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第五話 迷宮一層の出来事


 美しい紫水晶の瞳と、実り豊かな稲穂のような黄金の髪。

 その神秘的な姿を一目みた瞬間、恋に落ちた。


 貧しい田舎育ちだった。

 パリティニア王国が民政議会を最高のものとして戴く共和国となって久しく、王政時代はいまや老人の昔話でのみ語られる過去の話だ。

 発明王ハバリアによる魔力灯の発明から始まったとされる魔法技術革新により、大陸の人々の暮らしは百年前とは比べものにならないほど豊かになった。

 しかし中央から遠ざかれば遠ざかるほど、生活の水準は低下する。

 特に大陸南東部の大森林近くに位置する辺境の村の生活は今も辛く厳しい。

 ガーラム・スクリッドが不便さばかりの暮らしに嫌気が差して、家を飛び出したのは十五歳のときだ。

 もともと貧農の家に生まれた次男として一生を過ごすつもりはなく、それならば戦いで一旗上げてやると大志を抱いて迷宮都市を目指すことに決めていた。もちろん未知の魔物との戦いは不安だったし、自分にやっていけるのかどうか迷いもした。ただ幸いなことにガーラムは体格がよくて力があり、それにも増して物覚えがよかった。二年ほどの下積みを経て、二層の探索に手を出しはじめた頃、ガーラムはいっぱしの冒険者として周囲に認められるようになっていた。

 歌い手のハンナと知り合ったのはちょうどそんなときだった。

 迷宮都市の歌姫や踊り手といえば、大陸の中で最も華やかで輝ける存在として噂される。

 男が騎士・英雄に憧れるのと同様に、女は最高の劇場で輝く歌姫として大成する夢を見るのだ。

 ハンナは場末の酒場から出発し、中堅どころまで上り詰めた歌い手の一人だ。

 ガーラムは当時パーティーを組んでいた先輩冒険者のおごりで連れて行かれた店で彼女に出会った。

 流行の華々しい歌謡の知識などロクにない辺境育ちのガーラムだったが、すぐに彼女の容姿と歌の虜になった。

 今まで見てきた村の女なんか、きっと泥で作られた人形だったに違いない。

 思わずそんなことを考えてしまうほどハンナの姿は眩しく美しく、精霊の調べというのはこういうものだったのかと納得するほど強い感動をガーラムに与えてくれた。

 一目惚れだった。

 そして高嶺の花だった。

 ガーラムはいままで生きてきて、野暮な田舎ものとしての自分をこれほど情けなく感じたことはなかった。

 どう考えたって、村の女と同じ泥で作られた自分が彼女に見合うはずもない。

 恋に悩みぬいた末に自己嫌悪に陥り、彼女の視界に存在していることすら恥と感じられた。

 それでも諦めることだけはできなかった。

 ダメでもともとと、つたないながら様々なアプローチをハンナにかけていった。

 幸運も手伝ったのか、どうにかして話し合うだけの仲になれたときは天上の神々全てに感謝を捧げたいほど舞い上がったのを覚えている。

 話を聞いてみればハンナもガーラムほどの田舎ではないもの地方の出身で、故郷には弟たちを残してきたらしい。

 二歳ほど年上の彼女にとって、ガーラムは久しぶりに出会った弟のように見えたのだろう。

 仲は深くなったが、望んでいたような恋愛関係には至らなかった。

 弟扱いされていたガーラムだが、それでも満足していた。

 彼女と話し合えるだけでも幸せだったし、いつか男として見返すんだと高い人生の目標を見出すことができたからだ。

 ハンナに胸を張って婚姻を申し込む自分を想像するだけで心が躍る。

 彼女の存在は、冒険者としてガーラムが日々を生きるための原動力だった。

 だが――


『ごめんなさい、ガーラム』


 今はあの一言がいつまでも心にこびりついて、離れようとしない。


――クソッ!


 悪態を歯の奥で噛み殺し、ガーラムは不快な鳴き声を上げながら飛び回るゴブリンを数匹まとめてなで斬りにした。銀の体液を撒き散らしながらマナへと還元されて虚空へ消えていくゴブリンたちを、暗い目でガーラムは睨みつける。

 いまや正式にガーラムのものとなった魔剣は最初から誂えたように手に馴染んでいる。飛び回るゴブリンたちは、まるで≪誘蛾≫の魔法に引き寄せられるかのようにその剣光の餌食となっていった。

 ようやく三層まで足を伸ばし四層を目指すガーラムの大きな壁として立ちはだかったのがゴブリンの大軍の処理の問題だった。

 迷宮の長い歴史はゴブリンとの戦いの歴史と言っていい。

 迷宮内部には大小様々な魔物が生息しているが、最も多くの冒険者を悩ませるのが一層のゴブリンの大軍である。

 ふるき召喚戦争時代に多く使われたこの魔物は、複数召喚手段が確立されている点に最大の特徴がある。他の魔物が一匹単位で契約を結ばなければならないのに対して、ゴブリンは百匹単位で雇い入れることも可能なのだ。

 一人で大軍を得るにはこれほど都合のよい魔物もないだろう。

 サーヴィニーの迷宮の一層には多くのゴブリンが常駐しており、冒険者を見つけるや否や大集団で襲いかかってくる。

 “蛾妖精”と呼ばれるこの魔界生物の体長は大人の拳二つぶんほど。多種多様な魔物の中では比較的人間に近い容姿をしているが、枯れ枝のような茶色い肌に赤い殺意を宿した複眼の瞳を美しいと感じる人間はあまりいない。

 二つ名が示すように背中に蛾のような醜い羽を生やしており、力弱そうな外見に反比例するかのような高速で飛行する。飛び回る彼らを正確に撃ち殺すにはそれなりの技術が必要になるが、反面において攻撃自体の強さはそれほどでもない。

 ゴブリンたちはそれぞれ手に武器を持っているが、せいぜい紙切りナイフを少し小さくした程度のものである。切れ味は人間の作るものとは比べ物にならない粗末なものだ。非武装の素人ならいい勝負になるかもしれないが、武装した冒険者の敵ではない。

 ただしその脅威を侮る人間は冒険者にはいない。

 その小さなゴブリンの刃こそ、最も多くの冒険者を命を奪った元凶でもあるからだ。

 数の脅威による足止めと疲労は単純極まる手段故に防ぎようがないし、油断すれば冒険者といってもかすり傷の一つや二つは負う。

 岩盤をくりぬいてできたような迷宮一層の地形にも注意が必要だ。狭くて暗い場所での戦いに慣れないうち、足を滑らせて死ぬ人間も少なくない。冒険者なら転んで傷をつくって引き返した経験の一つや二つはある。

 迷宮都市に訪れる冒険者は決して裕福な人間ではない。かすり傷から病に感染することによって多くの冒険者が引退を余儀なくされ、運の悪い者は死に至った。衛生観念の発達した今でも高価な治療薬を買うことをしぶる人間は少なくない。意気揚々と迷宮に挑んでいた逞しい男が突如としてやせ細り死に至る。幾度となく繰り返された屈強な冒険者のあっけない死に様は“ゴブリン病”と呼ばれ今なお恐れられている。

 いっぱしの冒険者ならゴブリンの危険性について耳にタコができるほど聞かされているため、決して手を抜くことをしない。処理にまごつけば体力は減るし、そうすれば深層での活動時間は自然と削られていく。

 これが戦闘のレベルががらりと変わる第二層での死者を増やすための布石にもなっているのだから嫌らしい。一層のゴブリンをいかに早く、疲労なく倒せるかは迷宮での実力を測る格好の指標でもある。

 冒険者たちの言葉では“三層まではごろつき、四層からは騎士”といわれる。

 英雄の卵と言われる四層での活動実績が、そのまま国家資格の条件となるほど三層と四層の稼ぎの差は大きいのだ。

 四層到達を目標に掲げる冒険者は多く、ガーラムもまた例外ではない。そこで騎士資格を満たすほどの実績を積み上げたら、堂々と胸を張ってハンナに結婚を申し込むことだってできる。

 ガーラムは疲労さえなければ三層でも十分戦える自身がある。

 そのためにゴブリンたちの素早い掃討は必須条件だ。

 少しでも足りない突破力を増すために、ガーラムは魔剣を欲した。

 魔剣は足掛け三年そこそこの稼ぎを得てきたガーラムにとってもまだまだ手の届かないほど高価な武具だ。幸い魔物を斬り続けたおかげで精錬を依頼できる条件そのものは整っていた。しかし、当面の生活費とあわせて考えると、魔剣に手を出すのは時期尚早という結論しか出なかった。

 じれるガーラムに言葉巧みに話をもちかけてきたのが悪名高い<赤熊>の専属魔術師であるマーチャントだ。

 彼はガーラムに足りない分の金を良心的な利子で貸し付ける契約を持ちかけてきた。

 ガーラムも同じ冒険者としてワイルズたちの悪評は耳にしていた。

 最初からマーチャントの言うことを無条件で信用したわけではなく、むしろ疑ってかかっていた。

 ところがいざ話してみるとマーチャントは物腰柔らかく紳士的な人物で、ワイルズ・ウルバックの仲間の悪党ではなく、むしろ彼の悪評で迷惑を被っている人間の一人だと同情を向けるだけの材料があった。


「専属魔術師とはいえ報酬の分配に関しては現場の力関係を如実に反映したものになっていてね。既に耳にしているかもしれないが、私たちの評判はあまりよろしくない。内緒でこまごまとした取引を斡旋して評判稼ぎに徹しておかないといざというときに困るのだよ」


 ガーラムに有利と思われる取引を持ちかける理由としては、そんなことを言ったか。

 ワイルズに対する直接の悪口は言わないが、叛意は匂わせる。

 真実を語るわけでもないが、嘘を言うわけでもない。

 不満を上手く匂わせ混ぜ込んだその巧みな語り口に、結局ガーラムは引っかかってしまった。魔剣を手に入れるという目的の他に、あわよくば魔術師であるマーチャントと繋がりがもてるという欲も働いた。

 だが正式な書類が絡む金のやりとりに、田舎育ちのガーラムはあまりにも無知だった。

 口述の約束を信じ、マーチャントに言われるまま書類にサインし、気が付いたらのっぴきならぬ状況に追い込まれていた。

 騙された自分が馬鹿で、相手のほうが数段上手だったということだろう。


――ここは自分で罠に引っかかっておいて、ごちゃごちゃ騒ぎ立てるカスの来る場所じゃねえんだ。


 ワイルズが投げかけた言葉は正しい。

 他の場所ならいざ知らず、迷宮都市で嵌められたガーラムの事情に深く同情してくれるものなど少ないし、手を差し伸べるようなお人よしは皆無といっていい。

 自分は負けた。

 まんまと騙されて、一番大切なものを傷つけられた。

 その点だけは認めるしかない。

 だが、この煮えたぎるような怒りを忘れてなるものかと誓う。


『ごめんなさい、ガーラム』


 今も心を蝕み続ける痛み。

 悲しみの表情をした彼女の言葉を忘れてなるものか。

 やつらには、代償を支払わせてやる。

 絶対に許さねえ。

 必ず思い知らせてやるからな。


「――ガーラム。念願の魔剣が手に入ったからってはりきりすぎだぞ!」


 やや大きめの声量で注意されて、ガーラムははっと我に返った。

 いつの間にか目の前のゴブリンを全滅させていたらしい。


「あ、ああ……すまない。少し集中しすぎていたようだ」


 本当を言えば別のことに気をとられていたのだが、仲間たちはそれを魔剣の力で集中していたのだと好意的に解釈した。

 実際にガーラムが持つ魔剣には意識を集中させ、しかもその負担を軽減させる効果が秘められている。微力ながら肉体を強化する効力もあるのだと仕事を依頼した魔装具職人は言っていた。

 事実、岩盤のように固い感触をもった迷宮一層の地面で戦闘を行っても、あまり足が痛んでいないことにガーラムはいまさらのように気づく。

 ガーラムの魔剣はいわゆる“銘つき”のものほど高価ではないが、それでも十分に強い。

 魔剣をあれほどまで求めた甲斐はあったと言わざるを得ない成果である。


「さすがに魔剣の力は恐ろしいな。あれだけいたゴブリンが一瞬でバラバラだぜ。敵わねえってわかると少しは怯えて逃げるようなところでもあれば可愛げがあるのにな。全く忌々しい蛾だなあ、こいつらは」

「声にも臭いにも敏感に反応してかぎつけてきやがるしな。本当にどこから湧いてきやがるんだか」


 まるで双子のように仲のよい二人の槍使いベンとリンクスは、声を潜めて部分部分を冒険者の必須技能である手話で補いながら話しあう。魔物の多く生息する迷宮内で声を出さずに話すのは常識である。

 ベンとリンクスはガーラムと同じく田舎から身を立てにやってきた冒険者仲間だ。浅黒い肌をした二人は西方の出身かと思っていたが、意外にもガーラムと同じ南方の出身だそうだ。一緒に酒を飲んだ際に、同じような田舎育ちの苦労話で盛り上がり、意気投合してパーティーを組んだ。まだパーティーを組んで三月にもならないが、この三人なら深層にもたどりつけるんじゃないかという予感がある。『師事した人間がよかった』と語る二人の槍の腕は確かで、なによりも仲の良い二人が連携したときにその真価が発揮される。


「これでパーティーに魔術師がいればもう少しゴブリンの処理ももっと楽になるんだがな」

「おいおい、魔剣の次は魔術師かよ。そりゃちょっと強欲すぎるってもんだぜ、ガーラム先生」

「わかっているさ、ベン。魔術師と組めるのは四層レベルのパーティーだけだからな」


 迷宮都市はあくまでも貧しいもの、恵まれないものが成り上がるための場所だ。

 一方、魔術師は最難関レベルの国家資格を通った者だけがなれる高級職の一つである。わざわざ危険な迷宮に入って稼ぐ必要性はないと考えるのが常識的な考え方だろう。

 ただ魔術師といっても様々であり、特に戦闘魔術を研究するものにとって迷宮は最大の実践の場だ。未だ謎に包まれた迷宮の研究に手を出す変わり者もいる。

 そんな少数から選ばれたエリート職である魔術師が、実績のある強い冒険者と組むのは当然のことだった。彼らは四層に達したことのあるパーティーに優先的に加入する。その多くは一時加入という契約を交わすことが普通であり、ワイルズ・ウルバックのようにパーティーに専属の魔術師を抱えているというのはよほどのことだ。


――そもそもてめえの腕がまともなら、俺様に対する借り分を返すことなんてわけがなかったんだ。


 ああ、確かに貴様らは強いんだろう。

 だが俺は強くなる。

 絶対に、貴様らよりも強くなってみせる。

 ぐっと拳を握り、余力を確認するようにガーラムは深呼吸をする。

 ここまでは普段よりも順調に進むことができている。

 魔剣のおかげで戦闘の疲労度はそれほどではない。

 これならば今まで主戦場としてきた二層から三層へと活動の場を移すことができる。

 そうすれば英雄の領域とされる四層はもう目の前だ。


「伝説の魔術師にして魔人サーヴィニーか。一体どんなやつなんだろうな」


 ポツリとガーラムはこぼした。

 それは迷宮に潜る冒険者なら誰でも一度は心に抱く疑問である。

 迷宮は安穏と無駄話をする場所ではないのだが、その話題は二人の槍使いの興味も引いたようだ。


「確か魔人ってのは年をとらねえって聞いたが」

「偉い魔術師先生でもそいつが生きているかどうかについては曖昧なことしか言わねえし、わからねえよ。まあどっちにしろ俺たちに手の届く範囲の怪物じゃないんだろうさ」


 迷宮の正体について判明していることは少ない。

 二百年の時が過ぎてなお、事の発端とされる魔術師サーヴィニーの正体についてはほとんど御伽噺の領域にある。

 永遠の生命を持つ魔人と化して、今なお王国に対し邪悪な復讐を成し遂げようと画策していると言う者もいれば、とうに本人は死んでおりその卓越した召喚魔法の技術だけが今なお侵入者を撃退しようと働いているのだと主張する者もいる。

 二百年の間には討伐完了の宣言が出されたこともあるが、どれも信憑性の薄いものばかりだった。

 未だ最深とされる六層についてさえ確かな情報がないのだから、サーヴィニー本人に会ったという話をまともに受け取る人間が迷宮都市にいると思えない。


「へへ、ところで知ってるか。サーヴィニーってのは特に女の弟子を重用した魔術師ってことでも有名らしいぜ?」


 真面目腐って考えるのに飽きたのか、へらりと鼻の下を伸ばし下品な表情になったリンクスが言った。


「なんだそりゃ。どこからの情報だ?」

「さあな。二百年前の歴史を調べてるとかいう魔術師先生が言ってたよ。なんでも魔術を扱う能力に、男女の差はないって主張してたらしいけど……実際は、わかるだろ?」

「俺らがこうやって苦労してる間も向こうは絶賛お楽しみ中かもしれないってわけか? もとから高齢の爺さんだって話だけど、ソッチも凄かったのかい?」

「そりゃあな。なんせ当時の魔術師あたりじゃ最大の派閥だ。女の弟子っていっても二十人から三十人単位でそろえてたらしいぜ」

「そいつはすげえ。リンクスも少しは見習ったらどうだ? 二、三人は無理だろうが、せめて一人くらいは満足させねえとなあ」

「なんだとこの野郎!」

「盛り上がるのはいいけど少し声が大きくなってるぞ。もうすぐ二層への階段につくはずだ」


 今にも小突きあいをはじめそうな二人に、後続のガーラムは軽く注意を加える。

 ベンとリンクスは振り返って口を真一文字に結ぶことで、了解の意を表す。

 ふざけあっているときは悪戯者の双子のように見えて、二人はプロだ。彼らもまた迷宮四層を目指す志ある冒険者の一人もある。きっと魔剣で力を増したガーラムの足を引っ張らぬよう、普段以上の意気込みで迷宮に臨んでいるのだろう。

 まったく頼もしいことだ。

 思わずニヤリと笑みを浮かべたガーラムだったが、その笑いは長く続くことがなかった。

 二層への階段が存在している広間の前で、急に槍使いの二人がぴたりと足を止めた。

 それにつられて、ガーラムも足をとめた。

 いったい何事かと前方の闇をよく確認して、震えがとまらなくなった。

 そこには目に見える絶望が立っていた。

 黒山羊の頭に、ぶつぶつと紫色の棘のようないぼで覆われた逞しい身体つき。

 成人男性の倍はありそうな上背は見るだけで挑む勇気を奪う絶壁のように聳え立ち、太く重量感のある足は地面にどっしりと固定されていて、梃子でも動きそうにない。

 そしてなによりも特徴的なのが、その四本ある腕である。

 あまりにも有名な、その魔物の逸話を聞いたことがない冒険者など、迷宮都市には存在しない。


「あ、アスラデーモン……」


 震えながら、ここで出してはいけないはずの声を出したベンを責める気にもなれない。

 それは一階層で出くわすはずのない最悪の魔物だった。

 多種多様な魔界の生物は、外見と特徴からおおまかにその種族を分類されている。

 その中で高い戦闘能力と知能を併せ持ち、人に近い姿をしたものを悪魔族と呼ぶ。

 そして悪魔族のうちでも、最も危険とされてきたのがアスラデーモンと呼ばれる怪物だ。

 召喚戦争時代の古い記録によれば、たった一匹により騎士百人の部隊が全滅したという話まである。

 さすがにこれは誇張がすぎるのだろうが、迷宮都市では五層に達した冒険者すら壊滅させるほどの魔物として、より広くその存在を知られている。


「ほ、本当にヤツなのか? 彫像トラップじゃなくて?」


 慌てて手話で確認をとるリンクスだが、本人だってそんなことを信じているわけがない。

 強い魔物を模した幻影を使用する罠はよく仕掛けられるものの一つだ。

 気をとられている隙に、傍に潜む魔物が襲ってくるという典型的な仕掛けである。

 その可能性を考えるのは冒険者として間違いではない。

 しかし、あれが彫像トラップに見えるのであれば、冒険者として資質を疑われるレベルだろう。

 悪魔の足元の血溜まりと、あたりに散らばる人の原型をとどめていないモノの塊を見てしまえば嫌が応にも理解せざるを得ない。


――クソッ、血の臭いがしなかったってことは、何かの魔法か!?


 ガーラムは舌打ちしたい気持ちをぐっとこらえて歯噛みした。

 この距離に至るまで、三人が雁首揃えてこの異常を察することができないなど考えられない。

 おそらく迷宮で活躍する魔術師なら大抵が心得ている≪消臭≫の魔法だろう。

 およそ知性など感じさせない筋肉質のバケモノに見えて、アスラデーモンは魔法を行使することのできる悪魔でもある。

 血に餓えた狩人として、獲物を効率的におびき寄せるため必要なこと、やってはならないことをよく心得ている。


「……ガーラム、わかっているな」

「武器は惜しいが、それも命あってのことだぜ」


 ベンとリンクスが手話で指示してきた作戦は当然ながら退却だった。

 ガーラムはその判断に十分納得しながら、それでも素直に従うことが躊躇われた。

 勝てない敵に出くわしたら武器を捨てて逃げること。

 それは冒険者が初めに教わる、命を守るために一番大事な教えの一つだ。

 相手が戦闘を好む魔物故に、極端に戦闘の価値がない相手を深追いするようなことはしない。

 本当の窮地ならば少しでも逃亡の成功率を上げるために、持っている武器を投げ捨てるのは当然のことといえる。

 しかし――


「捨てろっていうのかよ。せっかく手に入れたこの魔剣を……!」


 それがわかっていても武器を捨てきれず死地に飛び込む冒険者は少なくない。

 冒険者にとって武器を捨てろというのは有り金を放り出せというのと同義だ。

 悩みなく簡単に決断できるものではない。

 ベンとリンクスだって愛槍を手放すことの悔しさ惜しさは十分にわかっている。

 だが多大な代償を支払って魔剣を手に入れたガーラムの葛藤は、言語に絶するものだった。

 命には代えられない。

 それはわかる。

 十分すぎるくらいにわかっている。


――だが、ここで剣を捨ててしまえば俺が大成する未来はもう二度と……!


 ギリギリと奥歯を噛み締めるガーラム。

 しかし結果的に言えば、そのような逡巡すらも徒労だった。

 恐怖に怯えるガーラムたちは、もっとよく考えるべきだったのだ。

 わざわざ≪消臭≫の魔法まで使って隠蔽を目論む悪魔が、何故ガーラムたちが視界で確認できるほどの距離で棒立ちでいたのかを。

 単に暗闇の先の獲物に気がついていないという楽観的な希望は成り立たないと気づくべきだった。

 そんな魔物に出会う可能性を最初から考えていないガーラムたちは、アスラデーモンの本当の恐ろしさを何一つわかっていなかった。

 例外なく戦闘狂であることが共通点の魔界の生物だが、その戦いの嗜好は様々だ。

 アスラデーモンが最も危険な悪魔とされるのは強さだけでなく、その雑食・・故でもある。

 他の悪魔なら相手にもしないような雑魚でも獲物として考える。

 数ある悪魔のうちでも、もっとも争いに貪欲なのがアスラデーモンなのだ。

 ただし知的とされる悪魔だけに、思考検分にはかなりの時間をかける。

 目の前の相手が、自分の敵として相応しいかどうかについて悩みすぎるほどに考える。

 長考しがちというのは一見弱点のようであり、裏返して言えば、判断に時間をかけるからこそ一度出した決定は容易なことで覆らない。


 射程距離・・・・からじっくりと観察した結果、ガーラムたちは相手になる獲物だと定められてしまった。


 ガーラムがいよいよ武器を手放して逃亡に移ろうとしたそのときだった。

 前触れの動作もなく、悪魔の腕が一閃される。


 ずごむっ。


 次の瞬間、奇怪な轟音が近くで炸裂した。

 ガーラムの目が大きく開かれる。

 目の前で繰り広げられたのは、まるで子供が毬を蹴飛ばしたような軽さで槍使いベンの身体が飛んでいく冗談のような風景だった。

 錐揉みのように回転し、ガーラムの後方へすっとんでいった彼の身体が地面に着地したとき、そこに残されていたのは深々と槍の刺さった人を感じさせない肉の塊が一つ。


「ベッ…」


 振り向いてその惨状を見たリンクスが凍りつく。

 彼に許されたのはその一言までだった。

 間髪を入れずに回転しながら飛んできた長剣が顔面に直撃し、胸から上が跡形もなく粉砕された。

 振り向いたままの奇妙にねじれた姿勢のまま血しぶきを上げる胴体が、ふらふらと地面に崩れ落ちる。

 投擲された武器の着地点から舞い上がった粉塵と血煙が鼻につく。

 ガーラムの膝ががくがくと震え、そのことに気が付く余裕すら失っていた。


「ひ」


 アスラデーモンのやったことは単純だ。

 四本の手のうち二本をつかって、二つの武器を投げつけただけ。

 ただそれだけでゴミのように二人の命が失われた。


「ひ」


 後ろでその様子を見ていたガーラムは、その悪夢めいた風景を現実だと受け入れることがどうしてもできなかった。

 真の絶望というのは、激しい苦悩の感情ではないのだと知った。

 黒く淀んだものとは違う、ただただ無意味な思考の漂白。

 叶わない望みに満たされた純白こそが、初めて目にする本物の絶望の正体だった。


 かえりたい。かえりたい。かえりたい。

 かえりたい。かえりたい。かえりたい。

 かえりたい。かえりたい。かえりたい。


 癇癪を起こした子供のようにそれだけを祈る。

 絶対に叶えられないとわかる願いにも関わらず、ただそれだけが望みだった。

 仲間の命が失われた悲しみだとか、そういうごちゃごちゃしたナニカを全部まとめてもとに戻して欲しい。

 だってこんなのはあまりにも唐突で、理不尽すぎる。


 そうだよ。

 かえしてくださいよ。

 おれの――

 おれの……


 ガチガチと歯が鳴る。

 知らず、涙をこぼしていた。

 悪魔がゆっくりと歩を進める。

 投げるような武器がなくなった故か。

 あるいはガーラムとは近接の戦いを繰り広げることを望んでいるのか。

 象のような太い足でいて、びっくりするほど軽やかに悪魔は忍び寄る。


 すぐにくる。

 アレがここにやってくる。


 それがわかっていて動くことができない。

 後ろを向いた瞬間、二人と同じように投げつけられた武器でグチャグチャのミンチにされるという恐怖で身体が動かない。

 震えがとまらない。

 帰って暖かいベッドに引きこもって、何もかも忘れてしまいたい。


 いやだ。いやだ。いやだ。

 かえらせて。かえらせて。かえらせて。かえらせて。かえらせて。かえらせて。


 長い時間をかけてガーラムがようやく理解できたのは、一つの確定した未来。

 この世のものとは思えない惨殺劇の次の犠牲者になるのは自分だということだけだった。

 大成する未来などつかの間の夢。

 ガーラム・スクリッドには二度とその機会は巡ってこない。


「ひっ、ひぃいぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!」


 ガーラムは魂が凍るような恐怖に悲鳴を上げた。

 冒険者が最初に教わる教えの一つに、“たとえ死の際でも悲鳴を上げるな”というものがある。

 それは言葉としては当たり前の教えだ。まともな智恵をもった人間で、多数の魔物の闊歩する迷宮内で大声をあげることの危険が理解できない者はいないだろう。

 できるだけ悲鳴を噛み殺し、最後まで生き残りに賭けろという先人の教え。

 だが、それを実践することの難しさは、本物の危機に直面しない限りわかるものではない。

 悲鳴を上げるしかないほどの恐怖を味わってなお踏みとどまる覚悟など、およそ訓練として学べる範疇を超えている。

 気づけば、既にアスラデーモンは目の前に立っていた。

 黒山羊の瞳がぎょろりとガーラムを見下ろす。

 悪魔がその剣をもった腕をゆっくりと振り上げ――


「ひぃあああああああああああああああああああああああああああああっ!」


 今日も、迷宮内に哀れな犠牲となった人間の悲鳴が木霊する。

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