2話 臆病な男
その客は、縦にも横にもデカい体つきをしていた。
百八十センチはあるだろうか。プロレス選手並に体の厚みがある。
まるで一般市民に『さわるな危険』という有益な情報をわざわざ前もって知らせるためのようなド派手な柄物のシャツを着ていた。
体だけではなく顔の威圧感も負けていない。
細い眉毛に三白眼の鋭い目元。異様に尖った耳。
『何時間プールにいたんだ?』と思わせるほど血の気の薄い紫色の唇の下には、やけに大きく鋭い八重歯が見えている。
どれもこれもチャームポイントと呼ぶには恐れ多いオリジナリティあふれる特徴をお持ちの訪問客は、腹が減っているのかどうかしらないが、俺が今さっきお買いあげしたハンバーガーとポテトとジュースのセットを凝視しているようだった。
ふと俺は一瞬とはいえ自分の命の重さと目の前のハンバーガーの旨味を無意識のうちに比べようとしていたことに気がついて愕然としていた。
死に直面しているかもしれないこんな時でさえ『もったいない』という意識に負けそうになる貧乏魂が無性に情けなかった。さすがに何度も空き巣や詐欺に遭遇するとケチくさい性格が抜けなくなるようだ。
だが今こそまさに死ぬ思いで、『初めて美人以外に食べ物をおごる』体験をこの侵入者にしてみるべきだと思うことにして「あの……その……」とみみっちく声を出した瞬間、それを遮るように侵入者は見た目に似合わない、まるで女のような高くてか細い声でこう言った。
「そこの店員の方。今すぐ全てのシャッターを下ろして外から見えないようにしてください。それが終わったら店員の皆さんは二階へあがってください。他のお客さんが逃げないように見張っていてください。もちろん逃げたり警察に通報したりするとどうなるか……おわかりですね?」
カウンターで接客をしていた店員三人だけではなく奥で調理をしていた者たちも口々に「ありえねぇ」「ありえない」と悲鳴をあげながらシャッターを下ろした後二階へと消えていった。
状況も『ありえねぇ』だったが、侵入者の声がやたらと高かったことと、口調がやけに丁寧だったことも『ありえない』という意味の悲鳴だろう。
俺自身も同じように叫びながら一緒に逃げ出したい気分で一杯だったが、銃がこめかみにギリギリと押し当てられている重みを感じて、素直にあきらめることにした。
「あなたには、私の言うとおりに動いてもらう必要があります」
侵入者は足下に置かれた黒いナイロン製のバッグを指さした。
「まず、開けてください」
俺は銃口が向けられている部分に不可思議な重力を感じながら、ゆっくりとバッグのそばへしゃがむ。チャックを開けると、そこにはテレビなんかでよく見た覚えのある青や赤のケーブルと時計盤が組み合わさった物体があった。
「カウンターに乗せていただけませんか?」
俺の頭のなかではある一つの言葉だけがぐるぐると回り続ける。
——ありえねぇ。
こんなものがここに存在すること自体おかしいし、それをシロートの自分がさわるという行為もまったくもって『ありえない』ことだった。
——だいたい状況的には絶対命令のはずなのに『いただけませんか?』ってなんなんだよそれ。おかしいだろ、普通!
自分に自分でつっこんでいないと頭がおかしくなりそうな自分がおかしいのがなかなかナイスな感じだ。最初の『おかしい』は『くるくるぱー』で後ろのはもちろん『笑える』の意だ。そんな当たり前のことでさえ説明したくなるほど頭の中が『くるくるぱー』ってことだ。
こんな時は、自分の手でもじっと見るに限る。
二十六歳で亡くなった石川啄木だって心が大変な時はじっと手を見るという句を詠んでたみたいだし、テレビの情報番組で、遊園地のコーヒーカップで目を回した時も何かをじっと見ると治るって言ってたしな……って、なんでこんなに震えてるんだよ。尋常じゃない早さと幅で揺れてるし。
これじゃあ二百歳レベルのじいさんだよ。ってそんな年まで生きてる奴いねぇし、みたいな。あーきてるきてる。いいかんじで『くるくるぱー』になりつつありますよということで。
一応俺も人間である以上、恐怖を感じるシステムがきちんと働いているってのはわかるが、これって恐怖を知ることができてもあまり役には立たないパターンだと思うわけで。
だって、危険を避けるために恐怖感があるのなら、今回のようにさけがたい緊急事態の場合って、すでに危険の真っ只中にいてどうしようもない段階になったら、むしろこんな回路は機能しない方が実は人間は幸せなのではないだろうか……などと思ってみたりするわけで。
「大丈夫です。動かしても爆発したりはしませんから」
俺の思考回路が見えているのか、見知らぬ侵入者はそんなアドバイスをおっしゃってくださる。
——でも、いずれ爆発はするんですよね。
と、心の中でつっこみながらなんとか手の震えを押さえつつカウンターに物騒な装置を配置することができた。
その瞬間、ケバケバしい警報音が鳴り響いた。
——えーっうっそーん俺もしかしてやっちゃった?
……などとドキドキしていたら、
「もしもし、私です……今ちょっと手が離せないので、またあとで連絡します」
どうやら侵入者が所持していた携帯電話の呼び出し音だったようだ。
——まったく、紛らわしいにもほどがある。
この程度にビビる俺も俺だが、突然の音とか声とかお化け屋敷系のおどかす類は苦手だから、ほんと勘弁してほしい。
もし、このまま俺が殺されでもしたら検死をする時に何度もチビっていたことがばれてしまうのだろうなぁと思うと無性に悲しくなってきた。
それどころか『もったいない』から捨てられなかった、小学生時代から使い続けていたよれよれのグンゼの白パンツを、よりによって今日装着してるなんてという点でも俺の運の悪さを象徴しているなぁと思ってみたりするわけで……。
だいたいこんな警報みたいな呼び出し音を設定するほうもするほうだが、犯罪をする時ぐらい電源を切るとかマナーモードにするとか多少は気を遣ってほしいものだ。犯罪実行中に『手が離せない』なんてあんまりなコメントを俺が犯人なら絶対に言いたくない。
いや、そういう問題じゃなくて……。
そもそも、こんなことになってしまった諸悪の根元である『数分前の些細な選択』を恨むのが筋かもしれないと思い直してみることにした。
——そうだ。
だいたいなんで財布の中に五百円玉しかなかったからといって、マケドナルドにきてしまったのか? どうして牛丼屋ではなかったのか? 弁当屋とかコンビニでもよかったんじゃないのか?
俺が本当に何気なく、いや、むしろ何も考えていないがために選択した結果がこれだ。
『どうしてこうなるんだよ』という理不尽さへの怒りと『やっぱりまたか』というあきらめの気持ちといろいろない交ぜになって、結局自分の運が悪いせいだと思うことにして、いつものネガティブシンキングの渦にまきこまれていきそうになった時、低い位置から声がした。
「本当にご迷惑をおかけしてすみませんが、今しばらくお付き合いください」
俺は耳を疑った。
誰か残っていたのだろうかと思いつつ周りを見回すが、自分の他には侵入者しかいなかった。
——あたりまえだ。
だが俺はさらに目を疑った。侵入者は土下座をしていたからだ。
「私は、たなかてんしと申す者です」
もう一度耳を疑った。
——てんしだって?
——ペンネームか何かなのか?
というより、そもそも犯罪を絶賛実行中の人間が自分から名乗るって、いったいどういうことなんだよ。
「田んぼの田と中央の中、てんしはエンジェルの意味の天使です。名字は平凡なのに下の名前は変わっていて、まるでペンネームのようですが本名なんです」
俺は自分の耳も目も、とうとう壊れてきたのか、と少し思った。どうやら『くるくるぱー』の症状が確実に進行しているのかもしれない。
——こんな恐ろしい顔をしているのに天使ってどういうことだよ。
むしろ悪魔とでも名乗られたほうが納得もいく。そういえば、かなり昔に悪魔という名前を子供につけたらダメとかいろいろ話題になっていた気がするが、天使という名前は大丈夫だったようだ。
天使と名乗る侵入者は土下座をやめると、きちんと正座をしてから話を続けた。
「あなたが驚かれるのも無理はありません。実際の名前とは裏腹に私は生まれた時から文字通り悪魔のような見た目の子どもでした。耳は尖り三白眼に唇は紫。口の中には吸血鬼のように二本の八重歯が既に生えていたそうです。親は『この子は悪魔です』とだけ書き置きをして教会の前に捨てていったそうです。慈悲深い田中牧師夫妻がせめて名前だけでも良い物をと『天使』と名付けてくれたようですが、まったくの逆効果で実際にはイジメの種にしかなりませんでした」
でしょうね、と言いたい気持ちをぐっと我慢しながら、俺は話の続きを黙って聞いていた。
「結果として残念なことにはなりましたが、本当のところは、私を育ててくれた田中牧師夫妻には心から感謝しています。顔をお互い見せなくてもいいメールや手紙のやり取りの時だけは、この名前のおかげでちょっと面白い名前を持つ人だという対応をしてもらえるので、すぐに名前を覚えてもらえる利点もありましたから。とはいえ、今ここで私が行っていることは恩を仇で返すことになります。それはわかっていますが、私の信念を曲げることはどうしてもできませんでした。彼女の為にも、私自身の為にも……」
田中天使は携帯の待ち受け画面を俺に見せてくれた。
写りはあまりよくないが、世にも恐ろしい脅迫的笑顔を見せるその姿が田中天使だということはなんとか確認できた。その隣には、田中天使に負けないくらい見た者を固まらせる威力を持った破壊的笑顔を浮かべるセーラー服の娘が写っていた。
「彼女は田中愛子といいます。田中牧師夫妻の実の娘さんです。私にとって義理の妹となります。彼女は本当に天使のようでした。見た目はあまり美人とは言えませんが、性格がとても優しく誰にでも分け隔てなく誠実で正しいことを素直にできる透明な美しさを持っている少女でした。なのに……なぜ……あんな無惨な姿で……」
突然、田中天使は顔をくしゃくしゃにしながら泣き始めた。
大の大人が、しかも怖い顔の人間が本気で泣くところを間近で見るのが初めてだった俺は、なんだかもらい泣きをしそうになっていた。
「すみません……すみません」
田中天使は何度も謝った。だが、なかなか泣くのをやめられなかったようだ。
きっとその彼女はもうこの世にはいないのかもしれない。よっぽど彼女のことを好きだったんだなと俺は思った。もし自分が死んだとしたら、こんなに悲しんでくれる人はいるだろうかと考えてみたがまったく思い浮かばなかった。
自分がそういう情けない人生の歩み方をしてきたのだから苦情は俺自身にいうしかないわけだが、いまさらどうしようもない気がするので気付かなかったふりをして、田中天使の話を聞くことにした。
「彼女は何も悪いことをしていないのに、なのに、どうして死ななくてはならなかったのか? 突然姿を消して再会する時が、なぜビルの上から地面に叩きつけられた後でなくてはならなかったのか? 私は何度も考えました。でもやっぱり、彼女は何一つ悪くないんです」
田中天使は泣きすぎて鼻水が出ていることも気にせずに、必死に話しを続けていた。
「なのに犯人は『彼女のことはよく知らない』し、『人生に絶望して勝手に飛び降り自殺をしただけでは?』と証言したそうです。そんなことはありえないのです。無断外泊もしたことのない彼女が、次の日に友達と会う約束までしていた彼女が、学校帰りに何の連絡も無しに姿を消してからずっと戻ってこないなんてことは絶対にありえない話なのです。あんなに真面目でいい子だったのに。犯人にたぶらかされたからにきまっています。だから私は警察に訴えた。けれど受け入れてもらえなかった。そればかりか、むしろ私が犯人ではないかとさえ疑われる始末でした」
警察は疑うのが仕事だから仕方がないのかもしれないが、この顔を見たら誰だって疑いたくもなるだろう。
目の前で田中天使が話している最中に何度も鼻をすすっているが、そのたびに鬼の形相のようになるので心臓に悪い。弱っている入院患者なら下手をすれば息の根を止められるぐらいの破壊力があるのではないだろうか。
だが、そんな顔に生まれてしまった田中天使自身にはなんの責任もない。結局は運が悪いと諦めるしかない。
「信じてもらえなかったのは、もちろん私がこんな怖い顔をしているからです。きっともっと美しい顔をしていれば、警察も話ぐらいはきちんと聞いてくれていたはずです」
俺はこの田中天使とその妹に親近感を覚え始めていた。
——そうなんだよ。理不尽な不運に見舞われる奴はいつまでたっても不幸なままなんだよ。『何も悪いことをしていない』のに。
こんな時に不謹慎かもしれないが運が悪いのは俺だけじゃないんだと思うと少しほっとしていたのは事実だった。
「世の中は偏見に満ちています。目つきが悪い人は怖い人。笑顔が綺麗な人は心も綺麗な人。でも本当にそうでしょうか? 生まれたばかりの赤ん坊は殺人を行ったりしません。でも、結局、見た目で判断されながら成長していくにしたがって、周りのみんなが押しつけるイメージに押しつぶされていくだけなんです。怖そうな人、悪そうな人——そう言われ続けて人から疎まれ、やがて犯罪を起こす。私のように……」
確かに田中天使のように、怖い見た目をしていたら生まれた時点で人生がハードモードだろう。イケメンや美人に生まれてきた人に比べれば、学校でのいじめや社会に出てからの不遇な扱いを受ける毎日が、どれだけ大変だっただろうかということは容易に想像できる。
「つまり社会が悪いんです。こんなに悪い価値観がはびこっている社会は、一度リセットするしかない。偏見の無い、すべての価値観がフラットな状態からやり直すしかない。だから、私はこの計画を立て実行することにしたのです」
田中天使が立ち上がると、装置の前に近づいた。
「ちょ、ちょっと待て、早まるな!」
俺の声は裏返り、まるでヘリウムガスを飲んだ時のようにまったくといって良いほど説得力のないシロモノだった。
もちろん、よくある刑事ドラマのように『待て』と言われて待つバカな犯人は現実にはいないであろうことはわかっていたが、言わずにはいられなかった。
「田中さん達が酷い目に遭ったという事情はなんとなくわかった。でも、なんでここなんだよ? 犯人に直接仕返しをすればいいじゃないか?」
田中天使は、凶器的な笑顔で俺を見た。
「妹の愛子は、この店でアルバイトを断られました。顔が悪いという理由だけで。そんなことを本人の目の前でさも当然のように無神経に言い放った店長こそ、愛子を拉致し自殺に見せかけて殺した犯人なのです」
「ここの……店長が……?」
背中に一筋の汗が流れるのを俺は感じた。
「そうです。五年前に店長をされていた涼木幸希さん……あなたこそ、私が仕返しをすべき人物です。この因縁の場所にあなたが居合わせた今こそ、この計画を実行するのに最適の時だったのです」
「嘘だ……」
俺は思い出そうとしていた。
確かに、自分が店長をしている時に女性のアルバイト店員を顔だけで選んでいたのは事実だ。回転の速い若いアルバイトをいちいち性格まで加味して選んでられないからだ。
客のほうにしてみれば、どうせ同じマニュアルにのっとって接客されるなら、愛想の良いブサイクよりも多少手際が悪くとも美人で若い店員に接客してもらったほうが、誰だって得をした気分になるのも事実だからだ。
でも、そんなことはどこでもしていることじゃないのか? 受付嬢が美人ばかりなのも、TV局のアナウンサーが文章すらまともに読めなくても美人ばかりを採用するのも、そういうことじゃないのか?
そうだ。時代が求めているってことだ。何かができるのは当たり前。見た目が悪ければスタートラインにすら立てない……そんな時代なんだ今は。だから俺のしたことはそんなに悪いことじゃないはずだ。それに……。
「田中愛子なんて俺は知らない。面接なんて何十、何百とするんだ。そんな面接をしただけの人間を覚えているわけがないだろう? だいたい彼女と面接以外で会った覚えすらないし、まして拉致して殺すなんてことはありえない。何かの間違いじゃないのか?」
田中天使は胸元のポケットから手帳を出し俺の方へ投げてよこした。手帳の中から写真が二枚飛び出している。拾い上げた写真を見て俺は息が止まりそうになった。
「あなたに『顔が悪い』と言われ悩んだ愛子は、その日のうちに家を飛び出し、とうとう整形に手を出してしまったようです。見違えるように美しくなった彼女は、違う名前を名乗ってあなたに再び近づいている。その手帳にはあなたと何があったのか、ビルの上から落下して死ぬ日まで、こと細かく書かれています」
俺は必死に手帳をめくった。
※ ※ ※
三月三日 マケドナルドに面接に行ったら『顔が悪いから採用できない』と断られた。ものすごく傷ついた。だから私は決心した。今日は『田中愛子』最後の日になると思う。父と母が私名義でずっと貯金してくれていたお金を使って整形することにした。だからもう家には帰らない。お父さんお母さんごめんなさい。お金も決意も無駄にしないように絶対に幸希さんに可愛いと言わせてみせる。
四月一日 年を二十歳とごまかして再びマケドナルドに面接に言った。『河合愛』として出会った私に、幸希さんはとても優しい。一緒に働けて夢のようだ。
四月七日 幸希さんの家の合い鍵を勝手に作ってしまった。幸希さんが働いている時を見計らって、何度も家の中に入った。どんな生活をしているのか見てみたかったからだ。
五月五日 幸希さんの家で、幸希さんが毎日使っているコップや歯ブラシ、パジャマやパンツをいくつか持ってきてしまった。空き巣に見せかける為に部屋を荒らして、へそくりの五万円も一緒に持ってきた。これでばれないだろう。
五月三十日 幸希さんの部屋に入るのはもう十回以上になるかもしれない。でも全然気づいてないみたいだ。見つからないほうがいいけど、まったく気づいてもらえないのも少し寂しい。
六月八日 最近幸希さんが冷たい。新しく入ったロリ顔アルバイトが好みのようだ。彼女より私の方がよっぽど美人なのに現役高校生というだけで幸希さんにとってポイントが高いようだ。てっきりお色気系が好きだと思っていたのに。仕方ないので、ロリ系の顔に直してもらおうと決意した。またお金が必要だけど仕方ない。幸希さんのためならなんだってする。
七月七日 『河合愛』最後の日。退職届けを出しに行ったら、幸希さんがあまりにも例のアルバイトに対してデレデレしていたので頭にきた。だから、帰り際に幸希さんが昨日買ったばかりという車に放火してやった。いい気味だ。
八月一日 『松永愛美』最初の日。街で偶然会ったフリをして修二さんを逆ナンパしてみた。気づいてないみたい。安心したけどちょっと悲しい。でもロリ系のこの顔はかなり好みみたいだ。すぐに一万円の宝石を二十万だと言って買わせることができた。これで整形手術の資金が少し回収できた。ちょっとうれしい。でも、最近借金の催促がうるさくなってきた。
九月九日 催促の電話がうるさくて家の電話も携帯も電源を切っているので使えない。家の前まで借金取りが来るので、アルバイトにもいけない。幸希さんに会いたい。
十月四日 もうだめかもしれない。でも、最後に幸希さんに会いたい。
十月九日 もう終わりだ。幸希さんに会いに行ったら、違う女と一緒に笑ってた。もう死にたい。
十月十一日 『田中愛子』『河合愛』『松永愛美』は今日で終わりです。お父さんお母さんごめんなさい。
※ ※ ※
日記は、ちょうど五年前の日付で終わっている。
俺が人生で今まで体験してきた大きな災難の記憶のうち『受験前日の食あたり』以外は『空き巣』も『車の放火』も『宝石詐欺』も全部『田中愛子』の分身である『河合愛』『松永愛美』の仕業だったことに気づいてしまった。
——おかしいと思ったんだ。こんなに運が悪いはずがないって。そうか。そういうことだったのか。
……なんて納得している場合ではなかった。
今にも田中天使は爆弾のスイッチを入れようとしながらこちらを睨みつけている。
「涼木幸希さん。あなたのせいで彼女は死んだのです。だから、私は法の代わりにあなたを裁かなくてはなりません」