第一章
恋、それは生きていく上で誰もが経験するもの。人を好きになり告白する、それが片思いだからこそ断られて終わることもあれば、実は両思いだったと分かりそこから付き合い始めるなどさまざまにある。恋をすることで人生は良くも悪くもなるものだ。
恋のまず第一歩は初恋。人によって時期に違いはあるものの、必ず想う人ができるものだろう。だが、未だに恋をしたことがないという少女がいた。幼い頃から常にモテることはあっても自分から誰かを好きになるということが一度もなかった。別に興味がないわけではない。単純にそう思えるような相手がいないだけで、恋をしてみたいとは思っている。
少女の名は大塚咲、高校を卒業したばかりの十八歳。家族は父と母がいる。しかし、両親とも咲が中学を卒業する頃に海外転勤となり、今は海外に住んでいる。本当はその時、咲も一緒に行くはずだったが、咲は友達と離れたくないと両親を説得し、日本に残ることとなった。
高校に入るとアルバイトを始めた。高校の学費などは海外から両親が出してくれるが、家賃や生活費は自分で稼がなくてはならない。それが日本に残してもらえる条件だったからだ。なので、ほとんど学校終わりや休みの日はバイトばかりだった。生活はギリギリで貯金はもちろんできない上に友達からお金を借りることもあった。
そんな日々が在学中の間ずっと続いていたが、一ヶ月前にやっと高校を卒業した。これからは自由に働いて稼げる。そこで、早く稼ぐにはここが一番だと考え、卒業してすぐに就いたのが銀座にあるクラブだった。
クラブのホステスとして働き始めて半月、新人ともあってまだまだではあるが、容姿が良いため常に指名されるほどで仕事ぶりは順調だった。このままいけば生活も楽になり順風満帆な日が送ることができる。あとは誰かいい人に巡り会えたらいいなぁ…と思うだけだった。
クラブ[よしの]
「咲ちゃん。私、ちょっと奥にいるから何かあったら呼んでね」
この店のママ、宮下佳乃はそう言って持ち場を離れた。ここ、クラブ[よしの]は半年ほど前にできた新しい店で評判は上々だった。特にママの佳乃はとても美しい上に温厚で気品があり、彼女を贔屓に来る客は耐えないほど。その上、この店で働くホステスたちにとってもママは憧れの存在となっているのだ。
咲もママのような大人の女性になりたいと思う一人だ。彼女の場合、まだ十八歳とは言え童顔であるため、よく子供扱いされてしまう。だからこそもっともっと自分を磨き『大人の女性』を目指していた。なのに今のままでも相変わらず異性からモテる毎日だった。
店に来る客にも『その子供っぽさが可愛い』や『そのままでも十分』とよく言われる。中には本気で告白してくる人も…今日もすでに二人の男性に告白されてしまった。
特にそのうちの一人は、断っても断っても粘り強く好意をぶつけてきた。困り果てた咲は何とか一生懸命言いくるめてその場は一旦身を引いてもらった。それにしても、今日はそのせいでいつも以上に疲れが溜まってしまっていた。もう早く帰りたい。帰ってベッドに飛び込みたい!そう思った。
時計をちらりと見る。今日はいつもより早上がりだったことを思い出した。もう少しすれば終わる、そんな時だったー
「あの、すみません。ちょっといいですか?」と、五十代くらいの男性が声をかけてきた。
はい、なんですか?と答えると、ママに用事があると言われたのでその男性を奥まで案内した。
男性はママに会うと、「こちらの店のママですね?私、警視庁捜査一課の倉田と申します。今日、こちらに伺ったのはこの店で働いている由奈さんについてちょっとお聞きしたいのですが」と警察手帳を見せながら言った。
由奈とは[よしの]の店で、咲よりも少し前から働いているホステスである。しかしここ数週間、無断欠勤が続く上に連絡も取れない状態だった。
「できれば履歴書などを見せていただいても構いませんか?」
「え、えぇ。じゃあ、こちらにどうぞ。…あっ、咲ちゃん!ありがとう。もう持ち場に戻ってもいいわよ」
「はい」咲は気になりながらも戻っていった。すると、再び「あの…」と後ろから男性に声をかけられた。
咲が、はい。と言って振り返るとそこには二十代半ばと思われる男性が立っていた。
「突然すみません。私、こういうものですが」と言って警察手帳を掲げてきた。
「ここで働いている由奈さんについてちょっとお聞きしたいんですが、以前から変わった様子などはありましたか?」
「変わった様子ですか?……」咲は目を下に遣り、少し沈黙した。
「何か心当たりでも?」
「あっ、いえ。特に思い当たることはないです。」
「そうですか、ありがとうございました」彼はその場を離れ、別のホステスへと歩み寄って行った。
あの人、どこかで…咲は違和感を覚え、彼のことをじーっと見つめていた。と、そこへ同じホステス仲間で友人の亜実が駆け寄ってきた。
「どうしたの?今の人、刑事でしょ?私もさっき由奈さんのことで聞かれたんだけど…なんか変なことでも言われたの?」
「ううん、別に。私も由奈さんのこと聞かれただけ」
「そう、何か気になるの?ボーッと見ちゃって、あの刑事のこと」
「う、うん。ちょっとね…」
「えっ?何!やだ…もしかして恋ですか?」亜実は今までにない咲の表情を見てニヤッと笑うと、からかうような口調で言った。
「ち、違うよ!そんな会ったばっかりの人に!」
亜実の言葉に勢いよく否定したものの、心のどこか奥で何かが動き始めているような気がしてならなかった。
「今日はなんだかいろいろ大変だったみたいね。帰ってゆっくり休むのよ。それと最近物騒だから気をつけて帰ってね」
咲はママに見送られながら店を出た。それから少し歩いた所でゆっくりと立ち止まり、
「今日も…大丈夫だよね」と呟いた。
店からアパートまでは二通りの道がある。一つは、深夜を過ぎても人通りが絶えない上に街灯や、店の明かりがある道。もう一つは、人通りがほとんどなく街灯も少ないという暗い道だ。基本的に通るのは後者の方、なぜならこっちの方が断然近道だからだ。深夜のこんな時間、どうしても疲れて早く帰りたいと思うとついこの道を選んでしまう。そして、今日もここを通ることに。再び歩み出す。
大丈夫…大丈夫、今まで何事もなかったんだから。そう自分に言い聞かせながら歩いて数分ー
このまま問題なく帰れそうだ。と、そう安心した時だった。咲は、後ろに誰かいるような気配を感じた。微かに息遣いまで聞こえてくる。気のせい?そう思いたくても誰かいるのは間違いなかった。
振り向きたくない…そう思うも勇気を振り絞ってそっと後ろを振り返ると、そこにいたのは今日[よしの]の店で咲にしつこく告白してきた男性客の一人だった。
この男、あの場は引き下がったように思われたが実は咲のことがやはり諦めきれず店から出た後をつけてきたのだ。
「やぁ、咲ちゃん!今…帰りだよね?良かったらこの後…ぼ、僕とどこか行かない?どこでも連れて行ってあげるよ。ね?」男は明らかに怪しげな顔をして近づいてくる。息遣いもだんだんと荒くなっていき、かなりの危険を感じるほどだ。背筋がゾッとする、どんどん迫ってくるほどに身震いがした。
「け、結構です」このままではいけない!咲は慌てて逃げようとした。すると男はすばやく追いかけてきて咲の手首をグッと掴んだ。
「いいだろ、別に今日くらい!彼氏も好きな人もいないんだろ?だったら僕と付き合ってよ」
「い、いや!離して!」咲が必死に抵抗しても男は離す気配を見せない。むしろ、嫌がる姿を見て何かそそられるのかニヤニヤし始めた。
「嫌だ!助けてー!」誰も通っていないと分かっていても必死の思いで大きく叫ぶと、勢い強く腕を掴む音と共に「な、なんだ!お前!」と言う男の声が聞こえた。
咲の目からは大量の涙が出ていて視界が悪く何も見えていないが誰かが助けに来てくれたのだとは判断できた。
「い、いてててててて!」咲の手首を掴んでいた男の腕をその人物が強く掴み上げたようで男は怯んだ。咲はその隙に脇へ逸れてしゃがみこんだ。そして、目に溜まった涙を手で拭いながら上を見上げた。
あっ……。男から咲を助けてくれたのは、先ほど[よしの]の店で見た若い刑事だった。
彼が刑事だと知らない男は「なんなんだよ、お前!僕と彼女の邪魔をするな!」と声を荒げ、掴まれていないもう片方の腕に力を入れて彼を殴ろうとした。咲が思わず「キャッ」と言って顔を両手で塞ぎ目を閉じると、とても大きな音がした。一体どうなったのか…
咲はそっと手を離した。それからゆっくり目を開いてみると、男が放った握り拳が彼の右頬に当たり唇が切れ、そこから微かに血が出ていた。だが、彼は殴られた勢いで少し顔が横にそれているだけで全くの無表情だった。
「チッ、なんだ!こいつ…」そう男が言うと彼は目線を男に合わし静かに言い放った。
「気は済んだか?もしこのまま立ち去らないというなら今すぐ公務執行妨害で逮捕するぞ」クールな表情、鋭い眼差しを受けた男は「なっ、刑事かよ!」と言って目を泳がせながら拘束を振りほどいて足早に逃げて行った。
助かった…。咲は心の底から安堵した。今まで危険だと分かっていても大丈夫だろうと思って通っていた。なのにまさか今日、こんなにも恐ろしい思いをするなんて…
「あっ、あの…ありがとうございました」咲は我に返り慌ててお礼を言ってから彼の傷口にハンカチをとカバンの中を探り始めた。
「いや、私は大丈夫ですから。それより君は?大丈夫?」しゃがんだままの咲に彼は手を差し出してくれた。
はい、咲はその手を取り立ち上がった。と、次の瞬間ある光景が蘇ってきた。
それは咲がまだ五歳だった頃、泣いていた自分を見て中学生くらいの男の子が「大丈夫?」と手を差し出してくれたものだった。それを思い出した途端、自然と咲の口からある言葉が出てきた。
「かずや?」
「えっ?」
彼はそれを聞いて目を丸くし驚いた。なぜこの少女が自分の名前を知っているのだろうか?と。だが、すぐに彼にも咲と同じ光景が記憶として蘇ってきた。彼の名は成瀬和哉。和哉に映し出された光景は、目の前で五歳くらいの女の子が泣き崩れていたので手を差し出して「大丈夫?」と声をかけたものだった。ここでようやく彼も気がついた。
「咲…か?」
今から十三年前の話ー
時期はクリスマスが過ぎ去った十二月下旬。当時咲は五歳だった。この頃は父親の転勤が多く、引越しを繰り返していた。
今住んでいる場所もつい最近越してきたばかりで、近所や通い始めた幼稚園でも友達がまだできていなかった。その為、いつも一人で遊んでいた。近くには公園もあるのだが、そこも常に一人で行って一人で淋しく砂遊びをしていた。そんなある日ー
今日は日曜日。誰もいない早朝から公園にやって来ていた咲が、いつものように砂場で大きい山や小さい山を作って遊んでいると、近くからいかにも素行の悪そうな高校生くらいの男二人と女一人の三人組が歩み寄ってきた。
「お前、一人で何作ってんだよ!」
「お山さんだよ」そう純粋に答えると、
「へえー、じゃあこれは潰せってことかな?」男たち二人はいきなり砂で作られた山を踏み潰し始めた。
「あっ、やめてー」咲は小さな体で体当たりした。
「痛てぇな!何すんだよ」男は逆に軽く突き飛ばした。
「キャッ」咲はその場で尻もちをついたと同時に痛さと怖さで泣き出した。
「こいつ泣き出したぞ」突き飛ばした男はそう言ったが悪びれる様子はなかった。
「もうやめたら?かわいそーじゃん」そばで見ていた女はそう言いながらもクスクスと笑っていた。
「なぁ、もう残りも潰そうぜ!」
「そうだな」
「やだ、やめてー」と、その時だった。
「おい!何やってんだ」そこに現れたのは当時十五歳の和哉だった。
「こんなことして何が楽しい?」和哉は自分よりも大きい男たちの前で臆することなく仁王立ちした。すると、その威圧感に耐えられなくなったのか、
「なんなんだよ、俺たちは別に遊んでやってただけなのによ」
「もう、いいじゃん〜マジウザー」三人はあっさりとその場から立ち去った。
「たくっ…」和哉は後ろを振り返った。咲はまだ泣きながらもこちらを見つめていた。
「大丈夫?」そっと手を差し出した。
「うん」差し出された手を取って立ち上がった。咲の顔は涙でぐちゃぐちゃだった。
「あーあ、可愛い顔が台無しだなぁ」和哉はハンカチを取り出して顔を優しく拭いてあげた。
「ありがとう、お兄ちゃん」咲にやっと笑顔が見えてきた。
「どういたしまして」
これが初めての出会いだった。二人はこれをきっかけに仲良くなり、よく会うようになっていた。咲にとってはここへ越してきてから初めてできた友達ともいえる。二人は歳が十歳離れているが、兄妹のような感覚で何も気にすることがなかった。
「和哉大好き」咲はこの言葉をよく口にしていた。当然のごとく、これは純粋な子どもの言葉で深い意味はなかった。ゆえに和哉も軽く受け止めていた。
「ありがとう。咲は本当に元気だなー」和哉はそう言いながら頭を撫でてあげた。咲はそれがとても嬉しかった。和哉はいつも優しく笑いかけてくれる、褒めてくれる、遊んでくれる、毎日が楽しい日々だった。
だから、これからもずっと一緒にいたいと思っていた。
二人が出会ってから一ヶ月。咲はいつもの公園で待っていた。約束の時間は午後五時。今日は初めて咲が一番乗りに着いていた。現在、丁度五時。和哉の姿は見えない。今まで和哉が約束の時間に遅れたことはなく、こんなことは初めてだった。
それから十分、二十分、三十分と時間が過ぎていった。それでも絶対来ると信じて待ち続けたが、結局この日は三時間待っても来ることはなかった。仕方なく今日は諦めることに…。
後日、咲はもう一度同じ時間に待っていた。和哉に会いたくて会いたくてたまらなかったからだ。その後も毎日公園に行って来るのを待ってみた。けれども、和哉が現れることは二度となかった。
当時、咲はずっと会えない悲しさで毎日のように泣いていたが、この時五歳だった彼女の記憶からはいつしか思い出が色あせていき、消え去っていた。そこで全てが終わるはずだった。
しかしー
二人は運命の巡り会わせなのか、十三年という月日を経て再び出会った。今日という日までお互いそれぞれに道を歩んでいた。あの時の事もずっと昔のことであれから一度も思い出しことはなかった。十三年という日が全てを消していた。顔も名前もその時のことも全部。だが、二人ともその消えていたはずの記憶が一瞬にして呼び起こされたのだ。
「和哉…なんだね?びっくりしちゃった…。何年ぶりなんだろ」
「もう…十年…以上だな」
二人の会話は少しぎこちなかった。店の中で会った時は全く知らない相手だと思っていたのに、ここで知り合いだったと気づくと気まずいものがあった。まして、あのような別れ方をしてから十三年ぶりに再会となるといきなり軽くは話せなかった。咲はとにかく何か話題をーと、思考を駆け巡らせた。
ーそう言えば、どうしてあの時何も言わないでいなくなってしまったのだろう。そう思うと口が動き出していた。
「和哉、なんであの時急にいなっーー」
「家まで送るよ」和哉が言葉を遮って言った。まるでこの話に触れる余地を与えないかのように。だとすれば、突然消えたのは言えない何かがあったのだと推測できる。一体何があったのか?
咲にはもう一つ気になることがある。それは和哉の放つ雰囲気だった。昔の彼は、明るく本当に優しいお兄さんのような存在でいつも笑顔だった。それに比べ目の前にいる今の彼はとてもクールで笑顔は全くない。微笑み一つすら見せない、あの頃からは想像もつかないほどだった。
「家はどこ?」和哉が上着のポケットから車の鍵を取り出しながら訊いてきた。
もう少し先に行ったところのアパート。と指を指して答えると、和哉は近くに停めておいた車に乗り込み咲の前まで走らせ停車した。
「ありがとう」さっそく乗り込むと車はすぐに動き出した。
「ねぇ、和哉。和哉は店にいたんでしょ?どうしてここに?」咲の質問にしばらく間が空いた後、
「店で聞き込みをしていた時、怪しい男を見かけたんだ。そいつはずっと影から…咲のことを見てた。それで咲が帰る頃、その男も出て行ったから車でそこまでつけて来たんだ。何事もなければすぐ車で戻るつもりだった。でも、その時に襲われてるのが見えたから…」と、冷静な口調で答えた。
「そうだったんだ…。ありがとう、和哉に助けてもらってなかったら私…どうなってたか。本当に怖くて…」
「ここか?」車が急に止まる。確かにそこは咲の住むアパートだった。先ほどの場所から歩けばまだ数十分かかるところ、車では二、三分で着くほどの距離だった。咲はゆっくり車から降りて、
「今日はありがとう。中でお茶でも出すから上がってよ。その…傷の手当てもしたいし」と言ったが、和哉は「いや、いい」とだけ言ってそのまま車をまわして行ってしまった。
咲は肩を落として小さくため息を吐きながらアパートの階段を登って行った。玄関前に着くと、鍵を開けて中に入る。いつもならこのまま玄関を上がり、部屋に入るところ咲はそこから動かなかった。その代わり、手を胸にそっと当てた。胸がドキドキしている。どうして?と思った。今起きている現象がよく分からないのだ。敢えて言うならこの初期段階は、襲われているのを助けてくれた彼が、和哉だと気づいた時だった。その時は一瞬ドキッとした。それから和哉と別れるまでの間はほんの少し胸が高鳴っていた。でもそれは十三年ぶりに突然再会したのだからこそ、そのびっくりした驚きの余韻が残っているだけだろうと思っていた。ところが今はその時以上に胸が高鳴っていた。和哉の事を思い出せば思い出すほど胸が苦しくて張り裂けそうだった。まさか、これが恋?そう思った。今までこんな感情は一度だってなかった。異性を意識し、愛おしく感じることなど。これは初めての感覚、きっと間違いないと確信した。咲は和哉に恋をしたのだ。
「すぐ戻ります」
咲を送った帰り道の途中で、和哉の携帯に倉田から早く戻るようにと連絡が入った。和哉は電話を切ると、一旦止めてあった車のエンジンをかけようとはせずに少し考え始めた。
あの時、実は和哉もどこかで…?と気にかけていた。クラブ[よしの]で見かけた彼女、つまり咲のことだ。
店に入ってすぐ目にとまった。会ったこともないはずなのに違和感を覚えていた。話しかけた時もその後もだ。それから少し経って、彼女が仕事を終えて出て行くのが見えた。その後に、さっきから咲のことをジッと見ていた男が後をつけるように出て行く姿も目に入った。和哉はすぐさま倉田に断りを入れて後を追った。
男は明らかに異常を放っていた。そして彼女が襲われた。和哉はすぐに助けに行ったがまさかその彼女が十三年前に出会った咲だったとは思いもよらず初めは動揺した。それにもう随分昔のことで、自分が彼女のことを覚えていたのもびっくりだったが、何よりまだ五歳だった彼女が自分のことを覚えていたのが驚きだった。
でもーーーそれだけのこと。もう何も考える必要はない。偶然再会しただけで会うことないだろう。まさか咲に想いを抱かれているとは夢にも思わない和哉は全てのことを振り切るかのように車の鍵を回してエンジンをかけ[よしの]の店に戻った。
「おう、やっと戻ったか」倉田は椅子に腰をかけ待っていた。隣にはママとホステスの女性がいた。和哉が戻ってくるまでの間、仕事を忘れ戯れていたのだろう。和哉にはそう感じ取れた。
「すみません、もう終わりですか?」
「あぁ、特にと言って収穫はないな。…ん?どうしたお前!口切れてんじゃないか?何かあったのか?」
「あっ、いや。大丈夫です、大したことありませんから」
「そうか?ならいいが。じゃあ、引き上げるぞ」倉田が椅子から立ち上がり二人はそのまま店をでようとした。
「ちょっと待ってください」ママが二人を呼び止めた。
「また来てくださいね、今度は仕事じゃなくてプライベートで」ママはそう言いながら店の名刺をそれぞれに渡した。倉田はそれを受け取ると「えぇ、是非」と答え店を出る。和哉も軽く頭を下げて倉田のあとについた。その後二人は車に乗り込んだ。
「本当に綺麗だよな」倉田が突然訊いてきた。
「はい?」
「ママだよ[よしの]の。なんか…こう気品があって清楚な感じで誰もが目を引くぐらいの美しさってやつだよな」
「あぁ…そうですね」気の抜けたような返事に対して倉田は口を尖らせた。
「なんだ、お前いい子見つからなかったのか」
「いい子って、俺たちは捜査で来てるんですよ」和哉は呆れながら車の運転を始めた。
「はぁ〜、相変わらず固いなぁお前は。でもまぁ、逆に工藤や神山が来てたら目移りしまくって使いものにならなかっただろうな」
「あいつらは単純すぎるんですよ」
「ハハッ、そうかもな」
工藤とは和哉の後輩刑事で明るく人懐っこい性格をしている。和哉のことを尊敬していて、いつも親しみを込めて『先輩』と呼んでいる。神山は和哉とは同期であり高校時代の同級生でもある。性格は…根っからの女好きだ。
「成瀬、これからどこか寄って帰るか?」
「もう警視庁に着きますよ」あっさりと応えられ倉田はつまらなそうにしたが、
「まぁいいか。今日はこれで捜査は終わりだからな」と言ってタバコを取り出した。と、そこへ無線が入った。
「おいおい、嘘だろ?」まさかの無線に音を上げる倉田のことは気にせず和哉はすばやく応答した。
「はい、こちら成瀬」
「あっ、先輩ですか?」その声は工藤だった。用件は工藤たちが捜査している現場の応援要請だった。
「分かった、すぐに行く」無線を切るとすぐさま方向転換し現場に向かった。