第八話 白の姫君
「ほい、ほいっと」
地下深くの闘技場に間断なく鳴り響く破砕音。
四本の腕より放たれる無数の拳撃を避ける中での声は、まるで場違いなほどの軽さで響き渡る。
一本角の竜人ユーグスタルベルトは、牙の並んだ口で笑いを浮かべて取り囲む四匹の悪魔を眺め回す。
黒山羊の頭に四本の腕を持つアスラデーモンという名の悪魔たちを。
「いやー、同郷の方々とじゃれあう機会を用意してもらえるなんて、お土産の本の埋め合わせとしてなかなか気が利いてるっすねえ」
まるで親しい友人に語りかけるような調子外れの口調。
石造りの円形の闘技場が無残に破壊された痕跡を見渡せば、間違ってもそれはじゃれあいの一言で片付けられる可愛らしいやりとりではないことは明白である。
だが、およそ人の身に耐えうる範囲にない破壊の風ですら、竜人にとっては肌を撫でる微風に過ぎないのか。
戦闘の最中にありながら、腕を組んだままの姿勢で余裕をアピールする。
行き過ぎた余裕と慢心は致命的な隙を生む。
ユーグスタルベルトの動きは機敏であっても触れることを許さないほどの高速ではない。
アスラデーモンの四本の腕による連撃であれば、いずれは直撃するはずだ。
反撃の一切を放棄した姿勢は舐めきっていると思われても仕方がない。
敵を捉えることはできる。
その可能性があると知るアスラデーモンは攻撃を止めることはない。
「ふむ、やはりそれなりに知能は高い。対応は間違っちゃいない。諦めず、腐らず、こっちの弱点を狙うってのはいわば基本中の基本っす」
――そう。そうやって、捉えることはできたのだ。
既に無数の攻撃が当たっており、手ごたえもある。
だからといってそれが効果を発揮するかといえば否であった。
返ってくるのは、まるで悪夢めいた硬度のものを叩くときの乾いた衝撃だけ。
苛烈な攻撃のことごとくが、生身の身体一つで弾き返される。
武器など最初の一合で砕け散った。
全力で殴りつければ、殴りつけた腕が壊れる。
石の壁をも切り裂くアスラデーモンの膂力をもってしても、鋼を超える強度を持つ緑の鱗にかすり傷一つつけられない。
ユーグスタルベルトはただ柔らかい目の部分、口の部分を守るだけで事足りる。
「まあ多少、弱すぎるという点に目をつぶればですが」
実に残念とばかりに口にするユーグスタルベルトと対照的に、アスラデーモンたちは歓喜していた。
あまりに鉄壁。
あまりにも無双。
及びもつかない絶対的な力の差が喜ばしい。
人間ならば当たり前のように優先する生存本能というものが魔界の生き物には欠如している。
生きるためには戦うしかないし、戦えなければ生きていけない。
もともと地上の生物とは価値の尺度そのものが異なるのだ。
彼らにとって強者とは、至福の戦闘を味わえるご馳走と等しい存在なのである。
既に敗北は必定となった戦闘だが、悪魔たちは飽きることなく攻撃を続ける。
どれほど絶望的であっても、戦いである限り勝利の可能性は存在する。
強者の余裕慢心につけこむという弱者ならではの足掻きも臨むところだ。
いや、本当はそんな事情すらどうでもよいのかもしれない。
もっと。
もっと。
一瞬でも長くこの至上の時間を味わいたい。
今そこにあるのはただそれだけの感情だ。
だから願わくば、そのまま余裕の姿勢で攻撃に転じてくれるな――
「ユーグ。戯れはそれくらいにしておきなさい」
じゃらりと鎖の鳴る音が響く。
飽きる様子もないユーグスタルベルトとの戦いは長く続くと思われた。
だが、それも門前からその小さな人影が自ら前に進み出たことで終わりを告げた。
白いドレスが地に触れないように静々と進むミーチカの姿は、およそ戦場には不似合いな気品が感じられる。
「了解っす、姫様」
ミーチカの声に愛想よくユーグスタルベルトはしゅっと親指を立てて答えてみせる。
そのすぐ後に翻すような態度で手の平をあわせて、懇願の表情を見せる。
「けどできればというか、やっぱり気がかわったというか、せめて一匹くらいは譲ってもらえません?」
「ダメです。それならそれで最初からお兄様にそうお願いすればよかったんですっ! 妙な格好をつけて報酬はそれで十分だとかと言うからそんなことになるんです!」
叱り付けられて、褒美をねだる犬のような期待に揺れ動いていた竜人の尻尾がしょぼんと力なく地面に落ちる。
「とほほ、禁欲的なのもときによっては考え物っすねえ。まあ腹の足しにもなりそうにないマズメシですから諦めもつくと自分を慰めてみる」
とぼとぼと門前に戻り、自分の仕事は終わったとばかりに座り込む。
一瞬前まで激しい戦闘が繰り広げられていたことが信じられない暢気なやり取りを、アスラデーモンたちは黙ってみている以外になかった。
それは至上の快楽である戦闘を止める理由が、ミーチカの出現にあったということではない。
彼らの頭にあったのはそれにも勝る困惑だ。
この少女はいったい何だ。
見た限りにおいて、竜人ユーグスタルベルトとは比較にならないほど脆弱でか弱い生き物のはず。
全力で武器を振り下ろせばその時点で勝負は付く。
いや、石畳の破片一つが当たっただけでも致命的だろう。
肉体的に見れば自分たちが相手をする価値があるかどうか疑わしい。
なのにアスラデーモンたちが戦闘を止めて推移を見守っているのは、どういうわけなのか。
それは心理的な理由によるものではなく、純粋に物理的な理由だった。
ミーチカが声をかけた次の瞬間から、悪魔たちは一歩も動くことができていない。
いや、そればかりか指一本たりとも動かすことができない。
魔法の知識にも聡いアスラデーモンはすぐにその原因を推理し、確認し、そのあまりに突拍子もない答えに戦慄した。
糸だ。
マナを感知するための視覚でないととらえられないほど細く、しかも一本一本が呆れるほどの強靭さでできた無数の糸。
闘技場中に張り巡らされた≪拘束する網≫の魔法によって自分たちが縫い付けられているのだ。
「全く。お兄様にも困ったものです」
呆れた表情でミーチカは腰に手をあてて嘆息する。
「倒した後にさらに下層に来ることまで考えてアスラデーモンを五体も呼び出せなどと。普段からマナの貯蓄についてあれだけ気にしているにもかかわらず、使うときの計算は大雑把なのですから」
口では文句を言いながらもミーチカとして不満を覚えるような仕事内容ではない。
彼女の活動圏は六層に限られており、その立場から仕事を命じられるようなことも少ない。
特にオルカはミーチカが少しでも血生臭いことに関わるのを極端に嫌う。
侍女として過保護すぎる愛情は嬉しくもあるが、ときにわずらわしく思うのは感情の矛盾としては間違っていない。
自分は地上に出歩いてアイルの補助をしているオルカと代わることは出来ない身だ。
たまの機会に、役に立てるなら自分が動きたいという気持ちは常にある。
その気持ちを汲み取って、反対するオルカをアイルが熱心に説得してくれたことを考え合わせると悪い気はしない。
それでいて、ようやく許された仕事があまりにも簡単すぎたことにガッカリするなど、ワガママが過ぎるという気持ちもある。
それでも、しかし――
多少は、競い合うことができるほどの魔法でも行使できる相手ならよかったのに。
「正直、あなたたちのような脳みそまで筋肉で出来たような戦闘馬鹿の相手をしたくありません」
魔法の威力を決定付けるものは世界の理を理解する力だ。
実行の際に使う魔法の式と違い本を暗記すればよいというものではなく、その意味で効率よく学ぶための王道はない。
そのため努力によって積み上げることはできても、同じ人間同士なら極端な差は生まれにくい。
だが人間とは異なる組成によって形作られたミーチカの演算限界は比類のない強度にまで鍛え上げられている。さらにはグメリア地方全体から収集されるマナの貯蔵を一手に引き受ける彼女の純粋魔法行使能力に及ぶ者は迷宮に存在しない。
動くことができないという代償こそ負っているものの、彼女こそが最下層における最強。
ミーチカにとってこれは最初から戦闘であるという意識すらない。
そこにあるものを片付けるように言われたからそうするだけ。
アイルに命じられた妃としての仕事であるという以外に誇らしさを覚える要素など一片もない。
漆黒の瞳はどこまでも冷徹に悪魔たちを睥睨する。
「ですからなるべく速やかに消えてほしいと思っています」
じゃらりと鎖が鳴る。
ミーチカがすっと手の平を前に突き出した。
それが終わりの一撃なのだということを予感したアスラデーモンたちは、声なき声で叫び声をあげる。
より絶対的な強者との邂逅の喜びを。
そして、指一本動かすことなく敗北する己の不甲斐なさを。
「おやすみなさい、黒山羊さん」
ぎゅっと命を摘み取るように、ミーチカが手を閉じる。
ただそれだけの動作で、四体の悪魔は跡形もなくマナの粒子へと変換され消えてなくなった。
◆
「うーん」
悩み声が魔宮の玉座の間に響き渡る。
椅子に座ったアイルは、読んでいた本を閉じて悩み深げに頬杖をついた。
手に持った『賢者の言葉』というタイトルの本は、幾度も読み返した痕跡でボロボロになっている。
深く思索にふける際に、使い古しの名言集を眺め回すのはアイルの癖のようなものだった。
「おかしいなあ。どこで計算が狂ったんだろう」
「だからそもそもの期待値が高すぎるのだと申し上げたではないですか」
赤い瞳を細めて、傍に控えていたオルカはピシャリと断言する。
美人である彼女がそういう表情をすると非常に迫力がある。
機嫌が悪く、口調が厳しいのは、結局ミーチカを動かすことになった結果に対する反感だろうとアイルは思っている。
というよりも、オルカがアイルに対して怒りを露にする事情など、全てそこに回帰すると言っても間違いではない。
無意味な手間を部下にかけたことは、素直に反省しなければならないとアイルは思う。
だがワイルズの率いるパーティーなら、きっとアスラデーモンを倒しにくるという予想は正しかったのだ。
彼らならば、かの悪魔も打倒するという計算も間違っていなかった。
その思考を前提に、一匹倒せるなら二匹も三匹も同じだろうというのがアイルの考えだ。
最初の一匹の討伐で自信をつけた上で、もっと踏み込んだ領域まで来ることを期待していた。
一旦地上に戻る理由が怪我の回復であれば仕方がないが、せいぜい一週間も経てばまた戻ってくるはずというのがアイルの予想だった。
にもかかわらず、あれから二週ほど経って未だに音沙汰がない。
一番肝心の部分が外れてしまっては元も子もないとアイルは落胆を隠せなかった。
「よくわからない。僕の読みのどこが期待しすぎだったんだ?」
「そもそもアイル様の計算がそのままの形で成就することが少なかったように思いますが」
冷たい口調で、統計から導かれた事実だけをオルカは口にする。
感覚的に優れた洞察力を持つアイルの言葉は、ときに予言じみた精度で的中することがある。
しかしながら、あくまで直感は直感に過ぎず、結果的に見れば当たり外れが五分五分になることも多い。
当たるも八卦、当たらぬも八卦と偉人の言葉で弁解するアイルだが、振り回される部下のことも考えあわせると微妙な能力と言わざるを得ない。
「その他に、あえて理由を申し上げるなら、今はそういう時代ではないということでしょうか。アイル様も、そのことは十分ご承知のはずです。アレ一体を倒すだけで求めていた栄光に手が届くのですから、無理をする必要などどこにもないと考えたのではありませんか」
遥か昔ならば魔術師サーヴィニーの討伐に燃える冒険者たちはこぞって最下層を目指した。
だがギルドが作られ、迷宮都市の運営が産業として成り立つようになると、そういった人間は次第に減少し、国家によって四層以降での活動実績が騎士資格の条件と定められてからは、さらなる迷宮下層に挑む人間は激減した。
迷宮に集まってくる冒険者の大半は、貧しい生活、恵まれない立場からの成り上がりを求める人間たちだ。
国家に帰属して安定した職が得られるならそれを選ぶ人間がほとんどだろう。
騎士とは力におけるエリート。国防の要となる人間を集めた集団である。
戦士としての冒険者にとって成り上がりの到達点といってもいい。
夢を叶えるにしても、現実と合意するにしても、そこを終点にすることは何も不思議なことではない。
「確かにさらなる栄誉を求めるため、あるいは自らの野望のため、挑むことを捨てきれない者は存在します。ですが、そういう人間も年を経るにつれて安定を求めるなど珍しいことではありません」
しかしアイルは黙って首を横に振った。
「いいや。あれは自覚の問題だ。求めているものに一直線に突き進むには自覚が足りなさ過ぎる」
「あの人間は、栄光など求めていないとおっしゃるのですか?」
「さあ。そういう単純な成り上がりを求める人間でも、極めてしまえば面白いと思うけどね」
そんなことには特に関心がないとアイルは言う。
では自覚とはいったい何の自覚だろう?
そんなことを考えるオルカの心を読んだかのように、アイルが続いて答えた。
「決まっているじゃないか。僕こそが不倶戴天の敵であるという自覚だよ」
静かに、されど魂を凍らせるような笑みを浮かべて、暴力的な断定を下す。
「英雄とは人々の声望によって立つ者のこと。それは似通っているようで勇者の条件とは違う。勇者とは、理由の如何を問わず、それが悪であればいかなる強者にも立ち向かう勇気を持つ者のことだ」
オルカはそのアイルの理屈には未だ半信半疑だった。
あのワイルズという人間が芯に抱えるものがそれだけのものだとは思えないし、思いたくない。
力の究極ともいえる反則的存在のユーグスタルベルトとも、魔法において最強クラスの能力を保有するミーチカとも違う。
世界最悪のアイルが司るのは純粋で根源的な恐怖だ。
――それを前にして、立ち向かう勇者と成れる人間など存在するのか?
可能か否かという次元の疑問にオルカはまだ回答を見出せない。
それが悪だと知って見過ごさねばならぬ事柄など世の中に腐るほどある。
隷属して、与えられるはずのない慈悲を乞うほかないのではないか。
その他の大勢の人間が、そうであったように。
「というわけで、とりあえずの方針は決まった。やっぱりツッコミが激しいときのオルカと話していると普段より考えがまとまりやすくていい」
「え」
褒められたのか貶されたのかわからない言葉を受けて、オルカは困惑の声をあげる。
その言葉の釈明を求めたいというよりも、純粋にアイルが決めたという方針に不安を覚えたのだ。
「やっぱり僕が直接出向いたほうがいいという結論に……」
「――それはお止めください」
あまりにも素早い否定に、表情を滅多に動かさないアイルが思わず眉根を寄せる。
「物は相談……くらいには聞き入れてくれても構わないじゃないか。そもそもが、本来僕にこういう態度は似合ってない。上から全てを指一本で操るような才覚もなければ、秘密主義的に腹に一物かかえて高笑いしてるようなタイプでもないし。いっそ直接剣と剣を合わせたほうがわかりやすくていい」
「それができないからこそ、アスラデーモンの召喚だったのではなかったのですか?」
実のところで魔宮の面々が地上で活動できる範囲は非常に狭い。
アイルにしても地上に出るたびにオルカという保険を連れ歩かなければいけないし、期間を区切らなければ悪目立ちしすぎる。
冒険者に紛れることは不可能で、なるべく目立たないように死体剥ぎの中に紛れ込むのが精一杯だ。
ミーチカは体調上の理由で動けないし、ユーグスタルベルトは見られただけでダメだとわかる異形の姿だ。
そして魔宮に残るもう一人はアイルと連れ立っての行動に、相性という根本的な欠陥を抱えている。
「かといって彼ら程度の実力では迷宮五層は攻略できません。かつてユーグスタルベルトに粉砕された六層到達者の実力から比べれば、すぐにわかるようなことだったではありませんか」
「英雄たちの時代だね。懐かしい」
遠い過去を偲ぶようにアイルが目を細める。
魔術師サーヴィニーの打倒を目指して迷宮六層に踏み入ってきた英雄たちを思い返す。
確かに彼らは勇敢で強力な存在だったが、自分の求めた人間とは少し違った。
「しかし足りないのが実力だけなら、解決は容易だよ。僕のほうから積極的に支援すればいい。守るべき秘密を守るなら特定の人間を贔屓していけないなんてルールはないし、大勢の目に触れない都合のいい場所に呼び出すだけなら方法がある」
元来待つことがそれほど苦手というわけではないが、アスラデーモンを倒したとなれば否が応でも期待は高まらざるを得ない。
是非とも早くこの場所まで、引き摺り下ろさなければなるまい。
その思いでアイルが示唆した内容に、オルカは眉根を寄せて反対の意を表明する。
「……誘導に地上の人間を使うおつもりなのですか? あまり賛成しかねます」
「思惑は違うとはいえ、彼もまた僕の忠臣の一人だ。きっと上手くやってくれるさ」
楽観的に口にするアイルだが、オルカはとてもそうは思えなかった。
彼が動けば、ギルドのほうも自ずとこちらの動向に注目する結果を招くだろう。
あるいはその事情を深く勘繰られると、痛くもないこちらの腹を探られることにもなりかねない。
あまり大きなうねりとなって事態が動くのは歓迎すべきことではない。
「長く続いた平和の影響を軽く見るのはどうかと思います。どう足掻いても勝ち目はないのに、大人しい交渉ではそれがわからぬ愚鈍も存在するのですよ、アイル様」
より深い絶望を思い知ればよいのだとオルカは思った。
いずれにせよワイルズ・ウルバックは心を砕かれ、立ち向かう己の卑小さを存分に味わうことだろう。
同情する余地など一片も存在しないが、そこで終わっておけばいいと、わずかばかりの慈悲を覚えないでもない。
絶望の底にはさらなる絶望しか残されていないのが、このサーヴィニーの迷宮という箱なのだから。