めるタイプだと思っているんだけど……
そもそも、バイト先とレッスンとたまにライブハウスを回るくらいで、出会いがない。
レコード会社にはご縁すらないし……
はぁ……こんなはずじゃ、なかったのにな……
一、二年、下積みで頑張れば、関係者の目に留まってすぐにデビューできると思っていたのに。ほんと考えが甘かった……
気づけば二十四歳。
やっぱり、容姿も大事なのかな……。
幼いころから、モテたことなんてない。髪型も特にチャレンジすることなく、ずっと黒髪のショートだし。歌と実力で売れればいいや、なんて思っていたけど、やっぱ私って地味かな……
すでに私より若い歳でデビューしている人だってたくさんいる。アイドルなんかは十代で旬は過ぎると言われている。
まあ、もっとも、背が小さくて、ボリュームもない私には、グラビアなんて無理だけどね……
バイト先の店長は
「ミナちゃんも、一度メイド喫茶でバイトしてみたら? 似合うと思うよ」
なんて言ってくれるけど、
メイドさんの服で
「おかえりなさいませ、ご主人様」
なんて、私には絶対ムリ!
今のファミレスの制服だって、最初は少し恥ずかしかったんだから。
そんなことを考えているうちに、バイト先のファミレスに着いた。
今日は、深夜までバイトか……
そう考えて、更衣室へと向かおうとすると、店長に呼び止められた。
店長は三十代後半で、小柄で丸い眼鏡をかけている。
「花の独身」と本人が自嘲的に話していた。
「ミナちゃん、いつもお疲れ様! あと、悪いんだけどさ……」
「えっ! また、急なシフトですか?」
「そうなんだよ、美和ちゃんが、卒業して引き払うアパートの関係でさ、明日までしかバイト入れないって言うから……お願い……」
店長はそう言って、私に向かって目をつぶって手を合わせた。
小柄といっても、私よりは身長は高いから、私は自然と拝まれながら見下される感じになる。
いわゆる、フリーターの私は、こういう時、使い勝手がいいのだ。
仕事も一通り、わかってるし。
しょうがないよね……店長には普段お世話になってるから。
正直、私あんまりお金ないから、シフトが多い方が助かるし。
「わかりました! その代わり……」
「うん、ありがとう! その代わり……?」
「また、私がライブする時に、チケット引き取ってくださいね」
「う、うん、わかった。それくらい、お安い御用だよ」
店長は、以前からアキバ系アイドルにハマっているらしいが、私のライブにも、都合がつく限り、来てくれる。
ライブって言っても、せいぜい三十人くらいが入れる、小さなライブハウスなんだけどね。
チケットもよく引き取ってくれて、友達がいない私に変わって、知り合いにもさばいてくれる。
「俺はミナちゃんのファン一号だから」
といつも言ってくれる店長。
この前のライブでは、『I love mina』と書かれた、私の顔写真入りうちわを作って、応援してくれた。いい人なのだ。
「ミナちゃんが有名になったら、俺をジュリナちゃんに会わせてね」
と推しているアイドルの名前を挙げてくるんだけど。
もちろん、今の所、私がジュリナちゃんと知り合いになる見込みは……ない。
数日後、私は夕暮れの下北沢の駅前商店街をギターを肩にかけて、歩いていた。
若者の街、演劇の街、古着の街、そして……音楽の街。
雑踏の中に……様々な表情を見せる、街並み。
そこに住む人々の、何かこれから楽しいことが始まるような、活き活きとした表情。
高校三年生の時、生まれ育った鎌倉から電車を乗り継いで初めてこの街を訪れた私は、そのエネルギッシュな雰囲気のとりこになった。
卒業したら、この街に住んで、この街から華やかな芸能界に羽ばたくんだ!
そう意気込んで、ここでアパートを見つけた。
「まるで、ギターがミナちゃんを連れて歩いているみたいだな」
閉店の片付けをしていた顔見知りのカフェの店員さんが、私の方を見て笑った。
ふんだ、どうせ私はちっちゃいですよーだ。
でも、そんな、温かい、この街が好き。
駅前商店街から、路地を入って、白い看板のかかったビルの、地下へ続く階段を降りていく。
そこが、私がよくお世話になっているライブハウス、『hands』。
三十人も入れば、お客さんが一杯になる、小さなライブハウス。
「今日も頼むわよ、ミナちゃん」
マスターのエイジさんが、私に話しかけてきた。
エイジさんは、三十代後半で、やせてて背が高くて、金色に染めた長髪に、いつも革ジャンを着ている。
革ジャンは、ロックンローラーの魂なんだって。
ほんのり化粧をしていて。
この人、実はおネエなんだよね……。
恋愛対象は男の人なんだって……。
私も最初に会った時、少し驚いたけど。
でも、面倒見がよくて、ロックンローラーの魂を語るだけあって、エレキギターもすごい上手。金髪を振り乱して、ギターを操る姿は、ロックの神様が舞い降りたのかと思った。
何度か一緒にライブで歌わせてもらったけど、そばで歌っている私が思わず見とれてしまうくらい。
ライブが終わった後は、よく食事に連れてっていただいた。
そこで、エイジさんの過去の恋愛話を聞いて。
まあ、男の人同士の話なんだけど、
私はそれを参考にしながら、男女の恋愛の曲を作ったりした。
「なかなか、お客さん入ってるわよ、ミナちゃん目当てかは、わからないけど」
エイジさんはそういって、私を茶化してきた。
今日は私を入れて、四組のライブがあるから。
「でも、いつかは、みんな私目当てのお客さんにして見せますよ」
楽観的なエイジさんといると、私まで楽しい気分になる。
「そうそう、一人だけ、確実にミナちゃん目当てのお客さんがいるわね」
えっ? ファミレスの店長は、今日はシフトを埋めるのに忙しいから来ていないはずけど……
エイジさんの視線を追うと……
あっ、いた……
この間も来ていた、人だ。
センスの良いスーツをきちんと着こなし、ネクタイやシャツにもしわ一つない。
髪もきちっと整えられていて、小柄で端正な顔立ちをしているんだけど。
無表情でどこか遠くを見つめている、三十代前半くらいの男性。
その人は一番後ろの席に座っていたんだけど、スーツ姿でライブハウスというのは、他のお客さんからかなり浮いていた。
でも、その人はそんなこと、ちっとも気にしていないようだった。
これで、四回目、かな?
これまでの三回とも、手をきちんと膝の上に乗せて、無表情で、まるで何かを考えるように私の演奏をじっと見つめてて。そして、私の出番が終わると、スッと席を立って、帰ってしまうのだ。
私のファン……かな?
ファンだったら、もっと楽しそうな表情で聞いてくれるだろうし。
ライブが終わったら話かけてくれてもいいと思うんだけど。
まさか、ストーカーとか?
不安そうな表情をした私に、エイジさんが
「じゃあ、今度来たら、正体を突き止めてみるわよ。あと、さっきあの人、ミナちゃんのデモCDが欲しいって言ってきたのよ。いつも通り三〇〇円で売っといて良かったわよね?」
「あ、はい、ありがとうございます。エイジさん」
正直私のデモCDって、まだ三桁売れてないんだよね。
いっつも路上の弾き語りとかで、マッチ売りの少女みたいに可哀想な女の子アピールをして、無理やり押し売りしているのに。
あとは、レコード会社に持ち込む分とか、こちらも日の目を見てないな。
そんなことより、さあ、気分を切り替えて、ライブに備えよう。
私の出番が来た。
私は予定通り、自分で作った五曲をギターで演奏しながら、歌った。
片想いの歌、別れの歌、そして、友達(いないけど)へエールを送る応援歌……
例の男の人が今日もじっと私を見ていて、私は何回かコード進行を間違えてしまった。
ダメダメ、平常心……平常心。
こんなんで動揺するようじゃ、とてもこれ以上の大きな舞台には立てないわ。
男の人は、私の演奏が終わると、お決まりのように、またスッと帰っていった。
何気ない日常の延長だと思っていたけど、
何かが、変わりかけている……そんな日々。
そして私は、白馬の王子様に出会った。