続 飛んでいる矢は止まっていた 9
息も切らさず汗も流さず、一人の少女がドタドタと走ってくる。真冬に着込むコートを翻し、彼女は高くジャンプした。
季節感をごちゃまぜにしたような天使に体の向きをかえ、腕を真横につき出す。
ゴールテープを顔面で切るように俺の上腕筋がヨイナの高い鼻を打ち付けた。
「ぎゃ」
ラリアット。この無秩序な天使に。
地面に仰向けにヨイナは倒れた。
「うう、空が、青いんよ……。こっちの世界も」
後頭部をアスファルトにぶつけないよう足の甲で支えて上げる。虚ろな瞳でヨイナは空を見ていた。
入道雲が青空に浮かび、夏を象徴しているようだった。
「まだやるかい?」
金髪を垂らしながら、彼女はわたわたと立ち上がった。
「んにゃー!」
返事をすることなく、猫手で殴りかかってくる。
手のひらでパンっと受け止めたら、
「いた……」
手首を痛めたらしい。
眉をしかめてじっと痛みに耐えていたが、すぐに
「負けないんよ!」
気合いをいれて、蹴ってきた。ので右手で弾く。
「うわっ!」
倒れかけたヨイナの腰を持って支えてあげる。
「まだやるかい?」
「……げ、元気一杯だぜ」
「気持ちはわかるんだけどさ……」
「負ける、負けるわけにはいかないんよ」
手を離し、自分の足で立ったヨイナは下唇を噛んで悔しそうにうつむいた。
なんてこともない。
警戒をしすぎていた、らしい。
天使だ、神だ、と聞いていたが、見た目通り戦闘力は下の下だ。
「勝てるとおもうのか?」
「勝たなきゃならないよ、運命に」
「運命ね……」
「そもそも、おかしいんよ。普通、過去に戻れば悲惨な未来を変えようとするものなんよ。それなのに、元の歴史に準じて動こうとするなんて頭おかしいんよ」
「何度も言ってるだろ。過去は変えられない。後悔なんてないんだ」
「強いんやね……」
「それが、普通の人間だ」
顔をあげヨイナはまっすぐ俺を見た。
「ヨイナは耐えられないんよ。望む未来が来ないなんて。ヨイナは……ヨイナが頑張れば……」
「そういう考え方は好きになれないな。自己犠牲の精神を持っているなら即刻どぶに捨てるべきだ。他人の幸せを願う前にまず自分が幸せになれ」
「それでも……」
涙目だ。鼻血も出ている。
生まれたての小鹿のようなおぼつかない足取りで、ヨイナは一歩前に踏み出した。
「愛する国を守るんよ。ヨイナを救ってくれた国を、世界を、滅んで行く姿なんて見たくないんよ。だって、だって、ヨイナは天使やから、絶対、絶対、恩返しするんよ! だから!」
ヨイナの大きな瞳から涙がこぼれた。
「勇者にはノースライトを救ってもらわないと困るんよ!」
「……」
あまりにも真摯な思いを正面から受け止めて、正直困惑してしまった。俺はどうすればいいのだろうか。
昔のように正義感があるわけでもなく、情熱の余熱みたいな現状に余裕なんてない。自分の人生だけで手一杯だし、他人を救えるほど俺は偉くない。
影法師が足元に立っていた。光あるとこまた闇もある、とは魔王の言葉だったか。
背後で成り行きを見守る少女と目があった。
なにもわからぬ少女。汚れも恐れも罪も無念も知らぬ純粋無垢な少女の瞳は、俺のすべきことを教えてくれているようだった。
「そう、だよな」
もとより、答えなんて決まっていた。
勇者の使命は世界を救うことで、
それ以前に、困っている人がいれば、助けてあげるのが、普通の人だ。
「わかった」
頷いて再びヨイナの方を向く。何に対してか、は分からないが、納得して前に進むためにそれは必要な儀式に思えた。
「……わかったって……」
「お前の熱意に負けたってことだ」
ヨイナは息を飲んだ。
流れ落ちる涙を止めようともせず、裾をギュッとつかみ、震えながら言葉を紡いだ。
「ノースライトに、転移してくれるん?」
「いやだ」
「え?」
ぽかんと彼女は口を開いた。
「だけど必ずどうにかしてやる」
ヨイナは目尻をぬぐってから俺を睨んだ。
「過去は変えないが、未来は変えられる。元の時間に帰してくれ。そしたら俺が何とかしてやる」
もちろん一人じゃ無理だ。
だが、俺にはたくさんの味方がいる。
ルゥナにサキにアリス,交渉の余地はいくらでもある。
平和維持条約の締結は必ず成し遂げなければならないのだ。
「な、何をいってるんよ。無理無駄無謀! 未来も変えられないんよ。どんなに頑張ってもノースライトは救われないんよ」
「誰が決めた?」
「だってぇ……」
「そういえばお前がノースライトからの客将だってな」
ルゥナが前に、ノースライトから来た男が王を操りニフチェリカの暗殺を企てた、と。
「男だと思っていたが……」
「男装なんよ」
こいつもテリヤムと同じ人種か。
「まあ。なんでもいいが、やり方が間違ってるだけだ。魔界とサウレフトをぶつけて双方の国力を削ろうなんて考え方がコスいんだよ」
「もう少しでうまく行くはずだったのに、ルゥナに感づかれて、おじゃんなんよ。だからわざわざ時間を戻して勇者に会いに来たんよ」
「時間なんか戻す必要はない。もとよりなにもしなげれば世界は平和でいられたんだ、魔界もサウレフトも、ノースライトも」
「どういうことなんよ」
「不可侵条約を三国で結ぶためにサウレフトに向かおうとしていたんだ」
「そんなのうまく行くはずないんよ、平和なんて絵空事なんよ。やられる前にやる。先手必勝なんよ」
「戦って勝ったあとになにが残るか考えろ。戦勝国が全部幸せになれるとは限らないんだ。同盟を結んで国土の安定をはかる方がよっぽど有意義だろうが」
「そんなの……」
「俺がどうにかしてやる」
大言壮語だ。
「俺が未来のノースライトを救ってやる」
だけど、大義名分ができた。
「だから、未来へ帰してくれ」
彼女と一緒にいるための。
「前も言うたけど……ヨイナにそんな力はないんよ」
ヨイナは照れ臭そうに鼻の頭をかいた。
「だけど、お願いするんよ。ヨイナは勇者にかけるんよ。ノースライトを救ってほしいんよ」
華やかな笑顔で頭を下げられる。
「まて、未来へ帰してくれないのなら貴様はどうでもいい」
「ひ、酷いんよ」
「サキ」
話についていけず視線を泳がせていたサキに声をかける。
「は、はい」
「というわけだから、俺を帰してくれ」
「あ、あの、どうやらあなたたちが魔界の関係者ということは理解したのですが、どうにも話が飲み込めなくて……」
高校一年生のサキは幼い瞳に戸惑いを宿らせた。
「そもそもワタクシに、未来をどうにかする能力なんてありませんわ」
そういえば潜在スキルと言っていたな。初めて聞く言葉だが、おそらく覚えてはいるがレベルが低くて使えないスキル、ということなのだろう。横目でヨイナを見る。
「発動はできないんよ。魔力が足りんやよ」
「魔力だと?」
「前はルゥナの魔力をこっそり使ったからなんとかなったけど、この場に時間操作スキルを発動できるほどの大量の魔力を持った人はいないんよ」
「中途半端な」
しかし、そうするとどうすればいいか。
軽く考える。ああ、そうだ。
テリヤム・メドクーラのことを思い出した。
あいつ確か夜になれば月から無限の魔力を得ることが出来るとか前にほざいてたな。あの変態の力を借りるのはしゃくだが、これで、なんとか未来に。
「あ、だめか」
本来の時間軸で異世界に転移するのは夕方だ。つまり月が出る夜まで待ってたら未来が狂ってしまう。
どうしようか。
他に魔力値が高いやつ、いたかな。
草は論外だし、スライムとドラゴンはどこにいるのか知らないし、あとはミヤとか……。
サキの背後で眠りこけていたミヤが目を覚ましゆっくりと身体を起き上がらせた。
目に光はない。寝ぼけているのだろうか、やけに緩慢な動きだ。
「あ」
服がはだけてブラジャーが見えた。ごめん。
咄嗟に、網膜に焼き付けてから、目をそらした。それが不味かった。
「なっ」
反応が遅れた。
ミヤの手にはゴツい工作用の黄色いカッターが握られていた。友利が教室で俺に向けたやつだ。
なんで、こいつがそれをもってるんだ。
と疑問に思うより早く俺の体は反射で動いていた。
ミヤがサキを刺そうとしたからだ。
「っう」
下腹部に鋭い痛みを感じた。
「え? なんで」
俺に押されて、土の上に倒れたサキは不可解な現状に唇を震わせた。
反射で、庇ってしまった。
じんわりと熱と痛みが上ってくる。
「おれが、聞きてぇわ」
なんで、ミヤがサキを刺そうとするんだ?
ミヤは能面のように無表情だ。
俺を刺したまま、さらにカッターを押し込んだ。ネジを巻いたばかりのからくり人形のようだった。




