続 日常生活を侵食する暗殺者たちの行動 6
さて、俺もそろそろ行くとしよう。
水浸しの階段の途中で立ち止まっている暇はない。
氷が残っているので転ばないよう気を付けながら一段一段足をかける。
暖房は好調だ。
階段を上がりきると温風に前髪が靡いた。
奥の部屋を目指す。
長い廊下とフカフカの絨毯に、謎の浮遊感に囚われる。
サキの部屋につくまでかなりの時間がかかった。テリヤムの屋敷と同じくらいだろうか。無駄に広い屋敷である。
木製の茶色のドアには「にふちぇりか」とネームプレートがかけられていた。
ノックをしてみる。
「……」
返事がなかった。
もう一度軽く拳を叩きつける。
「……ふぁい」
気の抜けた返事が聞こえた。
「すみません。いまちょっと誰にも会いたくありません……」
しゃっくり混じりの声だった。
「落ち着いたら下に降りますので、少し待っていてください……」
「いやだ」
「!」
「開けろ」
少しの間があってから、彼女は半ば怒鳴るように声をあげた。
「な、ななな、なんでここに。す、ストーカーですか?」
「カレシだ」
「わ、別れましたもん!」
「あんなん認めるかボケ。わかってんのか、命が狙われてるんだぞ。約束しただろ、お前を守るって」
「ぅ、うう」
「サキ?」
「ふぇえええええん」
圧し殺す気なんて、微塵もない無様な泣き声だった。
予想外の展開に軽くパニックになる。
「うぇぇぇぇぇぇん」
「お、おい。大丈夫か?」
普段の取り繕ったサキからは考えられない大声だ。
「帰って、帰ってくださいぃぃぃ!」
「おい!」
「えっ、ぐ。ううう、ダメですぅ。わた、わたくしが、いると……」
たどたどしく、少女は続けた。
「ま、まくらさんに迷惑がかかるんですぅ。うううう」
「……」
言葉に窮す。
いや、正確には呆れてモノが言えないのだ。
「あの……」
「別れるの! もう、だめなの。マクラさんが、一歩前に進むのを邪魔するくらいなら……」
「……」
「もう会わないほうがいいんですよぉ! ううううー!」
そんなバカなこと考えてたのか。
「ふぅ」
一呼吸して、
「解錠」
鍵穴に鍵を差し込みドアを開ける。
「うっ?」
「悪い、入るわ」
膝をかかえてうずくまる少女。
涙でにじむ瞳と目が合う。
「よぉ」
涙が一旦引っ込み、顔がじょじょに赤くなる。
「わ、わか、わ」
「わ?」
「別れたくないですぅぅぅぅぅぅ!」
本音が飛び出た。
短い意地っ張りだ。頬を朱に染めたサキは可愛かった。
「こんなにも、こんなにも、胸が締め付けられて苦しいなんて知らなかったんです! 好きなんです! 自分に嘘がつけないんです。感情が溢れて止まらないんです。大好きです! 愛してます!」
熱烈すぎやしないだろうか。
「マクラさん、マクラさん、すみません。迷惑がかかると分かっていても、だけどやっぱりマクラさんが好き!」
履かせるオムツみたいに言うなや。
「頭がいっぱいなんです。いつまでも隣にいたいんです。一緒に歩きたいのです。下らない夢と笑うでしょうか? それでも夢から覚めたくないのです。ワタクシにとってアナタと出会えたことは純粋に奇跡なのです。世迷い言と言わないでください。世界が変わるくらいの奇跡なのです。お願いです、お願いですマクラさん、ワタクシの思いに応えてください」
潤んだ瞳で見つめられる。
「これは独りよがり……エゴですか……?」
手を伸ばし、髪を軽く掬い上げる。
「エゴではないな」
頭にぽんと手を乗せた。
「両思いだ」
柔らかい気持ちがわき起こる。
「ううぅ……」
手を掴み、立ち上がらせる。
小さな手のひらだった。ウルっとした瞳を自らの網膜に映し出す。
ああ、俺にとっても、奇跡なのかもしれない。
ニフチェリカ・マーメルトという存在がこの世にいることを、そっと世界に感謝した。
ガタン。
背後で音がした。
夜の冷えた風を感じた。
混乱のうちに振り返り、定まらぬ視線で窓を見る。
闇を背景に、黒いコートを羽織った金髪の男が窓枠に腰かけていた。窓から部屋に入ってきたらしい。夜なのにサングラスをかけている。
「誰……」
「我が暗号名は、暗殺者」
「……は?」
「魔王の命を絶つ白銀の弾丸。今宵この晩この月夜、漆黒の意思を持って冥府へ送ろう。弾音は葬送曲、暗殺という非情な手段を用いることを赦したま……」
「火!!」
「な!?」
これ見よがしに胸に宝石のネックレスをしていたので火炎魔法で撃ち抜く。
「うおおおおおおおおおッ!?」
緑の欠片が砕け散る。
キンッ、という音がして、男は向こうの世界へ強制送還された。
「……」
あとにはただ静寂が残った。
「今の人は、誰ですか?」
きょとんとするサキ。
「知らん」
「そうですか……」
「あ、たぶん、暗殺者、かな」
「な、なるほど」
光を残し男は消えた。ホタルのような粒子が線を引いて俺の視界を横切った。
なんだったんだ、あいつは。
とっさのことで理解が追い付く前に、脊髄反射のように倒してしまったが、とりあえずはこれで五人。
秋葉原に行ったフローレンス・メリタを抜けば、目先の危機は去ったと思って問題ないだろう。
「これでとりあえず元通りだ」
開け放たれた窓から夜風が吹き込む。
「あ……」
庭で咲く桜の花びらが風に乗って室内にふわりと落ちた。
風向きか、気圧の関係か、春風とともにヒラヒラと室内に落ちる花びら。いくつも、いくつも。
「春……ですね」
「あぁ、春だな……」
桜。
サキの卒業式を思い出す。
卒業証書と花束を握りしめ、彼女は俺に駆け寄ったのだ。
少し前のことが遠い過去のように思い出される。
「マクラさん……あの」
現実のサキはぷっくりとした唇を震わせながら、潤んだ瞳で俺を見つめた。
「なんだ」
「……あの、ですね」
耳が赤くなっていく。
「キス……」
消え入りそうな声だった。
「キスしても、いいですか?」
「!」
謎の貞操観念を持ち、妙なところでガードの固いサキにしては珍しい要望だったが、断る理由もない。
静かに頷く。心臓の高鳴りがうるさかった。
サキは一度嬉しそうに目を見開くと、すぐにボタンのような瞳を閉じた。
「んっ」
微かに触れあう唇。フレンチキスだった。
「……」
まばたきほどの短い時間。
「うふふ」
仄かな感触が離れ、視線がぶつかる。
かかとを静かにおろして彼女は呟いた。
「恥ずかしいです」
「ああ」
完熟トマトみたいに赤くなったサキは、スカートの裾をギュッと握ってうつ向いた。
桜の花びらが床に落ちる。花の匂いがした。耳たぶが燃えるように熱かった。
ハードだった一日が終わろうとしている。
これから、どうしようか。
未来は見えないが、やらなくちゃいけないことはたくさんある。
希望なんてどこにもないけど、
奇跡は俺の胸にあり、
季節はどこまでも春だった。




