11月30日
空気が乾燥しているので、唇がかさついて仕方がない。指でなぞると皮が爪に当たり、なんだか酷く不愉快な気持ちになった。
「寒っ……」
事業所から外に出ると暖房で暖まった体が寒風に一気に冷やされ、思わず独り言を言ってしまった。
日は沈み、なんでもないのに気が沈む。
「マクラ」
カナル型のイヤホンを耳に突っ込もうと立ち止まっていたら、背後から声をかけられた。
振り返ると、街頭の下に裸足の少女が立っていた。
「……靴どうした?」
銀色の長い髪が風に揺れている。セーラー服の宮藤美夜がジッと俺を見つめていた。
「無くした」
虚勢というよりも単純に興味がないように彼女は吐き捨てた。そこに突っ込むのは野暮のような気がしたが、暦の上では十一月である。
「タクシーを呼ぶから家に帰れ」
「いらない。そんなもの。それよりも別にお願いがある」
「……とりあえずウチに来い。十分くらいだけ我慢して歩いてくれ」
「へんたい」
優しさは冷たい瞳で返された。
くるぶしが明かりに照らされ、俺の目に飛び込んでくる。
「ちゃうわ。靴をやる。サイズが違くても裸足よりはましだろ」
「遠慮しておく。くさそう。いまここで僕は君と話がしたい」
「おい、ボソリと言った言葉、はっきり聞こえてるぞ」
黄昏が過ぎ、辺りはすっかり紫に包まれていた。星が西の空に輝いている。宵の明星。ルシファーが明けの明星だとしたら、宵の明星は何を表すのだろうか。
遊歩道に二人がけのベンチがあった。市が町作りの一環で設置したものらしいが、利用者を見たことがなかったので、まさか自分が第一号になるとは思わなかった。
「秋の夜は静かでうるさいね」
美夜は旋風のようだった。落ち葉を巻き上げ、高く舞い上がるその姿は、一時の激しさを感じる。
「それで職場にまできて一体なんのようだ」
「僕の周りで自立している大人はマクラだけだから」
上着を羽織った美夜は首を亀のように埋めて、流し目で俺を見た。ブカブカの男物の上着は小さな彼女には不釣り合いに見えた。
「どこか遠くに行きたい」
白い息をはいて彼女は夜空を見上げた。
「僕はただそう思ったんだ」
「じゃあ行くか」
俺の返答に意外なものでも見るように美夜は目を丸くした。今日はじめて彼女の感情が見えた気がする。
「どうした?」
「こういう時マクラは頭ごなしに否定をするタイプだと思っていた」
「俺だってたまにはセンチメンタルな気持ちになることもある」
白くて長い彼女の髪が風もないに微かに揺れた。
「ちょっと待っとけ」
自宅に戻り、財布と原付の鍵、それから外套と、下ろし立てのスニーカーを持って下に降りる。
階段の手すりに肩をもたれさせ、相も変わらず空を眺めている。細く華奢な肩をしていた。
「星少ないね」
頑なに美夜は俺の部屋に入らなかった。
数週間前、勝手に部屋に入ってきたくせに何の心境の変化だ。
時々無償に人混みを叫びながら駆け出したくなることがある。白い目で見られても自分の存在証明を世に知らしめたくて。
でも実際はやらない。
発狂したと思われたくないから。
なんだろうね。所詮俺も母親と同じで世間体を気にするやつだったってことかね。
「足」
「?」
「足出せ」
原付の座席に美夜を座らせ、お湯で温めたタオルで足を拭いてやる。白いタオルがすぐに黒く染まった。
「どこから裸足だった、お前」
「学校から」
「靴下はどうした?」
「奪われた」
「そうか」
「……」
「靴下もやるよ。もうすぐクリスマスだしな。ほれ」
「サンタさん来てくれるかな」
なんて声をかけたらいいのか悩む。
イジメはなくなったんじゃなかったのか。
タオルを座席の下のトランクにしまい、それから靴下と靴を履かせて、立ち上がらせる。
「行くか」
グローブをする前に、美夜にネックウォーマーをプレゼントしてあげた。
「どこにいくの?」
「どこに行きたい?」
「遠く。知らない町。知らない世界」
「海だな」
「……うん。海がいい」
冗談めかして言ったのに気持ちよく賛同されてしまった。まあ、こういう時はとりあえず海的なところあるしな。
「ああ。ヘルメット被れよ。前乗せた奴はガキだったから、なんとかなったけど、さすがに今回はわからん。常に転倒の恐怖が付きまとうと思え」
断っておくが原付の二人乗りは禁止されている。ノーヘルもだ。だけど、先日法律を破ってからまったく気にならなくなった。何事も二度目は余裕なのだ。
とはいっても国道やでかい道は車通りが多く、警察の監視の目も怖いのでこそこそと裏通りを走ることにする。
当然灯りも少ないし、道幅も狭い。二人乗りで事故ったらほんともう洒落になんないので、一切の油断なくアクセルをふかす。
「……が……ま……」
「あ、なんて?」
「ヒ……ト……ハレ……」
「あ?」
エンジン音と向かい風に飲まれた背中の美夜の声がまったく聞き取れなかった。
「……す、……は」
「ちょっとまて」
ブレーキをかけ、エンジンを停める。もし大切な話をしていたとしたら、聞き漏らすわけにはいかない。
「なんだ?」
「すごくはやい」
「……聞いて損した」
俺の住む町から海岸線まではけっこう遠い。原付の速度だとどんなに飛ばしても三十分はかかるだろう。加えて二人乗りで衆人の目を気にしながらアクセルを吹かすとしたら、軽く一時間は見た方がいい。
だから、ちょうどいいのかもしれない。
いつか自らを人形と称したくせに、秋の夜風に負けない体温を持った美夜は俺を冷やすことなくきちんと温めてくれた。
イジメは克服したもんだと思っていた。
だから、疑問だった。靴を隠されるなんて、もう、ないはずなのに。
魔王こと保護者……いや、生徒会長青村紗季はこの事を知っているのだろうか、と考えて、俺は思い出した。
「太宰府天満宮に行って参ります」
つい二日前、道を歩いていたら、サキに声をかけられた。ストーカースキルを発現させ、俺の居場所を特定したらしい。
「いちいち報告せんでええわ」
「学問の神様ですよ」
「受験もう終わっただろ」
「いいではありませんか、勇者への復讐を祈って参ります」
「神様もそんな事叶えてくれないんじゃないかな」
「菅原道真は復讐をやり遂げて神になった男です。きっとワタクシに共感してくださります。とまれかくまれ町の留守は任せましたわ」
青村紗季は修学旅行で現在イン福岡だ。
だからといってそんなすぐにイジメが再発するもんなのか。
生徒会に入ってミヤのカーストは向上し、イジメは無くなったと思っていた。圧力を持つサキや、不本意ながらも文化祭の俺の活躍でもう大丈夫だと、俺は思い込んでいた。思いたかっただけなのだろうか。
そんなことを女々しくグルグル考えてたら、目的地についてしまった。
なんでもない一時間は遅いけど、悩んでいる時の一時間は本当に早い。これが相対性理論か。携帯を光らせてデジタル時計を確認すると、三十分も経っていなかった。
「意外と近いね。海」
エンジンをきって、スタンドをたてる。鍵を抜いて、俺はバイクを降りた。
「到着だ」
手を差しのべて美夜をゆっくり下ろす。学芸会でシンデレラ役をエスコートしているみたいにきごちなくなってしまった。
海といっても砂浜はない。灯台もない。アスファルトだけで構成された埠頭だ。街灯や漂着する船は潮風に錆び付き、寂しさだけを漂流させていた。
日が沈み月も出ていない暗い夜なので、マジックインキで画用紙を塗りたくったみたいな海は文字通り暗黒だった。恐怖こそ感じれど、感動するような光景ではなかった。
ジッと見ていたら飲み込まれてしまいそうだ。
押し寄せる波が一定のリズムを持ってアスファルトを叩きつける。ぶらりと歩き出した俺とミヤの挿入歌のように感じられた。
「もうすぐ合唱コンがある」
ミヤがボソリと呟いた。
「あー、あれね」
「マクラは歌うの好き?」
「歌うのは嫌いだが合唱コンは好きだったな。本番に向けてクラスの雰囲気がみるみる悪くなっていくんだ。注意する委員長や口パクで乗り切ろうとする音痴のお陰でな。あの殺伐とした雰囲気は好きだったな」
「歪んでるね」
くすりと少女は微笑んだ。
「僕は歌うのは好きだけど合唱コンは嫌い」
「ふぅん。珍しいタイプだな」
「あいつがしゃしゃり出るから」
「あいつ?」
「……」
ミヤはそこで言葉区切ってなにも言わなくなってしまった。
俺は探偵ではない。だけど、ピンと来るものがあった。
文化祭のとき、ミヤが仕掛けた爆弾は軽音部が演奏するホールにあった。
恨みが蓄積する場所。
これは想像だが、イジメっ子は軽音部所属なのだろう。つまり、音楽系ということだ。合唱コンクールもしゃしゃり出るに決まってる。
「いつか、……ガッコで気まぐれで歌ったことがある。覚えてる人がいて、私をソロパートに推薦してくれた。それが気にくわなかったらしくて」
「そうか」
「『生徒会長のお気に入りだからって調子に乗んなし』」
「物真似パートいれるんなら事前申請してくれる?」
突然声音変えるから、何事かと思ったよ。
「『電波のくせにさぁ、調子にのって。あんたの歌なんてゴミクズなんだからさぁ!』」
「その子、口悪いね。デスメタルやってるのかな」
「『邪魔すんな。大好きな生徒会長と一緒に吹き矢でも吹いてろ!』」
甘いものが飲みたくなってきた。頭が痛くてたまらない。鼻をすする。
「僕は、怖くて何も言い返せなかった」
「そう、だよな」
いじめられたこともないし、いじめたこともないし、いじめをみたこともないし、そんなやつの言葉が彼女に響くと思わなかった。
俺がしたことあるのは虐殺で、女子高生の内部紛争なんて扱いきれる問題ではない。
「マクラ、僕はどうしたらいい?」
「……」
その問いかけは、難しすぎた。
「逆にお前はどうしたらいいと思う?」
一回逃げることにしよう。
「わからない。僕には、あいつの機嫌が」
「機嫌とりなんてしなくていい。お前のやりたいことをやればいい」
「僕のやりたいこと?」
「そうだ。他人なんて関係ない。他人なんて所詮自分の人生の脇役だ。お前がやりたいようにやれ。俺はそれを全力でサポートしてやる」
考えながら言葉にしているが、俺は心からの気持ちを伝えていることに気がついた。海が近いからか、潮騒の音を聴いていると頭が冴えていく。
「助けてくれと言うなら全力で助けてやる」
「マクラ……僕は……」
ミヤは立ち止まって少しだけうつむいた。
「僕は歌いたい」
「なら、歌え。邪魔する奴は俺が叩き斬ってやる」
あ、やべ、癖で斬るって言っちゃった。
「そして、それをマクラやサキやユナやテリヤムにも聞いてほしい」
「知り合い全員かよ」
「あ、あと、草にも」
「俺も普通に忘れてたよ……」
一応いれるだなんていい奴だな、こいつ。
「ねぇ、マクラ。君にだけ、君にだけ歌うから聞いてほしい」
「ああ」
「海が近いからかな。昔を思い出す。僕の故郷は海の底なんだ」
海底神殿にあった聖剣を取りに行くため、俺たちはミヤの同胞を斬って砕いて壊しまくった。
海にしたのは失敗だった。山にしておけば、こんな気持ちにならなかったのに。
「ねぇ聞いて」
「ああ」
ミヤは歌いだした。
某有名なアニメーション映画で人魚姫の作中に歌われるアップテンポな名曲だった。楽しい曲だ。
「お、おう」
しっとりとした優しい曲が聞きたかった。雰囲気を考えてほしい。合いの手というバックコーラスを歌わされる俺の気持ちにもなってみろ。
「なんか楽しいね」
歌い終わって第一声がそれだった。
ミヤの心からの声に聞こえた。
「そうだな」
「本番も……歌いたいな」
「……無責任なことは言わないし、言いたくない。だけど、これだけは言っておこうと思う。観に行くよ」
「ありがとう」
そう言って彼女は静かに泣いた。




