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第四話 赤熊

 迷宮都市サーヴィニーは整然と分けられた三つの区画を有する。

 迷宮に関わらない一般市民が多く住む居住区画。

 冒険者たちが利用する商業施設と中心歓楽街が賑わいの中心となっている商業区。

 そして街の統治機構であり冒険者を監督するギルド本部が存在し、管轄下に大型の宿が立ち並ぶギルド行政区の三つである。

 ギルド行政区に宿屋が多く立ち並ぶのは、それだけ各地から多くの冒険者志望の人間が集まってきた過去のなごりでもある。時代を経るにつれ迷宮都市に長期滞在する冒険者の数が徐々に増えてきた結果として零細な宿は潰れ、代わりに冒険者のための専用住居(クランハウスと呼ぶ)が立ち並ぶようになった。

 現在では一時滞在を目的としない――つまり迷宮での稼ぎが一定以上に達した一流冒険者は己の拠点を持つのが普通だ。

 その行政区の中でも一等地とされる場所に、悪名高き<赤熊>ワイルズ・ウルバックのクランハウスが存在している。


「だから俺はお前たちに払いすぎたって言っている!」


 <赤熊>のクランハウスの一室に部屋を震わせる怒声が響いた。

 その部屋は行政区の一等地に居を構えている割には、実用一片の品々で構成されている簡素なものだった。

 上手に整理されてさっぱりした部屋という印象は不思議となく、必要なものを取り除いていった末の牢獄のような狭苦しさを感じさせる。

 仮にも来客用の部屋であることを考えると、その配置はおそらく計算のうちなのだろう。

 唯一の装飾として壁にとりつけられた炎に巻かれる街の絵は、異様な重苦しさを部屋に与えている。

 主の内面をそのまま表したような凄惨な絵画は、相手を威圧する道具として実に効果的だ。

 現在、部屋の中で机を挟んで三人の男が向かい合っている。

 部屋の主であるワイルズ・ウルバックは部屋の中央に置かれた机の後ろで椅子に座っていた。

 怒声に怯んだ様子もなく、今にも爆発しそうな剣幕で睨みつけてくる来訪者をニヤついた笑いを浮かべながら眺めている。

 その机を挟んだ向かいでワイルズを睨みつけているのは抗議に乗り込んできた冒険者で、名前をガーラム・スクリッドという。

 ガーラムはいかにも頑強で誠実そうな田舎ものらしい人相の男で、体格だけは睨みつける先のワイルズに負けないものがある。まだ年若いあどけなさの名残りもここ一年で大分薄れて、一人前らしい面構えになってきた。

 同業の冒険者も恐れて近づかないワイルズの拠点に乗り込んでくるあたり、向こう見ずで負けん気の強い気性の持ち主だ。普段ならば丸く温厚そうな瞳は抑えきれない怒りに染まっていて、一触即発の空気が部屋に流れている。

 そして部屋の最後の一人。ワイルズの背後に執事のように控える男は、白熱する部屋の雰囲気を打ち消すような冷静な佇まいでガーラムを観察していた。名前をマーチャントといい、ワイルズのパーティーの専属魔術師として働いている男である。

 落ち着きを感じさせる茶色の外套に、マナを溜めて引き出すための触媒として使う骨や宝石の類をジャラジャラと巻きつけている。それは冒険者でなくとも見れば魔術師だとわかる特徴的な風体だ。

 肩まで伸ばした頭髪を綺麗に二つに分けており、端正な容貌は中央の王国人らしく垢抜けた印象だ。最難関ともいわれる国家試験を勝ち抜いた小奇麗で知的なエリートらしい雰囲気を感じさせる。

 整った顔立ちは学者肌の魔術師のようにも見えるが、穏やかに細められた目の奥の光は獲物を狙う蛇のように温度が低い。


「とにかく……俺の言いたいことは一つだ。せめてとりすぎた分だけは耳をそろえて返してもらう!」


 結論代わりとばかりにガーラムが机に拳を叩きつけ、その衝撃が部屋に伝わる。

 動じた様子もなくワイルズはククッとかみ殺すような笑いをこぼす。

 口元を歪ませ、犬歯をむき出しにした人食い熊の形相がガーラムを睨みつけた。


「さすが小僧だけあってずれたことぬかしやがる。そもそもてめえの腕がまともなら俺様に対する借り分を返すことなんてわけがなかったんだ」

「何が借り分だ! 俺はちゃんと期日までに定められただけ返した! 後になって特別の利子だのと難癖をつけてきたのはお前たちだろう!」

「しかし、ここに借用書は揃っているのだよ。それも君の言う特別の利子とやらも含めてちゃんと書かれた正式な書類が」


 ガーラムが部屋に入ってから、静かに後ろで静観するだけだったマーチャントが口を開いた。蛇の瞳がさらに細められ、死を宣告する死神のように冷たく静かな口調で告げる。

 マーチャントが取り出して指し示す書類には、一方的にガーラムに不利な契約内容が綴られていた。


「その剣幕だと、どうせ既にギルドに泣きついたのだろうが、まともにとりあってもらえなかったのだろう。直接うちに押しかければ暖かい言葉でももらえると思っていたのかね?」

「そんな理屈の話をしてるんじゃねえ! その紙切れのことも最初から全部貴様の汚い仕込みだってことはわかってる!」


 怒りに顔を赤く染めたガーラムはそこで悔しそうに顔を歪めて言葉を切った。


「……お前らはその話を俺の知らないところでハンナにもちかけて……!」


 ぶるぶると怒りに震えるガーラムは拳を握り締める。

 堪えきれないくらいおかしなものを見たとでもいうかのように、ワイルズはくぐもった笑い声を漏らした。


「フフ、よかったじゃねえか。そのハンナちゃんが頑張って女を売ってくれたおかげで返せなかった利子分はチャラになったんだからな。優しい女が尻拭いをしてくれて男冥利につきるな小僧」

「きっ――貴様ぁっ!」


 そこで我慢の限界に達したガーラムは、ワイルズの顔面に殴りかかろうと身を乗り出して、拳を振りぬいた。

 だが殴りつけるはずの拳はまるで魔法のようにワイルズが伸ばした掌におさまり、そのまま激しく机に叩きつけられる。


「……ぐっ!」

 

 強烈な痛みと衝撃に、咄嗟に食いしばった歯と歯の間から押さえきれない苦鳴が漏れた。

 なんとかワイルズの手から抜けだそうとして、ガーラムは全身に力を込める。

 だが腕の筋肉が痙攣するほど力を込めてもワイルズはビクとも動かない。

 一体どういう鍛錬をすればそうなるのか。

 いたるところに細かい傷が走るワイルズの腕は、人間の手というには悪魔じみている。

 傍から見ればまるで大人と子供の力比べだ。

 年季の差で片付けるには圧倒的なほど違いすぎる。

 同じ体格をした人間だとは思えない力にガーラムは内心粟立つ。

 腕力では決して少なくない自信があったガーラムだが、その自信が粉々に砕ける音を聞いた。

 その気になれば、ワイルズはガーラムの拳を粉々に壊すことだって簡単にできるに違いない。

 あまりにも不吉な未来のイメージに思わず背筋を凍らせると、ワイルズがぞっとするような恐ろしい口調で言った。


「間抜けが。ここは自分で罠に引っかかっておいて、ごちゃごちゃ騒ぎ立てるカスの来る場所じゃねえんだ。腑抜けは安全に死体でも剥いでるか、尻尾巻いて街を出て行くかのどちらかだと覚えておけ」


 そう言って、ワイルズは掴んでいたガーラムの手を解放する。

 強く圧迫された右手は感覚を失い、青白くなっていた。

 突き飛ばされるようにガーラムはふらふらとよろめいて、入ってきたドアの近くの壁に背をつく。

 改めてもう一度殴りかかってやろうという気勢はなかった。

 ほんの一瞬の力比べで、ようやく三層に到達したばかりの自分と、四層以降を主戦場にする冒険者との力の差を思い知らされてしまった。

 今はダメだ。

 法で挑んでも、力で挑んでも勝ち目はない。

 みじめな負け犬として扱われる屈辱と羞恥に、思わず悔し涙がこみ上げそうになるのを必死でこらえる。

 燃えるように頭が熱い。

 欠けてしまうほど奥歯を強く噛み締め、決してこの怒りだけは消すものかと誓った。

 ガーラムはワイルズに指をつきつけて、吐き捨てるように宣言する。


「今に見ていろ! この俺の……ガーラム・スクリッドの名前を覚えておけ! いつか……いつか必ず、貴様に思い知らせてやるからな!」


 ドアを開けてガーラムは部屋から出て行った。

 ワイルズはその後ろ姿を名残惜しむかのようにじっと眺めた末に、やがて耐え切れなくなったのか椅子を揺らして大笑いを始めた。


「くっ、はははははははははははっ! 誰がいちいち覚えていられるかよ、お前のカスみたいな名前なんか!」


 クランハウス全てに響き渡るかのような笑い声は、確実に出て行ったガーラムの耳にも届いていることだろう。

 いたたまれぬ仕打ちを受けた男のことを思い浮かべてか、マーチャントが感情の篭らない笑みを口元に浮かべて言った。


「相変わらず意外なところで優しいんだな、ワイルズ」


 慈悲のように口にしたのは痛烈な皮肉である。


「復讐心というものは人を強くするぞ。あのような腑抜けに最後のチャンスを与えてやることもあるまいに」

「復讐なんて格好の餌を与えられて走りだせないから腑抜けなんだろう。ありゃどうせ近いうちに野垂れ死にだ。俺様に刃を向ける機会なんて一生ねえ」


 マーチャントの遠まわしな讒言をワイルズは一言で切って捨てた。

 ギルドの厳しい統制と規律の下にある迷宮都市にあって、冒険者同士の諍いは比較的軽微な罰で済まされることが多い。荒っぽい性格の者が多い冒険者のことだ。殴り合いの争いになることはしばしばあるし、それで軽い怪我をさせた程度なら簡単な処罰で済まされるのが普通である。

 だがそれとは逆に、争いの相手を死なせてしまった場合の処分は極めて重い。

 正当防衛などの反論すら認められず、問答無用で死罪となる。

 迷宮内で起こった殺し合いに対して正当防衛の主張をする人間が後をたたなかったために、定められたルールである。 

 何百年と続いたその決まりが迷宮都市で活動する冒険者には無意識的に染み付いている。

 空気のように蔓延する倫理に支配され、さっきのガーラムのようにいざというときに動けない。

 ワイルズからすれば全てがずれているとしか思えない考えだ。

 破ってはいけないルールがあるからこそ、それを平然と無視できる狂気を示して相手に恐怖を与えなければならない。

 先ほどのように拳で殴りかかってくるなど論外である。

 少なくとも挑発されて血が上った段階で、ガーラムは躊躇なく刃を抜かねばならなかった。

 腰に剣を下げずに乗り込んできたかと思えば、隠した武器を抜き放つ度胸もない。


――その程度の覚悟しかねえからいつか(・・・)なんて言葉を吐けるんだ、腑抜け野郎。


 無意識的に人間相手だからと殺意を遠慮する。

 そんな輩にワイルズが脅威を感じるはずもない。

 ガーラムは冒険者などという商売を選んでおきながら中途半端に高潔で真っ直ぐな気性を持つ若者だ。

 だからこそ安心してむしることができる。

 魔物だろうが人間だろうが、容易い相手はカモになって当然だ。

 獲物を殺すことのできない甘さを抱えた人間はいずれ死ぬのが、迷宮都市でのことわりである。


「で、そこの入り口に隠れてコソコソしているやつは何のつもりだ?」


 ワイルズがギロリとドアの向こう側を睨みつけて言った。

 突き抜けるようなその視線を感じ取ったのか、ドアがそっと開かれる。

 上目遣いでおどおどとした態度の少年がそっと部屋に入ってきた。


「すっ、すみません! ワイルズさん。命令された買出しが終わって帰って来たら、なんだかこみあった事情みたいだったんで慎重に様子をみないとって……」

「慎重にじゃねえよ、この馬鹿が! ああいうカスにここがどういう場所か教えてやるのはお前の役目じゃねえのか、ああ!?」

「ごっ、ごめんなさい! つ、次からはちゃんとしますから許してください!」


 すみませんすみませんと謝り続ける少年は、ワイルズのパーティーの三人目で名前をリップルラックという。女と見間違えるかのような華奢な体格の少年で、いつも緑色を基調としたスカウト向けの服を着ている。ぴょんぴょんはねた特徴的な金髪に、睫毛が長く繊細そうな青色の瞳に愛嬌はあっても迫力はない。強面のワイルズ、冷徹なマーチャントと違って、威圧感の欠片もなく、まるで絵本の中から飛び出してきた妖精のような印象を与える少年である。

 そのおかげと言っていいのか、悪名高いワイルズのパーティーの中にあってリップルラックをその一員とみなす人間はほとんどいない。彼に対する世間的な評価は、ワイルズの奴隷もしくは下僕としてこき使われる不幸な使い走りの少年ということになっていた。

 リップルラックの気弱な態度と幼げな容姿は、その手の趣味の男の標的になりそうなほど可憐で儚い。

 そのため、さらに口さがない人間は、あれはワイルズの愛人なのだと噂する。

 迷宮でおよそ役に立ちそうにない人間をパーティーに加える目的は夜のお供というわけだ。

 もちろんその手の危険極まりない話をワイルズの耳に入る範囲でする無謀な人間はいないのだが。


「謝ってる暇があったら買ってきた荷物をそこに置いてとっとと出て行け! てめえは今日は外で寝ろ!」

「はっ、はいぃっ!」


 変声期を過ぎても甲高い声は、まるで少女のように部屋に高く響く。

 がなりたてるワイルズの剣幕に怯え、命からがらといった哀れな表情でリップルラックが飛び出していった。

 追い払ったワイルズは、呆れて物も言えぬという表情になって机に頬杖をついた。


「全く。リップの野郎はいつになったらあの甘さが抜けるのやらな」

「まあそう言うな。根本から無能な男なら君が傍においておくこともないのだから」


 マーチャントは冷たく笑う。

 悪党を自称するワイルズが仲間に選ぶ基準は単純で、能力があるかないかだけだ。

 リップルラックの容姿や性格がどれほど気に入らぬものであろうと、能力がある限りにおいて手放すことはしないだろう。

 それがあの少年にとって不幸なことなのか幸運なことなのかは誰にもわからないが。


「ところで話に聞くところによるとまた派手に騒動を起こしたそうじゃないか」

「ああ?」


 話題を向けてきたマーチャントをギロリと睨みつける。

 先の騒動の余韻なのか、非常に不機嫌になっているらしい。

 マーチャントはそんなワイルズの調子をあえて気にせずに淡々と続ける。


「君の趣味の一環でもある死体剥ぎいじめだよ。街でずいぶん悪評が立っているのを耳にしたのでね」

「何かと思えばその話か」


 聞くも不快だというようにワイルズはフンと鼻で笑い飛ばした。


「さっきのカスが腑抜けだとすると間違いなくそれ以下のやつだったよ。見ているだけで胸糞が悪くなるような酷い目をしたヤツだった」


 その返答をマーチャントは珍しいと思った。

 ワイルズは弱者を毛嫌いしているが、ここまでの嫌悪を露にしたことは珍しい。

 まるでそれでは本物の敵に向ける感情のようだ。

 しかしワイルズにそこまでの敵意を抱かせるほど強い(・・)死体剥ぎがいるとも思えない。

 虫の居所が特に悪かったのか、あるいはよほど気に障る言動でもあったのか。

 いずれにせよ、理不尽極まりない理由でワイルズの怒りを買うほうはたまったものでなかったことだけは確かだろう。

 それはきっと運勢最悪の死体剥ぎだったに違いないとマーチャントは思う。


「まあ君のことだ。加減を間違えるような未熟を犯すとも思えんが、どうも風向きが悪い。ここ半年ほどの悪行三昧が祟って我々は当初の予定以上に恐れられているらしい」

「まわりくどいぞマーチ。肝心の要件だけ話せ。腰の重いギルドが動くっていうのか?」

「少なくとも監査部の周辺で何か動きがあることは事実だ。そういう情報をつかんでいる」


 監査部の名称を聞いて、ワイルズも少し興味をもって耳を傾ける。

 暴力の化身と呼ぶのに相応しいワイルズだが、多くの人間が思っているほど無鉄砲で無軌道な存在ではない。単なる粗暴な男であれば、決して一流と呼ばれる領域にたどり着くことができなかっただろう。

 あえてギルドに反抗的に振る舞っているのは、マーチャントが立てた計画のためだ。

 そうでなければわざわざ死体剥ぎに喧嘩を吹っかけて悪評をばらまく必然性もない。普段のワイルズは弱者を見下しているが、意味もなく闘争の相手には選ばない。もっとも怒りの沸点が極めて低いワイルズの機嫌を損ねれば別なのだが、そこには歴然とした違いがある。


「つまり俺様に大人しくしておけとでも言いたいわけかお前」

「まさか。君が暴れるのを止められるほど私は強くない。しかし耳に入れさえしておけば愚かにも無視されることはないと知っているのでね」

「フン! 相変わらずよくまわる舌だな! 蛇のように俺様を惑わすつもりらしい!」


 悪事も計画のうちというが、マーチャントはそれが非常に危ない橋であることを承知している。

 今はワイルズの恐怖に皆が萎縮しているものの、いつまでもこの状態が続くなど楽観的なことを考えていない。

 参謀役として不利益を上手く生かした立ち回りを心得ているが、そんなものはたった一つの掛け違いで失敗する流動的なものだ。

 ワイルズだって常に加減を間違えずに暴力を振るうことは難しいし、人の心など些細なきっかけ一つで覆る。

 一度覚悟を決めてしまえば、反抗勢力が膨れ上がるのも一瞬だ。人を扇動しようとするマーチャントだからこそ集団の無軌道な恐ろしさをよく知っている。ワイルズが雑魚と蔑む有象無象も本気で団結すれば十分に怖い存在となり得るのだ。

 そしてどんなにワイルズが恐れられる存在であろうとも、一度動き出した法と制度の前には無力である。

 だからギルドが本気でワイルズを問題視するような展開は避けたかった。

 長引けば長引くほどこのまま<赤熊>の悪評を放置しておくデメリットは増大していく。

 さして分が悪い賭けではない。

 もともとはマーチャントがそのように宣言した上で、ワイルズに作戦をもちかけたことから始まった計画だ。

 作戦のために必要な期間として、マーチャントの提示した期限はちょうど一年。

 提案の日から数えて、そろそろ十月が経過しようとしていた。


「善人には再起のチャンスがあるが、悪党の失敗は例外なく死だ。その程度のことはわかっているな、マーチ?」


 無鉄砲ではないが、気の長いほうとはいえないワイルズである。

 約束の期限を過ぎて、何事もなく許すほど甘くはない。

 それが気心の知れた仲間であろうと、容赦なく切り捨てる。

 ワイルズの仲間の基準は、使える人間か使えない人間か、ただそれだけだ。

 決定的に失敗した無能をそのまま置いておくほどの温情を期待してはいけない。


「もちろんだとも。己の首をかけた危険なギャンブルだと承知の上だ」


 ちょんとおどけた調子で自分の首を指し示す。

 マーチャントは分が悪い状態だからといって揺らぐほど弱い男ではない。

 全ては復讐のために。

 最初から自分の目的達成のためにリスクがあることなど重々承知している。

 計算して、綿密に立てた計画の中で、一番可能性の高い道を選んだのだ。

 一度賭けたギャンブルを引き返すことはできないし、後悔をしたところで無意味である。

 自分に出来ることは成功を信じて、そのための準備を滞りなく進めるだけだ。


「それに本当に難しいのは計画の初期段階じゃなく、その後だからな。そのための備えは覚悟しておいてもらうぞ、ワイルズ」

「心配するな。どんな怪物が出てきても存分に殺りあってやるさ」


 常に腰にさしてある愛用の魔剣<ヘルハウンド>の柄を弄びながらワイルズが笑った。

 殺戮に餓える獣を連想させる不敵で獰猛な笑いだった。


「いつもながら、実に頼もしい。だがそれが――」


 そこでマーチャントは一旦言葉を区切った。

 冒険者が共通して認める強大な魔物を考えているのだろう。

 しかし結論として特定の怪物を思い浮かべるまでにそう時間はかからなかった。


「――たとえば、アスラデーモンなどが相手でも?」


 誰もが思い浮かべる迷宮内最強にして最悪の悪魔。

 その名前を聞いてなお、ワイルズは不敵な笑みを崩さなかった。


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