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第七話 アスラデーモン

 片手に握った触媒の骨から抽出されたマナが燐光を放つ。

 中身が空の皮袋の口に手をかざし、マーチャントは呪文を詠唱する。

 万物の生命エネルギーの根源であるマナへの語りかけが終了したとき、無色であったその性質が書き換えられて白く輝く霞が生まれた。

 すかさずマーチャントは、その霞を袋に閉じ込めてワイルズに渡す。

 袋を受け取ったワイルズはそれを口元にあてて、そのまま中身を勢いよく吸引した。

 が、まるで苦い薬でも飲んだときのように険しい皺を眉間に浮かべる。


「無味無臭の霞のはずだが。ずいぶんと玄妙な表情をするじゃないか」

「なに、身の内のクソを喰らう魔法だと思えばこんな表情にもなる」


 身も蓋もない言い方にマーチャントは思わず苦笑する。


「君の言い方は相変わらずスパイスがきいている。一応、≪聖なる霞≫という名前の伝統ある魔法なのだがね」


 当たり前の話だが、人間は食事をとれば排泄しなければならないようにできている。

 これはまだ死体剥ぎやギルドといった制度がなかった初期冒険時代に凄まじい大問題を引き起こした。

 大陸中から集まった冒険者の出入りの激しい迷宮浅層は、冒険者たちの死体と排泄物により最悪の衛生状態となったのだ。

 ゴブリンは武装した冒険者に致命傷を負わせるようなことはできない。

 しかし数が多いので、集団で襲い掛かれば軽い擦過傷・打撲傷程度なら負わせることができる。

 まず傷口からの感染症によって多くの冒険者が病に倒れ、そのまま還らぬ人となった。

 最低の衛生状態で戦闘を行えば、いかにタフな冒険者といえどもそう長く耐えられるものでもない。

 強い弱いの事情にほとんど関係なく、運の悪い者から死んだ。

 そして、環境の悪化はさらに恐るべき死の連鎖の始まりでもあった。

 死んだ冒険者はその大半が行き場をなくした、食い詰め者の集まりだ。

 その死体の始末に責任を持つものなど誰もいない。

 街の外に集めた死体をまとめて焼いたというのはまだマシなほうで、酷いものだと道の端に捨てられたまま野ざらしにされた。

 衛生の観念が発達した今の人間の常識からすれば二次的に疫病を蔓延させる明らかに間違った行為であるが、当時の人間はそこまで気を回すことはなかった。そもそも、そんな配慮ができるようなら探索における最初の段階から手を打つことを考えただろう。

 “ゴブリン病”という言葉を定着させるきっかけになった大疫病の蔓延によって、大陸中から集った冒険者の四分の一の命が奪われたと伝えられている。

 悲惨と呼ぶしかないこの悪夢の記憶を教訓として得られたものは多い。

 ギルドのよる厳格な統制も、徹底して整備された都市区画と衛生計画も、この苦い記憶がなければ必要性を理解されなかっただろうと言われている。

 その衛生対策の一環として考案されたものの中に、≪聖なる霞≫の魔法がある。

 浄化を司るこの魔法は、直接吸引すると体内の老廃物の分解を促進し、力を増す効果がある。

 要は、より少ない食料でも長時間活動できるのだ。

 汚れをマナの力へ還元することの副作用が思わぬ形で働いた稀有な例である。

 まるで夢の魔法のようにも思えるが、無理に過剰なエネルギーを供給するために体内バランスを崩しやすいという欠点もある。

 消化活動が鈍るので多用すれば内臓を弱くするし、分解されたマナは呼吸とともに大気中に分散してしまう性質をもっている。そのせいで長期的に見ればより多くの食料が必要になるという研究結果もある。

 ≪土地の支配≫の魔法と同じく、自然に逆らうことの難しさを教えてくれる一例といえる。

 とはいえ今を生き残ることが全てだと考えるワイルズにとって、実に都合のよい魔法であることは確かだ。


「ところで、あ、あのっ、ワイルズさん、声……」

「今回に関しては問題ない。今はゴブリンなんぞいねえんだ。普段どおりのセオリーに従う必要なんざどこにもねえ」

「あっ、言われてみればそうですね。なんか一層にあの蛾の大軍がいないのって新鮮かも」


 ワイルズたちはいつもなら目にするゴブリンの大軍に一度も遭遇せずに進んでいた。

 それでも不安があるのか、リップルラックはかなり控えめな声量で話す。

 まだ残党が残っている可能性を考えると、ワイルズほど大胆にはなれないらしい。

 マーチャントも同じく慎重な態度だったが、既に残党狩りが行われた後だろうのでその可能性は低いと見ていた。封鎖令の可能性がある大物の報告があると、逃げ出す者も多いが、一層のゴブリンの殲滅を目標に慌てて入り込む冒険者もいる。命よりも目先の金が優先というわけだ。

 また先行して犠牲になった人間の遺品を目的に死体剥ぎたちも大勢入り込むので、まずゴブリンたちはそこで狩り尽くされる。

 迷宮側の対応として、大物を一層に召喚したときは、ゴブリンを新たに召喚することはない。

 迷宮の構造を組み替える時間を稼ぎながら、不意打ちとしての効果も狙える一石二鳥の策というわけだ。

 戦の常道を抑えながら、奇襲の心得も忘れない。

 間違いなくこのシステムを整えたサーヴィニーという人間は、たいした戦略家なのだろうとマーチャントは思う。

 地上の人間心理を抱き込むようにした設計思想は高度に作為じみたものを感じさせる。


「まあ、その地上の人間にしても考えることが増えたのだがね」

「ああ? 何をぶつぶつと悩んでやがる」


 独り言のように呟いたマーチャントにワイルズが反応した。


「なに、<雷鳴>のことだよ。高潔で英雄様かと思っていたが当てにならなかったな。柔軟で話のわかる人間と聞いていたが、ああいう計算高さのある人間だとは読めなかった」

「ヤツのおかげで話はまとまりやすかったがな。あれもお前さんの言う裏目を引いたってやつかい?」


 シモンのことを認めるような発言だが、その目は完全に将来の敵を見据えるものだった。

 ワイルズが強者に対して向ける執念は弱者に対する敵意などと比べ物にならない。

 間違いなく素直に感謝尊敬するような人間ではないし、感化されて抱きこまれる可能性はないと考えていい。

 だが感情論とは別に義理の問題は処理されなければならないことも確かだ。

 確かにギルドとの交渉の落としどころとしては妥当な結論になった。

 ただそれを持ちかけてきたのがくだんの英雄であるという点は、後々の問題になるとマーチャントは予想している。

 こちらのアスラデーモン討伐の意図を読んで話を持ちかけてきた以上、予定していた以上の見返りを要求されることは覚悟しておいたほうがいい。


「このままいっても完全にギルドの面目を潰すことはできない。私が語った計画と違った未来が生まれるわけだが。ワイルズ、不満ならこの首をすっ飛ばすかね?」


 マーチャントは自分の首を指先で指し示す。

 おどけた調子を装うもの、内心では本気で口にしている。

 さすがに本物の復讐鬼は覚悟が違うとワイルズは内心で笑った。


「フッ、今に言うようなことじゃねえだろ。その程度のことでお前の首を飛ばすのはあまりにもったいない」


 マーチャントとて言葉通りに首を飛ばされるつもりなどない。

 ワイルズが殺しにかかれば、それに対して反撃する程度の気概はもっている。

 要するに、これは今後も二人が協力関係でいられるかどうかを推し量るための質問なのだろう。


「とにかく今はそんなことに悩んでる暇はない。些細な予定外なぞ帰ってから考えればいい……」


 そこでワイルズは言葉を止めた。

 リップルラックの様子がおかしいことに気づいたのだ。

 黙って迷宮の奥を睨み付け、よく見ればその肩が小刻みに震えている。


「――おい、リップ。何か気づいたことがあればさっさと言え」


 俄かに真剣な表情になったワイルズが声をかけると、怯えた様子でリップルラックが顔を向けた。


「す、すみません、ワイルズさん。なんか、今……この先がやばそうかなって」


 軽く震えながら、リップルラックが奥を指差す。

 二層に通じる広間でアスラデーモンは確認されたという話だと聞いている。

 まだその場所へは随分と距離がある。

 しかしその場で黙ってワイルズは剣を構え、マーチャントは首に下げていた触媒の銀細工を引きちぎって魔法の詠唱の準備にとりかかる。

 危機に関するリップルラックの感覚の強さは信頼に値する。

 それを経験でワイルズは知っていたし、マーチャントも同じように思っている。

 ただの知識だけでは、ただの強さだけではとうてい生き残ることができない。

 迫る危機から生き延びるための親切なヒントなどないし、注意していても死ぬときは死ぬ。

 もとより迷宮とはそんな場所だ。

 リップルラックが腰から二本の小剣を引き抜いて構えたとき、空気をわずかに震わす微かな音が奥から響いてきた。

 深い暗がりからやってくる敵の存在を認めて、ワイルズは凶暴な笑いを浮かべた。

 今までのどの魔物よりも強い死の予感に身が総毛立つ。


「だが、相手がどんな英雄だろうが悪魔だろうが関係ねえ。いつものように力で捻じ伏せて奪う。それだけのことだ」


 腰の留め金を外し、特製の魔剣<ヘルハウンド>を引き抜く。

 刃の先端が敵を射殺すように前に突き出された。


「さあ。楽しい略奪の始まりだ」


 ぬらりと闇から出現した黒山羊の顔が闘志に呼応するように雄たけびをあげた。



 その戦いは、五層の魔物を知るワイルズたちにとっても未知のものだった。

 アスラデーモンのとる戦法は単純なものだ。

 四本の腕を使って、縦と横に交互に斬撃を繰り返す。

 それは剣術と呼ぶにはあまりにも稚拙で、言ってみればただ手に持った武器を振り回すだけの風車に過ぎない。

 しかし並外れた悪魔の腕力による攻撃に小手先の技など必要ない。

 規模の全く違う純粋な力の脅威は人の身に耐えられぬ暴風となって襲い掛かる。


「ゼイィアァァァァ―――――――――――――――――――――ッ!」


 喉が張り裂けんばかりの気合の声を上げてワイルズが剣を振るう。

 およそ人間に出せる声量の限界。

 狂った猿でもあげるまい異常な高音の叫びは声というよりも、身を萎縮させるための攻撃でもある。

 ワイルズの培ってきた剣理は単純だ。

 磨きぬかれた最大の一撃による必殺。

 回避されたときのことなど考えない。

 まるで己の人生を瞬時にして燃やし尽くすような一刀両断。

 攻撃の組み立てを放棄した特攻など、剣術の試合においては及第点すらもらえまい。

 だが実戦においては最もそれが効果的だとワイルズは結論した。

 知能が高かろうが低かろうが、魔物の好むのは力勝負、真っ向勝負。

 ギリギリの鍔迫り合いで、わずかにでも呑まれた者は一刀のもとに粉砕される。

 斬られるではなく、砕かれる。

 ワイルズが挑むのはそういった次元の殺し合いだ。

 決して引かぬ負けぬと精神を奮い立たせること。

 迷宮での幾多の戦いを潜り抜けて完成した曇りなき修羅の一念こそが、ワイルズの最大の武器にして刃なのだ。


「MEIAAAAAッ!」


 対するアスラデーモンも伊達に伝説の怪物と呼ばれているわけではない。

 奇声を上げながらワイルズが全精力を傾けた一撃を、≪拘束する網≫によって封じられた腕一本で防御する。

 人並みはずれた腕力を持つワイルズだが、悪魔のものとでは勝負にならない。

 それでも動きを封じられた隙に乗じ、初撃から三合までのやりとりで、敵の持つ四本の剣のうち三本を叩き折っている。

 だが、それによって戦況が有利に傾くかといえばそうもいかない。

 アスラデーモンが持つ武器は冒険者から奪ったものに過ぎず、その最大の武器である肉体的強度にいささかの衰えもない。

 事実、紫の棘のようないぼで覆われた皮膚はワイルズの渾身の一刀でもわずかな傷しかつけられない。

 そして棍棒のように振るわれる腕の一撃は容易に人間の身体を粉砕するだろう。

 戦闘開始から火花の散る全力の攻防はずっと続いている。

 拮抗しているように見えて、それは明らかにワイルズに不利な勝負だった。

 一刀ごとに命を削るような駆け引きを乗り越えたとして、身体に多大な負担がかかる。

 人間の二倍はありそうな太いアスラデーモンの肉体とでは痛む速度が違う。

 大剣を振るい正面からの激突を繰り返すワイルズの筋肉には、確実にダメージが蓄積されていた。

 だがワイルズの肉体はそれくらいで根をあげるほど柔にできていない。

 そもそも相手を殴るということは同時に自分の身体を痛めつけること。

 戦いの本質とは、どうあれ己の破壊なのだという真理をワイルズは日々の訓練で五体に刻み付けている。

 腕の骨が折れようと、脳の血管が破裂しようと、戦いの最中に手を止めることなどあってはならない。


「ワイルズ! ここから先は一撃たりとも外すな!」


 後方からのマーチャントの指示はもはや懇願の悲鳴に近かった。

 大型の魔物の対策として汎用的に用いられる、≪拘束する網≫の魔法によって手足の動きを封じている。

 できれば全身を封じたいところだが手足を強固に縛るだけで精一杯だった。

 ≪拘束する網≫の維持に必死で他の魔法で援護する余裕はない。

 マーチャントは戦闘に関して非常に優れた魔術師であり、複数の魔法を併用して使うことも可能だ。

 いつもならば攻撃の魔法に加えて≪念話≫の魔法を併用して味方のサポートを行う余裕がある。

 今回はその余分を捨てて、少しでも魔法の強度をあげることに専心していた。

 だがそうやって全力を絞っての魔法行使ですらアスラデーモンの力には歯が立たない。

 牛一頭を軽く繋ぎとめる強度の糸に手足を絡まれてまだ動く。


「今が全てというのは私向きの思想ではないのだがね。かような戦闘ともなればそうもいかないかっ」

 

 ままならぬ現状に対する自嘲にも力がない。

 一般に誤解されている部分も多いが、魔法を扱うのに特別な資質は必要ない。

 触媒に溜め込まれたマナさえあれば、それを引き出して扱う方法を知るのはさほど難しいことではない。

 だが任意の結果を引き起こすため――つまり高度な魔法の行使は一般人には読み解くことのできない世界のことわりの理解が必要とされる。

 軽く火をおこすだけの魔法にも本を一冊暗記するほどの学習が必要である。

 剣が肉体の強度によって強くなるものなら、魔法は思考の強度によって力を増す。

 本から知識を学び、式を知り、無数の計算をこなすことによってのみ思考の強度は鍛えられるのだ。

 詠唱はあくまでそれを補助するものにすぎず、理解力のみが魔法の行使の威力を決定付ける。

 人間の身体に内在する知恵の限界。

 これを魔術師は演算限界キャパシティと呼んでおり、限界を超えた魔法の使用は身体を損なう毒となって自身を蝕む。マナは全ての根源たる生命エネルギーであり、それは人間の身体を構成する要素でもある。触媒から離れて魔法を行使すれば、自分の身体からもマナを吸い上げて消費してしまう。

 要は、身の丈を越えた魔法は寿命を縮めるということ。

 マーチャントは既に自身のもてる演算限界キャパシティの限界を超えて術を行使している。

 体内の生命力が急速に失われ肌は青白く、気を抜いたら倒れてしまいそうな半病人のていである。

 思考演算によって額が熱病にかかったように熱く、視界に入るモノの意味を考えるのも億劫になる。

 だかそれでも集中力を乱し、術を弱めるわけにはいかない。

 この綱引きに負けた瞬間、前線は崩壊する。

 前衛が失われた瞬間に、非力な魔術師であるマーチャントなどひとたまりもなく惨殺されることは明白だ。


「リップ! ワイルズを援護しろ!」


 マーチャントの指示を受けて、無音で悪魔に斬撃を加えていく影があった。

 リップルラックは軽業師のような身軽さでもって破壊の暴風を避けながら、的確に悪魔の足を切りつけていく。

 大きく見開かれた目の焦点は合っておらず、いつものおどおどした表情はなりを潜め、完全に目の前の敵を倒すだけの集中状態に入り込んでいる。

 リップルラックはワイルズに増して一対一の戦闘に特化した人間だ。

 敵の攻撃を紙一重で避け、返す剣で切り刻む。

 二刀の小剣を包丁でも扱うかのような器用さで自由自在に振るう。

 集中力を大きく削る戦法故に継続戦闘能力が低いという重大な欠点があるが、こういった決戦のときにだけは鬼札として機能する。

 秘密兵器としての力を遺憾なく発揮し、アスラデーモンの戦闘力を削るリップルラックは、決して止めに繋がる一撃を加えようと考えない。

 リップルラックは己の領分を実によくわきまえている。

 体の細い彼の体格では、相手を仕留める強力な一撃を放つことは出来ない。

 ならば獲物を弱らせる猟犬として過不足ない仕事を遂行する。


「MEGIAAAAAAAAAAAAッ」


 立て続けに走る足首の痛みに、アスラデーモンは大きくいななきをあげた。

 なんとか走り回るリップルラックをとらえようと残った剣を振り回すが当たらない。

 ≪拘束する網≫で体勢を崩したところに、狂声をあげるワイルズが一刀を繰り出してきた。

 ぐらりと傾ぐ身体でなんとかワイルズの一撃を受け止める。

 だが強靭極まる悪魔の肉体といえど、不利な体勢で受けると無事ではいられない。

 その一刀で、四本の腕のうち一本がいまにも千切れそうなほどに損傷した。


――劣勢。自分は今劣勢に立たされている。

――強敵。目の前で踊る小さき者たちはいままで出会ったことのない種類の敵だった。


 黒山羊の表情がぞろりと歯をむき出しにして、歓喜に歪む。

 怯みなどしない。

 珍しい強敵との戦いは魔界の生き物総てに共通する至上の快楽だ。

 敵の肉体的脆弱性はここ数日で存分に学習している。

 それにつけいる方法などアスラデーモンの知恵をもってすればいくらでも思いつく。

 搦め手の魔法一つ二つがあれば、それは可能だろう。

 だがそんな方法ではこの極上の獲物を存分に味わうことはできない。

 もっと徹底的に、心ごと折るような最大の攻撃で迎え撃つのが面白い。


「腕が!?」


 その瞬間を目の当たりにしたリップルラックは思わず集中状態を忘れて動揺の叫びをあげた。

 まるで熱で溶ける飴細工のように、アスラデーモンの腕が二本消えてなくなった。

 銀色の液体と化したそれを背中にとりこむと同時に、残された腕の筋肉がより力強く盛り上がる。

 腕をマナとして還元しその身に取り込んだのだと、後ろから見ていたマーチャントにはわかった。

 現世に召喚された魔物はもともとマナによって構成された精神体に近い。

 地上の生き物ではありえない変態も、戦いに特化した魔界の生き物にして珍しい能力ではない。

 そしてアスラデーモンの形態の変化が意図するものは明白だった。


「まずい! 破られるぞ!」


 マーチャントが叫ぶのと、より強い剛力を発揮できる体勢を整えたアスラデーモンの腕が≪拘束する網≫を破るのは同時だった。

 もはや武器すら必要ないと、剣を足元に捨てる。

 より強化して魔法を繰り出そうとするマーチャントの体勢が整う前に、ぐんと盛り上がった力瘤による拳の連撃が開始された。

 未だ足のほうが封じられているとはいえ、集中させたことによる戦力の上昇は歴然。

 自由になった腕で放たれる一撃一撃は、破壊槌にも匹敵する威力だ。

 ただの人間などは木っ端となって翻弄されるしかない。

 爆撃のような猛攻を前にして、前衛の二人は完全に浮き足立った。

 避ける以外に手段はなく、堅い迷宮の地面ごと粉砕する一撃は飛び散る土片ですらが武器となる。


――全滅する。


 飛び散る土片に打たれ、防御にかかりきりになったマーチャントが不吉な想像を頭に浮かべたのも無理はない。

 無理に魔法を行使していた影響が祟り、膝が崩れそうになる。


「なにを膝をついている! 立てっ! まだ始まったばかりだ!」


 頭から血を流しながらもワイルズが傲然と吼える。

 殺戮と狂気の場にあって、揺ぎ無い眼差しで敵を睨みつける。

 純粋に戦闘行為に陶酔しているようにも見える、曰く言いがたい輝きをもつ眼光。

 こういったときのワイルズの闘志は一種神懸かった高揚を味方に伝染させる。

 まだやれる。

 自分たちがただの人間だと決め付けてくれるな。

 <赤熊>に弱卒はいない。

 ここにいるのは強大な悪魔でさえ屠り去る戦士の集団だ。


「<赤熊>に敗北はないッ!」


 ワイルズの言葉に真っ先に反応したのは、その思想哲学にもっとも心酔している少年だった。

 回避は不能とわかった瞬間に防御を捨てて破壊の中心へと身を投げ出す。

 まだ幼げな容姿は血に染まり、飛来する土片で全身を傷つけた姿は凄絶ですらある。

 今は手足を切ることに意味のある状況ではない。

 狙うは眉間。

 魔界の生き物といえど、弱点となる部分は現世の生き物を参考に考えて大方は間違いない。

 問題はその反射速度だ。普通に放ってもまず避けられる。

 ならば――


「――ぐェっ」


 後ろに飛びながら衝撃を殺したとはいえ、アスラデーモンの拳を真正面から受け止めたリップルラックは抑えきれず呻き声をあげた。

 だが襤褸切れのようになって吹き飛ばされながら、まるで腕だけは独立した生き物のように動く。

 手品師のような見事さで意を消し、攻撃してきた悪魔の死角から小剣を投擲した。

 身を犠牲に放ったその一投は、眉間をそれて眼球を傷つけた。予想以上の成果である。

 アスラデーモンは悲鳴こそあげなかったが、動きが一瞬だけ止まった。

 戦闘不能間際の重傷を負っただけの価値はある。

 このような隙を見逃すほど彼の仲間は甘くできていない。


「リィィィァァァァァァァァァァァァ―――――――――――――――――――――ッ!」


 すかさず突っ込んできたワイルズの一撃をアスラデーモンはたいした脅威だとは考えなかった。

 たしかに隙こそ与えてしまったが、さきほど落とした剣を拾いなおす程度の余裕はあったのだ。

 そして今は両腕が自由になっている。

 余裕をもって受け止められるはずだ。

 先ほどまでの力比べの差から言って、自分の剣を受け止められる道理はない。

 振るわれた剣と剣が激しくぶつかりあい火花を散らす。


――その結果は意外。力比べはまたも互角。


 アスラデーモンはそこで初めて異常に気づいた。

 あっさりと相手の剣を折り、身体ごと両断するつもりだったのに、弾かれた。

 いや。おかしいといえば先ほどまでの攻防から既にその片鱗はあった。

 一撃を放つごとに敵の身体は激しく傷ついているはずだ。

 段々と弱くなるというのであればわかる。

 だが、ダメージが濃くなるにつれて敵の力が増しているのはどういうわけなのか。

 まず何らかの魔法の関与を疑った。

 光に注目していた視覚を周囲のマナの動きをとらえるためのものに切り替える。

 人間にはありえない多能力も悪魔にとっては当然持つ能力の一つだ。

 周囲のマナの流れを確認すると、すぐに異常の元が何なのかが判明した。

 剣だ。

 相手の剣が違う。

 先ほどまでは大人しかったはずの剣に纏う力が轟々と燃えさかるような勢いで渦巻いている。

 凶悪な闘志に爛々と目を輝かせたワイルズは血の滴る両手で、鈍く光る大剣を握り締めていた。


「……クク、ねぼすけ・・・・のコイツが目覚める前に勝負をつけるべきだったなバケモノ」


 魔物を斬り続けた剣には力が宿る。

 これは精神体に近い性質をもつ魔界の生物の残留思念が、マナと結合してこびりつくことによる現象だと説明されている。

 そのままでは身を蝕む呪いを削ぎ落として・・・・・・精錬するのが魔装具師と呼ばれる職人の技だ。

 その点においてワイルズの魔剣は一線を画す。

 ワイルズは身を蝕む魔剣の呪いをなるべくそのまま残したほうが、削ぎ落として失われる力の総量を損なわずに済むと考えた。

 餓え乾く狂剣<ヘルハウンド>の銘をもって名づけられたワイルズの剣は、本人の血を吸うことによって最大の力を発揮する。

 ワイルズは迷宮の魔物をおおまかに二種類に分類している。

 一刀で仕留める敵と、それ以外という分類だ。

 繰り返す鍛錬によってつけた手の平の無数の傷口より、柄を真っ赤に染めるほどの出血があって、初めてワイルズの本当の戦闘準備が完了する。


「腕を捨てたのは失策だ。ここから先、同じ条件で俺様と張り合えると思うなよ」


 再び始まるさらに質の高い戦闘の予感に、アスラデーモンは歓喜して踊りかかる。

 その剣閃を真っ向から迎え撃つワイルズの表情にも、やはり喜悦の笑みが浮かんでいた。



 吹き飛ばされて戦闘不能になったリップルラックは、アスラデーモンとワイルズの決戦を薄れゆく意識の中で眺めていた。

 過酷な戦闘の中で意識を失うことに対する不安はない。

 場合によってはそのまま止めを刺されて二度と目覚めない可能性もあるのだが、少年はそんな未来こそありえないとわかっている。

 負けるはずはない。


「……やっぱり、ワイルズさんは最強だ」


 憧憬による盲信ともとれる言葉は、されど現実となる。

 その日、長きにわたる迷宮の歴史にあらたな一行が付け加えられた。

 ワイルズ・ウルバック率いる<赤熊>によるアスラデーモンの討伐は、迷宮都市中の人間を驚愕させる大事件として瞬く間に知れ渡る。

 それは“悪党”として知られたワイルズが、新たな“英雄”として語られるようになるきざしでもあった。

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