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第六話 封鎖令

 クランハウスの地下に作られた鍛錬部屋に、ワイルズは独り立っていた。

 十字に磔にされた聖者の像のような姿勢でじっと動かない。

 もっとも眉間に深い皺を刻んだ表情と、両手に水瓶をぶらさげている姿を“聖者”とたとえるのは不適当かもしれない。その手に持つ水瓶には砂がみっしりと詰まっており、それを水平にわし掴みにした姿勢で耐え続ける筋力鍛錬の一種である。

 聖者には至らないが、行者のような一念でワイルズは苦悶の時間を耐え続ける。

 流れ落ちる滝のような汗は、それが続けられている時間の長さを如実に物語る。

 ワイルズ・ウルバックという人間を成り立たせている根本の原理は、常人離れした力への執着だ。

 本人に言わせれば自分の剣にはまだまだ反省点が多いらしく、無自覚にイライラしている。

 鍛錬でも実戦でも消化しきれない尋常ならざる執念。

 そのほんの片鱗(・・・・・ )が、弱者への攻撃や怒りとなって表れる。


「――くっ」


 やがて不動の姿勢にも限界が訪れる。

 極限まで張り詰め盛り上がった筋肉が細かく痙攣し、太い血管を浮き出させる。


「ふうっ!」


 大きく息を吐いて瓶をどすんと部屋の端に置く。

 もちろんそれで鍛錬が終わったわけではない。

 ようやく身体を暖めるのに十分な時間が経過したというだけ。

 次は天井からぶらさげた砂袋に拳と足を叩きつける。

 大昔の拳闘士が鍛錬に使ったと言う話を参考にして、取り入れることに決めた器具の一つだ。

 拳足の衝撃で鎖で繋がれた皮袋がギシギシと音を立てながら縦に揺れる。

 規定の回数は特に決めていない。

 適度に肉体が壊れ始めるまで続けなければ意味が無いと思っている。

 ワイルズは拳が真っ赤に腫れあがり、骨に痛みを覚え始めたところで叩くのをやめた。

 全身の痛みと疲労を気にした様子もなく、先ほどの水瓶から砂をすくって手に握りしめる。

 それをそのまま握り潰すと、ジャリッという破砕音が鋭く響く。

 堅く閉じた指と指の隙間から血がこぼれて床に染みを作った。

 水瓶の砂の中には、割れた陶器の破片が混ぜ込んであるのだ。

 鍛え抜かれたワイルズの握力は陶器片ごと粉々に砕いてしまう。

 それでも尖った破片により、皮膚がずたずたに傷つくことは避けられない。

 ワイルズは苦痛を抑えるために、奥歯をより強く噛み締める。

 傷口を用意してあった水で洗い、軟膏を塗って上から包帯を巻く。

 そして壁にかけてある、重しをつけた鍛錬用の剣をとる。

 最初は軽く鋭く、徐々に体重を乗せて重く振り始めた。

 今作ったばかりの傷が熱く痛む。

 握力を鍛えることはあくまで二次的な目的にすぎない。もともとは戦闘中にどれほどの傷を負っても、決して剣を離さない癖をつけるために合理的だと思って考案した訓練だ。

 黙々と気合の声すら噛み殺し、風をきる音だけが地下に反響する。

 何度も。何度も繰り返す。

 剣の才能というと、普通の人間は派手で華々しいものを想像する。

 しかし実際はそういった才能で解決することなどたかが知れているとワイルズは知っている。

 手の皮が分厚い木の幹のように固くなるまで練習を続けなければ、いっぱしの強さというものは得られない。

 それよりさらに上を目指すならば、狂気といっていいほどの鍛錬を自らに課さなければならないのだ。

 より質を高く、より時間を長く。

 砂袋も、その他のあらゆる鍛錬はそのために考案し、今も考え続けている。

 そこまでしてもまだ足りないと、ひたすら貪欲に思考を続けなければならない。

 強さに対する飽くなき飢餓心は狂信と限りなく近いものだった。

 ワイルズは才能という言葉にたいした価値を見出さない。

 未来の可能性とやらがどれだけ大きかろうがそれはただの概念であり、未だ手にしてもいないものが実戦で役に立つわけがない。

 各分野における天才は確かに存在する。

 そのこと自体をワイルズは認めないわけではない。

 同じように学んでいるはずなのに異常に上達の早い人間がいることは事実である。

 その中で天才と呼んでも差し支えない輝きを持った人間も現われる。

 ずっと若い頃のワイルズの周辺には、彼よりも才能に溢れる人間が大勢いた。

 ワイルズもそんな人間の幾人かと剣を交えたことがあるが、なるほど確かに彼らの剣筋は非凡なものであった。

 全く同じことをしているはずなのに差がつく。

 発想の根本が違うと言い換えてもよい。

 それに対して不公平だという嫉妬の感情を抱かなかったといえば嘘になる。

 決して口には出さなかったが、競えば負けると敗北感を植えつけられたこともあった。

 だがそんな人間たちよりも遥かに長く生き延び、強く成長したのは自分だ。

 天才ともてはやされた彼らの生き残りは騎士として国に見出されエリートとしての道を歩み、それ以外はみんな死んだ。

 ワイルズは安全に騎士の道を選んだエリートたちよりも遥かに強くなった自信がある。

 彼らと違って執念を忘れず、ずっと一心に強くなるために鍛錬を重ねたからだ。

 それこそが才能なのだと口にする人間もいるが、ワイルズはそんな戯言を信じない。

 継続できる人間とそうでない人間を才能という言葉で分けるのは、怠惰の言い訳だ。

 自分に才能のないことを恐れるよりも、そのような軟弱な言い訳の数々にわずかでも耳を傾けることを恐れるべきなのだ。

 天才が授けてくれるものは、ほんのわずかな後押しでしかない。

 だからそんなものはなくても構わない。

 それがワイルズの培って得た結論だった。

 必要なものは今にでも、明日にでも役に立つ力だ。

 遠い未来に花咲く才能などあろうがなかろうが、やるべきことは変わらない。

 全ては今のこと。

 ただ、強くなる。

 理由も言い訳も何も求めず、強くなるだけのことなのだ。



「いつもながらの狂った鍛錬は終わったのかい。まだ苦痛に悲鳴を上げていた過去には<赤熊>は地下に拷問用の部屋をもっていると噂になったことがあったが」

「なあに、軽い運動さ。なにしろ最上の獲物を狩りに行くんだ。多少の熱は入るというものだろう」


 いつものように鍛錬を終えて地下から出てきたワイルズにマーチャントは皮肉めいた台詞を投げかける。だが気にした様子もないワイルズの返答に肩をすくめてため息をついた。


「最上の獲物とは皮肉を皮肉で返されたのかな? 先日冗談で口にしたことが本当になるとは。まさか本当にアスラデーモンを引くとは思わなかった。前々から思っていたのだが、どうやら私の口は災いの元らしい」

「どの道、悪党に与えられる加護なんてそんなものさマーチ。裏目を引かないなんて下らない楽観は捨ててしまえ」


 迷宮にアスラデーモンが現われたという知らせは一瞬にして迷宮都市をかけめぐった。

 報告をもたらしたのは死体剥ぎの一人で、それを受けたギルドは迅速に迷宮の完全封鎖(単に封鎖令とよばれている)を宣言する。それは討伐難易度の高い魔物による奇襲に対しての常套手段だった。


「で、でもアスラデーモンって言ったら伝説の魔物ですよね。ど、どれだけ強いんだろう?」

「やる前からビビッてんじゃねえぞリップ! 俺様が負けるとでも思ってんのか!」

「す、すみません! でも、封鎖令が出ているのに本当にギルドが俺たちの討伐を許すんですかね?」


 妖精のような顔を疑問色に染めてリップルラックが尋ねた。

 もちろんそんなことは絶対に許可されない。

 封鎖された迷宮に入ることが出来るのは一部のギルド関係者だけだ。

 それを勝手に破れば当然罰則の対象となる。

 しかしワイルズは怯むことなく断言した。


「それもマーチャント先生の読みのうちだ。お前はどうやって敵に当たるかだけを考えておくんだな」


 サーヴィニーの迷宮の攻略を長く阻んできた要因の一つに定期的な配置の変更がある。

 例えば多くの人間が訪れる一層の地図はほぼ完成しているが、訪れる人間が減る深層領域に関しては一時の情報があてにならない程度に変更されていることが確かめられている。

 ≪土地の支配≫の魔法によるマナの制御さえ可能ならば、地形の操作も容易なのだ。

 そして配置の変更は迷宮の構造だけでなく、召喚する魔物にも及んでいる。

 一層に凶悪な魔物を突然配置するという奇襲は、昔からよく行われてきた定石の一つだ。

 数ヶ月から一年の間に一度ほど行われる配置変更は、来ることがわかっていながら法則が読めないだけに、防ぎようのない罠として冒険者の前に立ち塞がる。

 無論、冒険者のほうも無策でいるわけではない。

 アスラデーモンのような討伐難易度が高すぎる魔物が現われた場合、ギルドは非常事態宣言を出して、“召喚返し”と呼ばれる対策を実施する。

 禁断の術として知られる召喚術は、異なる世界である魔界の魂を現世に呼び出して実体化させる手法のことだ。その方法は遥か昔に確立されており、≪土地の支配≫の魔法ほど難易度が高いわけではない。

 ただし、それは術によって呼び出せる方法があるというだけであり、魔物を使役できるかどうかは別問題である。

 魔物は現世の生物と違って食欲も睡眠欲も性欲も持たない。

 彼らにあるのは純粋な戦闘欲求・・・・だけだ。

 戦いは食事であり、睡眠であり、性欲の解消に当たる。

 弱肉強食の理は魔界にはなく、かわりに戦わなければ満たされない絶対的な餓えによる平等が支配している。

 現世の生物は食料を手に入れるのに全く関係のない能力を発達させることはない。鉄を溶かす火を噴いたりしないし、大木を真っ二つにできるような爪も持たない。餌が手に入れば無理に戦う必要がないからだ。

 これが魔界の生き物になると、戦うために必要なものは何でも発達している。

 より高度な戦いを楽しむため相互に進化していった結果がそうだと言われているが、だからこそ全く異なった成り立ちを持つ現世の生き物との戦いは彼らにとって好ましい刺激となる。

 現世への召喚は、彼らにとって未知の戦いへの招待状と同義だ。

 魔物の多くは高い知性を備えており、そんな彼らに戦いを報酬とする契約をもちかけるのは容易なことであった。戦いを目的として呼ばれ、戦いそのものが報酬という彼らほど便利な傭兵集団は存在しない。

 だがゴブリンのような少数の例外を除いて、魔物は基本的に人間より強靭な生き物でもある。そういう魔物に対して、ひ弱な人間と戦える契約を結べますよと言って素直に従ってくれるわけがない。

 彼らが従う理由はあくまでも上質な戦闘の供給という契約の内容にある。

 もし契約に反して質の低い戦いしか供給できないなら、彼らはその埋め合わせを使役者に求めるのは当然のこと。もちろん術者本人に返り討ちにできる戦力があればいいのだが、そうでなければ待つのは悲惨な結末だ。

 あまりにも強力な魔物が召喚された場合、逆に戦わない・・・・ことこそが最善の選択となる。

 魔物は戦いを契約内容として召喚術者に従うのだから、差し当たって挑む敵がいなければ契約違反となる。

 要はこちらが弱いことをアピールすれば相手のほうが引き下がるのだ。

 引き下がった後に、彼らは契約の履行を求めて主人に戦いを挑む。

 これが“召喚返し”とよばれ古くから伝えられる魔物の対処方法の一つである。

 迷宮都市がいかなる外壁も備えていないのは“召喚返し”のためだ。

 万が一、都市を襲い滅ぼすほど強大な魔物が召喚されたとき、標的にならないための備えとしてそうなっている。

 ギルドによって発令される封鎖令も“召喚返し”の一つの方法だ。

 アスラデーモンは極めて戦いに貪欲な魔物なので、一週か二週ほど間をおけば用意に“召喚返し”が成立する。討伐によって突破するよりずっと犠牲が少ない方法で、しかも確実であることは過去の経験則から確かめられている。

 ギルドとして、それで対策は十全であると考えても無理はない。

 長年の慣例を当然のものと認識していたギルドは、まさかその道理に反逆する人間が現われるとは想像だにしていなかった。



「貴様たちは一体何を考えている!?」


 ギルドの職員であるイースデックは一階受付の広い部屋に響き渡るような叫び声をあげた。

 冷静な対応をと心が諌める前に、怒声が先に口をついて出た。

 唐突に受付に現われたワイルズたちの申し出はそれだけ非常識なものだったからだ。

 大声に周りの職員と、周囲の冒険者が何事かと注目する。

 受付職員であるイースデックの日々は多忙だ。

 特に最近はアスラデーモンの出現と封鎖令による冒険者対応に追われて、寝られない日々が続いている。

 イースデックが冒険者稼業を引退しギルド職員として働き始めて既に十五年が経っている。

 心の中ではまだ若いと思いながら、髪に白いものが混ざるようになった。

 肌はかさつくようになり、以前は引き締まっていた腹もたるみが目立つ。

 もっと若い頃は徹夜の一つや二つでめげることはなかったのだが、最近はどうにも精神に体がついてこない。


「ギルドがわざわざ封鎖令を出した意味をわかっているのか? 依頼を受けたわけでもないお前たちに探索許可を出せるわけがなかろう! これはお前たちの安全のための処置だとわかって言っているのか!」

「安全だと? ギルド職員ってのは死体剥ぎの仕事より生ぬるいって噂は本当らしいな。腰の飾りの使い方は忘れてしまったかい?」


 へらへらと笑みを浮かべて罵倒してくるワイルズにイースデックの顔がさらなる怒りに染まった。もちろん現役時代の過酷さはイースデックも十分過ぎるほどにわかっている。だからといって、ギルドに勤めることの気苦労を生ぬるいの一言で切って捨てられる理由はない。

 街の外にある迷宮の探索は自由であるのが原則だ。

 しかし冒険者の人数が多いので、ギルドは一度の探索人口が増えすぎないように探索時間の届出だけを受け付ける体制になっている。もちろん封鎖令が出ている間は別であり、ギルドが直接依頼した冒険者以外の立ち入りは禁止される。

 そのことを知った上で堂々と探索時間の届出を提出してきたワイルズたちに対する憤りは、ある意味で当然ともいえる。

 最初からそうではないかと思っていたが、これはギルドを侮辱するためだけに行われる悪質な業務妨害だと確信した。


「お前らギルドは俺様たちの安全と抜かすが、封鎖令の間の費用はほとんどこっち持ちなんだぜ。倒せる怪物を倒しに行って何が悪い」

「埋め合わせの費用はギルドが支給していることは知っているだろう! 我々も封鎖令を出したくて出しているわけではない!」 


 イースデックはワイルズの周囲の野次馬になっている冒険者たちに訴えかけるよう呼びかけた。

 迷宮を封鎖するといっても冒険者たちの同意が必要になるのは当然だ。

 彼らは危険を承知で迷宮に入らなければ稼ぎにならない商売をしている。

 そのため封鎖令の間だけ、ギルド直営の宿は無料で開放されている。

 逆に言えば自らクランハウスを持つほどの一流冒険者は、封鎖令によって稼ぎ口を失う間の費用を自己負担することになる。これを不公平だと非難する声は前から強いものだった。


「とにかく貴様の言い分など到底認められるものではない。今更決まりきったルールにケチをつけられるいわれがどこにある!」

「その金銭の着服が判明したのが確か去年のことだったはずだ。誰にも納得されてきたルールだというが、本当にそうか? ここにいる皆が今もそう思っていると?」


 イースデックの反論に対して口を開いたのは、後ろで控えていた魔術師のマーチャントだった。理知と冷徹さを備えた蛇の目は、さきほどから状況を間断なく分析しタイミングを計っていた。

 静かに明朗な口調で語りかけるマーチャントの呼びかけは効果的に働き、周囲がざわつき始めた。

 イースデックは血の気が引く思いがした。

 確かに封鎖令の間の宿代はギルドが負担している。

 その宿との割引交渉に関わっていた部署が差額を着服していた事実が判明したのが去年のことだ。これに対しクランハウス持ちの冒険者の反発は非常に強いものになった。そうやって節約できた費用分は、本来自分たちにまわされてもよかったのではないかと。

 何人かの重役がすげかわるまでの大事に発展した痛恨の不祥事の記憶は、今でも冒険者の間に根強く残っている。

 マーチャントの言葉による扇動は、実に上手く周囲で聞き耳をたてる冒険者たちに反感の感情を思い出させた。


「だからお前らの想定以上に強い一つのパーティーに例外を認めろとお願いしてやってるんじゃないか。二週程度はかかるところの騒ぎがたった一日で終わるんだ。こっちはあんたらギルドの財布を気遣ってやった末の結論なんだぜ?」


 勝手なことを述べ始めたワイルズの横っ面を殴りつけてやればどんなに爽快かとイースデックは思う。


――何がお願いだ。心にもないことをベラベラと……! 実績がありながら騎士の地位を踏み外したならずものが!


 そもそもこのワイルズという男は以前からギルドにとっての悩みの種でもあった。

 若年にして四層での実績を重ねるような冒険者は、そのまま騎士資格を得て国の軍として働くのが普通だ。ワイルズもその有資格者の一人と数えられていたが、あまりに粗暴な性格を理由に試験に落とされたのだと噂で囁かれていた。

 公然と反体制的な言動を繰り返すのは、その嫉妬からくる行動なのだろうと多くのギルド職員が考えている。


「とにかくギルドの決定は覆らん! 貴様らがいくらごねたところで決まりは決まりだっ! とっとと帰れ! でないと業務妨害で捕まえるぞ!」


 怒りが頂点に達したイースデックは、半ば金切り声になって叫ぶ。

 だが彼はワイルズという人間をまだよく知らなかったのだ。

 敵意悪意に対しては誰よりも苛烈に反撃するのがワイルズという人間だ。

 そして平常から怒りへの変化は一瞬で、予測することが極めて難しい。


「それ以上俺様に舐めた口を聞くな! この能無しめが!」


 ワイルズは先ほどのイースデックとは比べ物にならぬ建物ごと震撼するような怒声をあげた。

 それを正面から受けて、びくんとイースデックの体が怯んだ。

 まるで目の前の皮鎧を着て武装した肉体が倍にも膨れ上がったように感じた。

 ワイルズの逆巻くような赤髪は鬼気迫る憤怒のときほどよく映える。

 一転して怒りの表情になったワイルズの罵声を正面から受けて、イースデックは思わず一歩後ろに下がってしまった。彼とてかつては修羅場を潜った冒険者の一人なのに、動物的本能が命の危機を直観した。

 無論、まともに考えればこんなところでギルドの職員であるイースデックに直接危害を加えるわけがない。

 それでもこいつならやりかねないと周囲に思わせるのが、ワイルズという人間の持つ脅威である。


「同じ捕まるなら貴様らの戯言など無視して勝手に向かうわ! 紙切れのルールをふりかざすだけの臆病者に俺様が止められると思うなよ!」

「こっ、この……」


 一瞬怯んでしまったイースデックだがすぐに自分の立場を思い出し、もはや我慢の限界とばかり決定的な一言を口にしようとする。

 それは恐らく、ギルドとワイルズの対立を決定付ける一言になっただろう。

 しかし、その言葉は口に出されることはなかった。

 まるでイースデックの口を封じ込めるようなタイミングで、ぽんと柔らかく肩を叩いた人間がいたのだ。

 

「やらせてあげればいいじゃない」

 

 争いの空気を中和するような、爽やかで芯の通った声が響く。

 肩を叩いた人間にイースデックが振り返る。

 それがいったい誰かを確認し、言葉が一瞬止まった。


「しっ、シモンさん!」


 そこには緊張した空気を中和するかのように、優しく微笑む男が立っていた。

 誰もが知るであろう思わぬ人物の登場に周囲の冒険者までが注目し、言葉を止めた。

 子供らしい稚気を宿した爽やかな笑顔。綺麗に刈り込まれた金髪に、ほんの威厳代わりに伸ばされた顎鬚。いつでも探索に赴けるような分厚い皮製の衣服を身に纏い、革のブーツも迷宮の地形に対応できるよう作られた特製のものだ。

 一見するとひょろりと長い身長の男だが、多くの荒くれ者とは違う洗練された強者としてのオーラを全身から発散している。

 事実、衣服の下の筋肉は極限まで絞られており、武芸に練達した人間だけがもつしなやかさを有している。その野性味溢れる美は、質実剛健の言葉がよく似合う。

 外面ではなく内面の輝きが存在感を強く主張する。

 <雷鳴>のシモン。

 無双の槍の使い手にして、迷宮都市最強の誉れ高い冒険者としての過去を持つギルド職員。

 単独での五層到達という偉業を成し遂げた生ける伝説。

 同じ迷宮都市にいて彼の名を聞いたことのない者は少ない。

 シモンはギルドに勤める職員の一人だが、幅広い場所で活動する顔の広さでギルド長よりも名声が高いというのがもっぱらの評判である。


「別にやらせてあげればいいじゃないかと思うよ、俺は」


 再びざわつきはじめた周囲に対して己の意見をよく浸透させるためか、シモンはもう一度同じことを繰り返して言った。


「まさかあんたが出張ってくるとはな」 


 さすがに生ける英雄の出現に驚きを隠せなかったのか、直前までの怒りを鞘に収めたワイルズが興味深げにシモンを睨みつける。

 思わぬ展開に戸惑ったイースデックだが、自分の職務を思い出したように口を開く。


「シモンさんっ。突然そんな無責任なことを言われては困りますよ。そう簡単に規則の例外を認められてはギルドの沽券に関わります!」

「受付じゃなくて、深層監査部の責任でやるなら問題ないでしょ。俺にはもともと封鎖令に縛られずに迷宮に行く権限があるからね。その俺の指示で向かったってことにすればいいんじゃない? 万が一の大事があれば俺の首でもなんでも飛ばしたらいい」

「そ……そんな無茶苦茶な解釈では認められません。事はギルド全体に及ぶ問題です! 貴方一人の首をかければいいというものじゃない!」


 真面目な職員として反論するイースデックだが、その言葉には力がない。

 泰然とした姿勢で爽やかに受け流すシモンは英雄の風格を持った人間だ。

 一介の職員に過ぎない彼と違い、シモンは今のギルドの顔とでもいうべき大人物なのだ。

 実際のところシモンの決定に口を挟める人間がいるとすれば、ギルド長くらいのものだ。

 シモンは深層監査部の長ということになっているが、これは特別にギルドが用意した彼専用の名誉職とされている。通常の監査部は一層、二層における冒険者の規則違反を監視するための部署である。だが深層監査部なる部署に所属しているのはシモン一人だ。四層における冒険者の活躍の度合いを正確に評価するというのがその職務内容だが、それもほとんどは名目のようなものだと周囲は見ている。

 四層、五層レベルにまで単独でもぐりこめる人間がギルドに勤める道を選ぶなど普通はありえない。

 後進を育てるとともにまだまだ探索も頑張りたいというのが彼の主張だが、いずれギルドの長として立つ前の布石なのだろう。

 それを知ってイースデックが口を挟んだのは、彼がシモンを尊敬に足る人物だと認めているためである。

 内心ではシモンのような英雄が、ワイルズなどという狂犬に関わることを止めたい気持ちのほうが強かった。


「内輪でガタガタ話し合ってないでとっとと決めて欲しいものだがな。俺様はこのまま迷宮に向かっても構わないのかい?」


 まだこりていないのか、ワイルズが生意気に挑発するような口をきく。

 代わりに反論しようと再び口を開こうとしたイースデックをシモンは手を使って遮る。


「残念ながら、ただでは無理だね。守ってもらうための条件が二つある」


 シモンは茶目っ気のある表情で笑みを浮かべ、ぴっと指を二つ立てる。

 ワイルズは無言で条件を言ってみろとうながした。


「それだけの口を叩いておいて、逃げ帰ってきた場合は容赦しないってこと。付け加えて、ギルド命令による討伐依頼は本来ならば特別褒章の対象なんだがそれもなしだ」


 その説明を受けて、周囲の人間はシモンの提案の裏の意図を読み解くことができた。

 つまりワイルズはやりすぎたのだ。

 シモンの提案の見据える先は、不満分子に対する制裁だ。

 本当のところで周囲の人間は、ワイルズがアスラデーモンを本気で倒すつもりだなどと思っていない。

 こうやってギルドに言いがかりをつけにきたのも騒ぎを起こして名を高め、ギルドの権威を貶めるのが目的なのだろうと推量していた。

 規則破りを容認するようなシモンの発言は、厄介者には消えてもらうという婉曲な最後通牒ととれる。

 ワイルズはその条件について考えるかのように後ろのマーチャントに視線をやった。

 マーチャントは黙って頷きを返す。


「ただ働きでやれってか?」

「そもそもこっちは頼んでもいないんだからさ。奉仕精神の充足で納得してもらわなきゃ困る」


 まったくもって正論である。

 ワイルズもそのあたり最低限の道理、ごねて話が通せる部分と通せない部分の違いをよく承知している。シモンの提案に対して否はない。

 ただし渋々といった表情を作り、あくまでも不敵に従ってやったという態度を崩さない。

 周囲はそれを逃げ口上を探して失敗した故の苦渋と受け取った。

 場の流れで引き際を見誤り、敵うはずもないアスラデーモンに挑むと大言を吐かざるを得なかったのだ。

 ワイルズはシモンを一睨みしたかと思うと、そのまま翻って建物の入り口に向かう。

 後ろに黙ってマーチャントがつき従い、ずっと所在なさげに縮こまっていたリップルラックもそれに続く。

 その背中にシモンがからかうように声をかけた。


「で、いついくの? 特に期限は区切らなかったけど、あんまりぼやぼやしてると、やはり口だけだったと判断させてもらうぜ」

「もちろん今さ。そのために許可をとりにきたんだからな。当たり前の話だろう?」


 振り返りもせずにワイルズが答えた。


「そうか。でも行く道を間違えないように注意しなよ! あんまり無茶をしたっていいことないんだからさ!」


 皮肉めいたシモンの励ましに、周囲から聞こえない程度に失笑が起こった。

 まだワイルズへの恐怖はあったが、それももう終わったことだ。

 ギルドに対する反抗もやりすぎてしまったが故に、逃げ場所を失った。

 思っていたよりも静かに去ったワイルズの態度は、言い負かされたことへの負け惜しみだと思う人間が大半だった。

 ようやくうるさい厄介者がいなくなることに安堵のため息を漏らす職員も多い。

 無謀に戦いを挑むにしろ、皆に気づかれないようそっと街から逃げるにしろ、ワイルズのパーティーを見ることはもう二度とない。

 この時点では皆がそう思っていた。

 たった一人を除いては。

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