第一球~神川優那~
「私の特技は三振を取ることです。よろしくお願いします!」
溌剌とした声で彼女はそう言った。冗談も見栄も含まれない純粋な自信の塊のような言葉だった。高校三年間野球をやっていた俺もこの時はびっくりした。
彼女の身長は一六〇センチほど。守ってあげたいと思ってしまうほど華奢な身体。そして何より、整った顔立ちの美少女だった。こんな細い子が三振を取るのが特技なんて言うとは思わなかったが、そんなことよりもそれを冗談などではなく本気で言っていることに素直に驚いた。
彼女と初めて出会ったのは今から一ヶ月前の大学合格発表の日だったと思う。普通は自分の受験番号を確認するために大学に足を運んでいるので他の高校出身の生徒の顔なんて覚えない。それでなくても俺は人の顔を覚えるのが苦手だった(勿論今もそうだが)。元々、そうではなかったのだがちょっとしたことで俺は人との関わりを絶ってきていたからだ。
高校三年の夏、甲子園を目前に俺達の高校は決勝で涙を呑んだ。敗因はその試合、最後にマウンドに立っていた俺のミスだった。九回裏ランナー二・三塁。あとアウト一つというところまできていたのに俺の投じた投球が暴投となり同点に。そして次に投じた球が失投となりそれを打たれてサヨナラ負け。俺のせいで負けてしまった。甲子園行きを逃してしまったことより俺のミスで他の仲間の高校野球を終わらせてしまったことが悔しかった。その後、俺は高校卒業まで誰とも話さなかった。比喩や冗談で言っているのではなく本当の話だ。誰とも顔を合わせられずに高校生活を過ごした。英語の授業でペアを組むときも黙っていたし、卒業式ですら式が終わると同時にすぐに帰宅。クラスメイトとの別れの言葉もなし。
そんな俺が大学行きを希望したのはそんな自分に別れを告げたかったからだ。いつまでも引きずらずに心機一転したかった。そこそこ野球が有名な大学から声をかけられてはいたものの大学で野球をするつもりはなかったので全て断った。
合格発表当日、自分の番号を見つけてさっさと帰ろうとした時だった。彼女との第一接点はこの時だったと俺は思う。帰ろうとしていた俺を呼び止める声に振り返るとそこには見覚えのない少女の姿があった。
「これ、落としたよ?」
見覚えのない彼女の手の上には見覚えのあるお守りがあった。俺が野球部の頃から持ち歩いている《必勝祈願》と書かれたお守りである。
俺は「どうも」と素っ気なく答え、お守りを受け取るとすぐにその場を後にした。この時はまだ彼女のことを《落とし物を拾ってくれた人》という曖昧な認識でしか捉えてなかった。
入学して一週間後、大学の食堂で一人で昼食を取っている時、彼女と再会した。食堂内はがらがらに空いているにもかかわらずわざわざ俺の向かいに座った彼女は不思議そうな顔をして俺を見た。
「あれ?何その『誰だよこいつ』って顔は?私達、初対面って訳じゃないよ?」
彼女はそう言って俺に問いかけてくる。
「ねぇ、野球やらないの?」
「……!」
「成宮健翔君だよね?西高の。私、野球好きなんだ」
「……」
「あ、県大会も見たよ。凄かったよね。投球も良かったけどバッティングも。私、何度か球場に見に言ったんだよー」
「……で?」
「へ?」
「君は誰?ほら、名前聞いてないから」
彼女はきょとんとした顔をしていたがすぐに笑って言った。
「ああ、ごめんごめん。私は神川優那。成宮君と同じ歴史学部だよ」
「俺に何の用?用があるから他の席じゃなくてわざわざ向かいに座ったんだろ?」
俺の問いに彼女、神川さんは少し困ったように言う。
「あははは、やっぱりバレたか」
当たり前だ。用もない人間が好き好んで知らない人の向かいに座ったりする筈がない。
神川さんはずいっと俺のテーブル越しに俺に顔を近付けた。
「私と野球しない?」
「はぁ?」
想像していなかった話に俺は素っ頓狂な声を上げてしまった。
「野球部には入ってないんでしょ?それなら私が今入ってる草野球チームに入ってほしいの」
草野球チーム。入ってるってマネージャーか何かだろうか。何にせよ、俺は彼女から野球をしないかという誘いを受けたのだった。この時、俺が一体どんな心境でどんなことを考えながら彼女の話を聞いていたのかはあまり覚えていない。しかし、結局俺は彼女の誘いを承諾し、草野球チーム《WS》に入部することになったのだった。しかし、WSって……雑草魂ねぇ。
そして驚いたのが俺を勧誘した本人神川優那がマネージャーなんかではなく一人の選手としてチームに在籍していたことだった。そして現在に至る。
「まぁ、うちは強いチームじゃないから肩の力を抜いて楽しくやっていくといいよ」
このチームの主将、石川恋先輩はそう言った。このチームは大学生を中心に構成されており、全部で十二人。その中に野球初心者が五人、中学までの経験者が五人、高校までの人が二人というものらしい。《楽しく野球を》というのがモットーなんだとか。
「まずは君がどれだけのプレーをするのか見てみたい。えっと、ピッチャーもしてたんだっけ?」
「まぁ、一応」
「ならうちの四番とエースそれぞれ一打席勝負してもらおうかな。高校まで野球やってたんだ。かなり上手いんじゃないかな」
「さぁ、そうでもないですよ」
そう言って俺は肩を作る。軟式ボールは軽かったしボールを投げること自体久しぶりだ。俺は約七ヶ月ぶりのマウンドに立つ。マウンドから見下ろすバッターボックスは少し遠く見えた。
「(はっ、久しぶりだなこの感覚)」
俺と一打席勝負してくれる打者はこのチームの四番の磯崎光成先輩。高校まで野球をやっていたらしい。
一球目、俺は振りかぶって足を上げる。そして自然な流れで前に足を踏み出すと思いっきり腕を振り抜いた。パァン!というミットにボールが収まる渇いた音がした。投じたのはストレート。ボールはインコースギリギリいっぱいに決まっていた。審判はストライクのコールをする。
「(打てるものなら打ってみて下さいよ。俺、全力で三振取りにいくんで!)」
二球目、さっきより少しボール気味のストレート。しかし、磯崎先輩はバットを振る。キィン!という高い音とともにボールは一塁側ファールグラウンドに飛んだ。
なるほど、流石に当ててくるか。ならこのボールでどうだ!
俺は思いっきり腕を振る。さっきと同じ腕の速さ、しかし今度は球種が違う。
「うおっ!?」
俺の投じた球はストレートの軌道から縦に落ちる。俺の持ち球の縦スライダーだ。磯崎先輩のバットは空を切り、ボールはミットに収まった。
やっぱり三振を取るのって気持ちいいな。
磯崎先輩は悔しそうに笑って言った。
「今の縦スラ?良い球持ってるじゃん」
「あ、ありがとうございます」
俺の投球は終わった。次はバッティングだ。このチームのエースと一打席勝負出来る。俺は他の人より手首が強いから当てただけでも外野に飛ばせる。
俺はバッターボックスに入ってマウンドに目をやり、そして愕然とした。マウンドにいたのは神川優那だったから。俺は思わず石川先輩を見る。
「あの、エースってもしかして」
「ああ、彼女だよ」
にっこりと笑って答える石川主将。女の子がエースってどうなんだ?そう思いながら俺は投手の方へと目を向ける。どうやら彼女は左投手らしい。赤いグラブが大きく見える。
「プレイ!」
俺はバットを握る。神川さんの持ち球なんて知らないけどそんなことは気にしない。初球からぶっ叩いてやる。
彼女の左腕からボールが放たれる。まさかの左投げ横手。俺の胸元をえぐるような球――――!
「くっ!」
何とか反応してボールを打ち返す。が、打球はラインより外側。あのボールは打ってもファールにしかならない。ワンストライク。
初球はインコースの対角線投球。しかも結構速さがあった。
俺は再び構える。神川さんの二球目は外の――――!
「なっ!?」
ス、スクリューボール!?右打者である俺から逃げるように落ちる変化球。俺のバットは神川さんのボールには全く届かない。俺のバットから逃げるように変化したボールはキャッチャーのミットに収まった。
マジかよ。女の子のピッチングじゃねぇよ。しかも二球とも際どい所に投げてきてる。コントロールもいいらしいな。これならエースってのも納得だよ。
神川さんの三球目はアウトコース低めのボール、四球目は真ん中高めのストレートの見せ球でボール。カウントは2ボール2ストライク。ピッチャーならここで三振を取りに来る筈。二球目に投げたスクリューを決め球に――――いや待てよ。他に何か変化球を持っている可能性は?
「(久しぶりに野球をやってる気がするぜ)」
楽しい。素直にそう思った。やっぱり俺、野球が好きだ。神川さんの第五球目。彼女の腕からボールが放たれる。初球と同じインコースへの対角線投球。俺はバットを振った―――――。
これが、この物語の始まり。《奪三振女王》《快投スクリュー姫》などという本人非公認の密やかな異名を持つ神川優那のピッチングは荒々しく、圧倒的でそしてとても綺麗だった。