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第三話 魔宮の人々

 サーヴィニーの迷宮が二百年の時を経ながら存続している大きな理由は二つある。

 独自の産業を築き上げた迷宮都市にとって、当初の目的に従い魔術師サーヴィニーを討ち果たす必要性が薄くなったことが一つ。

 もう一つは数多くの名を轟かせた英雄たちが挑んだにも関わらず、最深とされる六層から一人も帰還していないという単純で残酷な事実からだ。

 多くの冒険者が活動するのは迷宮一層と、それを抜けた先の二層と三層である。

 そして、最前線を抜けた先にある四層と五層は英雄の住まう領域とされている。

 五層に達した冒険者がいるのであれば六層についての情報は出回っていそうなものだが、五層から帰還した冒険者が語ったのは恐らく次が最下層であるという憶測でしかなかった。

 果たして六層は本当に存在するのかどうか。

 そんな根本的な議論が二百年の間続けられた結果として、今や六層についての話題は滅多なことで口にされない禁忌めいた噂になってしまっている。

 多くの人間にとって伝説でしかない六層。

 “不帰”の名を冠するその場所に、アイルとオルカは立っていた。

 灼熱の地獄と呼ばれる五層からは、想像もつかないほど静かで綺麗な場所である。

 そこにはアイルが魔宮と名づけて呼んでいる黒大理の建造物が存在している。

 ある意味で迷宮支配者まおうの住居としては相応しいのかもしれない、美しく豪華な宮殿だ。


「しばらく見ない間にこの円形闘技場もずいぶんと形が整ってきたじゃないか」


 五層からの階段を下りた先にある門前の広場を見て、アイルはそんな感想を漏らした。

 前に見たときはまだ形だけが判別できる程度だったはずだと、過去の記憶と現在を照合する。ほんの二ヶ月ほど見ない間に、まだ荒削りだった観覧席の石段がだいぶ整えられていた。いつの間にか最上の段にはひときわ豪華な玉座まで備え付けられている。

 もちろんアイルがそこに座って観覧する予定などないし、そもそもこの場所を使う予定すらない。

 それはあくまでも闘技場らしい雰囲気を再現するためだけの意味しかない凝った装飾だ。

 百年単位で練磨した技術を発揮する見事な仕事ぶりにアイルは感心させられた。


「ユーグもそろそろ手入れする場所が少なくなってきて落ち着くかと思ったけど、そうでもなかったな」

「施設を宮殿に改築するに飽き足らず、門前の広場を装飾してどうしようというのでしょうね。戦いになれば真っ先に壊れる部分なのに理解に苦しみます」


 好意的な反応を見せるアイルに対して、否定的な感想をオルカはこぼす。

 華美な装飾を嫌うわけではないが、無駄な部分に手をかけるのはやりすぎだと感じている。実用的で、趣味に関心を示さない彼女らしい答えともいえる。

 だが闘技場の製作者にとってはそうでもないらしい。


「そこはそれ。あっさり壊れるものだから余計に愛おしい。儚さがあってこそ輝く美があるものっすよ」

「ユーグスタルベルト」


 石畳を踏みしめる重量感のある足音と共に、門の前から歩いてきた異形が答えた。

 オルカの倍はあろうかという背丈に、鋼の硬度を誇る鱗の体。一本角を生やした蜥蜴のような顔に、ピンと針金のような長い髭を垂らしている。伝説に語られる竜に酷似した外見から、竜人と呼ばれるようになった。

 彼こそがこの円形闘技場の製作者であり、魔宮の門番である竜人ユーグスタルベルトである。純粋な人間が一人もいない魔宮の面々の中で、一番人から外れた容姿をしているのが彼だ。

 ユーグスタルベルトは異なる異世界――すなわち魔界から召喚された生き物であり、魔宮一の趣味人にして暇人でもある。

 もともと味気ない地下施設を宮殿に変えてしまったのは彼の趣味の一環だ。

 人間の本を読むことが趣味で、その知識の実践の一環として建築を始めたのが百五十年ほど前のことだった。

 今でもそのとてつもなく大きなスケールの改築作業は続けられている。


「やあ、ユーグ。ただいま帰ったよ」

「おかえりっす、アイル様。今回はずいぶん短い遠征だったんすね」


 ユーグスタルベルトは片手をひょいとあげて挨拶を返す。

 およそ外見からは想像もつかない軽薄な態度だが、それが妙に板についている。

 人とは異なる爬虫類の口から響く野太く重い声も、口調の柔らかさのせいか不思議と威圧感を感じさせない。

 闇の中でもよく見通せる竜の瞳が、玩具を期待する子供のような輝きをたたえてアイルの荷物に向けられている。

 アイルはその視線の意味に気づいて、ぽんと肩から提げていた荷物袋を叩いた。


「悪いけどいつもみたいに新しい本の土産はないんだ。予定外の失敗で、最低限の支度すら整えず逃げるみたいに帰ってきたところだし」

「ありゃりゃ、ただでさえ娯楽の少ない地下なのにそれは残念。まったく人の書いた知識と想像の集成ってのはどうしてあんなに面白いですかねえ。ま、下手にシリーズものを読み始めると続編が気になって仕方がないのは大いなる欠点ですが」

「ああ、そういえば気にしてたシリーズの新刊出てたよ。今度はユーグが気に入っていたヒロインが……」

「ちょ、アイル様、こんなところでネタバレは許さないっすよ!」

「この無駄に凝った装飾もそうだけど、相変わらずユーグは趣味に熱心だなあ」


 暢気な調子で会話する主従をオルカは咎めるような視線で見つめた。


「ユーグスタルベルト。毎度のように注意しているにも関わらず、いい加減に主人に対してその口の聞き方はどうにかならないのですか」

「おお、その長ったらしい本名で呼ばれるとオルカ様が帰ってきた気がするっすね。ユーグで構わないって二百年ほど言い続けてるのに、その堅すぎる思考も一周まわって愛着湧いてきましたよ」


 ケラケラとユーグスタルベルトが笑う。

 馬耳東風とばかりにオルカの説教を聞き流すのはいつもの風景である。

 このやりとりも二ヶ月ぶりだなとアイルは思った。


「ていうか、俺の主人っていうなら直接的にはオルカ様であって、アイル様じゃないっす」

「その私が仕えている方なのですから少しは序列を慮ってもいいではありませんか」


 迷宮の魔物を召喚する役目はもっぱらオルカが担っている。そして召喚した魔物は従者であっても、奴隷ではない。つまり契約に別段の定めがない限り、ユーグスタルベルトはオルカの配下ということになる。

 より細かな内容に関しても契約内容で縛ることはできるが、ユーグスタルベルトに関してそこまでの拘束を要求できるほどの取り決めがない。これは自由を愛する彼の性格を尊重した結果である。

 えらくいい加減にも思えるが、彼の実力を考えるとこれは破格の契約である。魔界の生物は例外なく戦闘狂しかいない。その中でユーグスタルベルトのように聞き分けがよい者は希少中の希少だ。なにせ本人が魔界随一の変わり者を自称しているくらいである。

 お世辞にも部下として扱いやすい性質だとはいえないが、贅沢を言えるような余裕があるわけではない。にもかかわらず思い出したようにチクリと一言付け足すのは、拭いがたいオルカの性分なのだろう。

 半分以上言っても無駄だと悟っているので、一言二言であっさりと引き下がるのだが。

 

「ま、個人的に関心を払う事情込みでも、そのアイル様本人が特に敬語とか必要ないって言ってるんだから別にいいじゃないっすか。様づけで呼んでるだけでも十分だと思ってほしいっす」

「ユーグの言うとおりだね。魔宮はもともと極端な少人数体勢なんだから。わざわざ敬語を使わせて普段からの意識付けなんてする間柄でもないだろうし」

「そうそう。何事も伝わりやすいのが一番っすよ」

「そうは言ってもですね……火急の場合にものをいうのは普段からの連携であって、そのためにはトップの位置と立場を明確にしておかないと」

「そのトップって、オルカの仕事じゃないの? 侍女だけど迷宮司令官も兼任だし。普段の僕はただの象徴みたいなものだろう」

「それが無難だと思うっす。アイル様、肝心なときにふらふらしててつかみどころないし」

「うん。そういう風にズバズバ言ってくれると僕も小気味よいし」


 飄々とした態度で語る二人にオルカは管理職特有の胃痛を感じた気がした。


「全く……それで肝心の門番の仕事ができませんでしたなどと言わないように」


 ユーグスタルベルトは口元から綺麗に並んだ牙を覗かせてニヤリと笑みを浮かべた。


「そこはそれ、腐っても俺は魔界の生き物っすから戦いは大歓迎っす。哀れな侵入者をグチャグチャに潰す仕事もずいぶんご無沙汰してますしねえ。俺が絶食オーケーの行者体質じゃなかったらハラペコで死んでますよ」


 ケラケラと軽く笑う。

 しかし笑いに細められた竜の瞳の奥には、確かな破壊と戦闘に対する欲求が宿っていた。

 魔界一の変わり者を名乗るユーグスタルベルトだが、それは決して戦闘欲求が低いということを意味しない。自分の好みに合致する敵が現われるまで、ずっと我慢ができるだけなのだ。


「で、ユーグ。帰ってきていきなりなんだけど、一つ頼まれてくれるか?」

「何すか、アイル様」

「これからミーチカのところに行くわけだけど、できれば一緒についてきてほしいんだ」


 アイルの頼みごとに緑色の鱗で覆われた表情が歪んだ。


「お断りっす。今の姫様の前に立つ勇気は絶無っす」


 頭をぶんぶんと振って拒絶の意思を表す。

 予想外に激しい反応にアイルは戸惑った。


「ある程度は覚悟してたんだけど……そんなにか?」

「地獄の釜が沸騰したかのような怒りを放っていたっす。今は落ち着いてるみたいっすけど。余波でせっかく頑張って作ったガーゴイルの像にひびが入ってしまいましたよ、どうしてくれるんですか」

「それを責められても謝るしかないけど、そうか。やっぱり一人で行くしかないか」


 できれば援護を期待したかったが、アイルはそこで諦めざるを得なくなった。

 ちなみにオルカには最初から期待はしていない。

 彼女は必要でない限りミーチカの前に姿を現さないし、侍女としての態度を崩すことはないからだ。

 現に今もアイルの荷物をまとめて、さっさと別の仕事場に行く準備を始めている。


「オルカもたまにはミーチカに会ってやればいいのに」

「侍女風情が用事もなく顔を見せる必要はありません」


 ピシャリと鋼のような回答が返って来る。

 態度だけ見ればまるで嫌っているかのような反応だが、アイルはオルカがどれだけ彼女のことを溺愛しているか知っている。

 そして、大事な人の前だからこそ自分の存在を極力表に出さないというオルカの方針は徹底しているのだ。

 面倒な性分だとは思う。

 しかし他のことならばともかくミーチカのことに関する限り、アイルが強く命令したところで効果があるとも思えない。

 百年単位で続けられる厄介な事情にこんなところで介入したところで逆効果だろう。

 配下の感情の機微を察して大切に扱うのは、どこの語録にも語られていないが当然の王の責務といえる。



 魔宮の姫君として扱われるミーチカのいる部屋は一番奥に存在している。

 迷宮の最奥ということは、最も重要な守るべき核であるというのと同義だ。

 迷宮の司令として仕え働くオルカとは違い、ミーチカは迷宮支配者であるアイルと限りなく対等に近い立場にある。

 土地から集積したマナを溜め込む貯蔵庫としての役割は彼女にしかこなせない。

 アイルが迷宮の脳だとすると、ミーチカは心臓に相当する。

 どちらのほうが大事という差はないが、より守りの必要性が高いのは彼女のほうだ。


「ミーチカ、入るよ」 


 確認のために扉を叩くと中からどうぞという声が返ってくる。

 アイルが扉を開けて中に入ると、その姿を認めて眠るように瞳を閉じていた幼い少女が顔を上げた。

 自室の椅子にちょこんと座っているミーチカは、無邪気な表情にくすりと一つだけ笑みを浮かべた。

 ミーチカの鴉の濡れ羽色をした長い髪と瞳の色はアイルのそれと良く似ている。ただし感情の色が見えないアイルと違って、ミーチカの瞳には猫のような好奇心が顔を出しており、見るものには可愛らしさのほうを強く印象づける。

 高級な素材の良さをそのまま引き立たせるようなすらりとしたドレスは小柄な彼女をさらに小さく見せており、純白の布は磨きぬかれた黒い床に白い光のような影を投げている。

 まるで童話の姫君がするような仕草で二つに分けた髪の一方を猫の尾を撫でるように触れると、手首に巻かれた手錠の鎖がじゃらりと音をたてた。必要から嵌めている無骨な手錠は本来ドレス姿に合わないはずなのに、不思議と違和感を感じさせない。きっとコーディネイトに何十時間とオルカが頭を悩ませた末の賜物だろう。

 魔宮の小さな白い姫君は、そのまま鎖の音をたてぬようふわりと椅子から立ち上がり、優雅な一礼でアイルを歓迎した。


「お帰りなさいませ。お兄様」


 その姿を見て、アイルはユーグスタルベルトの言葉が正しかったことを認識した。

 どうやら相当怒っているというのは本当らしい。

 普段は子供っぽく甘えてくる彼女がオルカを真似たような優雅な一礼で出迎えるとき、それは怒りが頂点に達して一周まわっていることの証明でもある。


「えーと。ずいぶん機嫌が悪いんだな」

「そう見えますか?」

「うん。見える。どうしてなのかは完全に理解しているとは言いがたいけど」

 

 ぴりぴりと肌を刺すような威圧感の中、アイルはいつもどおりの無表情のまま答える。

 そののらりくらりとした回答がミーチカの導火線に火をつけた。


「とぼけないでください! マナを集積するための道は血脈も同然。それがいきなり切断されてミーチカが気づかないとでも思っているのですか!」


 怒声と共に全身の血が逆流するような感覚がアイルを襲った。

 導線であるアイルはマナの貯蔵庫の役割を果たすミーチカと魔法的なつながりを持っている。


「悪かった。悪かったから、マナの吸収速度を速めるのはやめてくれ。支配魔法の精度が低下してる今は本当に丸焦げになりかねない」

「知りません! あんな無茶をするお兄様なんて爆発しちゃえばいいんです!」


 物騒な台詞を口にしながら胸をぽかぽかと叩かれる。

 ミーチカはアイルの半分程度の背丈しかないので、それが胸を叩こうとするとどうしても背伸び姿勢になってしまう。体格に見合った腕力しかないミーチカがそれで力をこめようとしても無理がある。むしろつられて当たる腕の鎖のほうが痛いくらいだった。


「ほら、あんまり暴れるとドレスがしわになるぞ。鎖が当たってあざになっても困る」

「そんな風にミーチカのことを心配するくらいなら、乱れたマナの流れを自分の身体で食い止めようなんて無茶を仕出かすのはやめてください! お兄様が死ぬくらいなら、ミーチカが多少痛い思いをするくらい我慢できます!」


 涙目で抗議の姿勢をとりながら、暴れるのをやめるあたりは素直である。

 暴れたおかげで乱れたドレスのしわを直して、威厳を示すように胸を張り、咳払いを一つ加えて宣言する。


「やはりお兄様にはミーチカの監督が必要なのです。ですので次から地上に赴く際にはミーチカを連れて行くように」

「いや、それは無理だろう。ミーチカはここから動けない身体なんだから」

「ミーチカはお兄様の妃なのですから、付いていくことが本来自然なのです。頑張れば一日二日程度は耐えられます!」

「一日二日じゃ意味がない。それに、僕が良くてもオルカが絶対に反対するから」

「むぅーー」


 オルカの名を出されるとさすがに弱いのかぷくーっと頬を膨らませる。

 アイルと違ってミーチカは感情表現が豊かで見ていて飽きない。

 本気で怒られると命が危ないとわかっていながらつついてしまうのは、この変化を楽しみにしているからではないかと思ってしまう。

 ちなみに妃というのは、魔宮になぞらえてアイルが王を名乗ることに対するミーチカの反応である。お兄様が王なら私は妃です、というのが彼女の言い分だ。アイルは何も言わないが、内心では妃というよりも王女としての扱いだろうと思っている。これを口に出すと拗ねて口を聞いてくれなくなるので指摘はしない。成長をすることを封じられている故に、自分の子供っぽさについてミーチカは人一倍気にしている。今着ている落ち着いたデザインの白いドレスも、なるべく大人らしいものをとオルカに無理を言った結果らしい。

 それなら両サイドにくくった髪を一つに下ろせばもう少し大人っぽく見えるかもしれないとアイルは思うが、髪型に関しては一歩も譲らない姿勢を見せるオルカを説得するのは非常に難しいとわかっている。


「だいたい、お兄様は迷宮支配者という立派な仕事があるではありませんか。なのにわざわざ地上に出て、あのような下等な働きに参加する必要は――」

「ミーチカ、彼らの仕事を悪く言うのはよくない。必要以上に見下したような言葉遣いはするものじゃないよ」


 アイルが軽く注意をすると、反省したのかしゅんとした表情を見せる。


「申し訳ありません。ですが、聞くところによるとあの者たちは、お兄様を相手に酷薄な仕打ちを平然と行っているそうではありませんか」

「酷薄な仕打ちってなんだ?」

「オルカから聞きました。シタイハギとは同じニンゲンからも蔑まれ、疎まれるものなのだと。ミーチカはお兄様がそのような態度を向けられている姿が我慢ならないのです」


 アイルはそうやって見下される立場に何かを感じたことはない。

 死体剥ぎに溶け込むのだから同じような扱いを受け入れるのは当然だろうと思っている。

 役を演じる限りはそれに徹するという、単なる義務感でそうしているに過ぎないものだ。

 一般的価値観に照らし合わせると、アイルのほうが異常であるということは本人も自覚している。

 いくらなんでも演技過剰になりすぎている自分に自己嫌悪のようなものを覚えないでもない。

 もっとも自覚があるからと言って性質を変えられるようなら苦労はない。

 ミーチカの意見を貴重なものだと感じても、それを実感として受け止めることは不可能だった。


「別に後生大事にとっておくようなプライドはないからな。そんな小さいことは気にする必要がないだろ」

「ミーチカにはあるのですっ」


 拗ねたような反応をアイルはやはり微笑ましいものに思う。

 自分にはそうやって自己と他人を同一視するような真似はできない。

 それがたとえそう定められたからこそ生まれた感情だったとしても、アイルはその真っ直ぐな視線を宝石のように愛おしく思うのだ。


「ミーチカ。確かに僕が地上に出向くのは半分趣味のようなものだ。けど、そうしなければ叶うはずがない僕の望みがあることも知っているだろう?」

「わかっています。ですがミーチカはもう少し頻繁にここに戻ってきて欲しいとも思うのです。それはワガママでいけないことなのでしょうか」

「ワガママだとは思わない。けど、二つを同時に選ぶのにどうしても難しい事情があるからね。僕が永遠にミーチカを蔑ろにすることなんてないんだから、待っていてもらうしかないんだよ」


 地上で人間の暮らしに溶け込むにあたり、一番危険なのが迷宮とのつながりを察知されることだ。頻繁に地下に戻るのはそれだけに無理がある。

 その理屈がわからないほど愚かではないミーチカはじっと黙り込んだ。


「ヨトギ」

「え?」

「今回の件は、ヨトギ七回で勘弁してあげます。暫くお兄様はこちらに滞在されるのでしょう。それならその間はミーチカの相手をしてくれても構わないではないですか」

「ああ、うん。ヨトギね。それくらいで勘弁してもらえるならお安い御用だ」


 上手く内心を隠しながらアイルはさらりと答える。

 夜伽の定義をいい加減に教わったミーチカは、それを単純にベッドで一緒に寝ることだと解釈している。いたって普通の家族じみた就寝風景が展開される程度で機嫌が直るのだ。

 これを安い代償とみるべきか、いつか真実を知ったときの恐ろしいツケと見るかは微妙なところである。


――腹芸をこなすのも王としての資質。


 とまではさすがにアイルとて考えない。

 これは単なる大人の悪知恵だ。

 もっともアイルが悪知恵を発揮して気を遣う必要すら本来はなく、ミーチカに関してはそういった意味での成長は厳しく制限され、調整されている。

 不完全で、不安定で、耐えざる調整の末に存在を許される生き物。

 その意味でやはり彼女はアイルの妃に相応しいのかもしれない。



「ヨトギ七回ですか。ずいぶんと節操のない約束をされましたね」

「どういう手段かは問わないとして、隠れて聞くのはよくないぞ、オルカ」


 玉座の間につくと同時に、傍に控えていたオルカが口にした言葉にアイルはため息をつきたくなった。侍女としてらしくもない愚痴は、内心の動揺を覆い隠すための方便に近い。こうやっていちいち心配するくらいなら、最初からついてくればいいのにと思う。


「だいたい僕がミーチカをどうこうするような存在なら、君は彼女に近づけもしないだろうに。まともに(・・・・)三欲を保っている生き物はここで暮らしていくことはできないんだからさ」

「…………」


 無意識にオルカは自分の変わり果てた髪に触れていた。

 外界との交流を制限された地下で出来ることは少ない。

 水もなく、光もなく、食料もない地下には生活の基盤となるものがない。

 いくつかは魔法で解決できるが、それに頼ったところで効率の悪さに拍車をかけるだけに終わる。

 特に食欲や性欲の類は問題だ。これらはあるだけで生活の妨げになる。

 現在の魔宮に人間が一人も住んでいない理由はそういうわけだ。

 宮殿の形をした霊廟だと言ったのは誰だったか。

 誰からも忘れさられ、地の底の闇に封じられた墓場。

 そこでは最低限・・・人間を捨て去らなければ正気を保って生を送ることができない。

 オルカの薄紅色の瞳も、白い肌も、全ては地下での長命と引き換えに変化していったものである。

 それは自分で選択したことの結果にすぎず、オルカはそのことに後悔はない。

 しかし、オルカ以外の者についてはどうだろうか。

 後悔などないと言い切るのは自己決定権を行使してきた人間の理屈であり、選択の余地なく変貌させた者にいったい何が言えるというのだろう。

 一人の子供として生きて欲しいと願いながら、生きていくのに不都合な機能・感情は削りとる。

 そんな吐き気のするような作業をずっと繰り返してきた。

 ただ、自分がそう望むからというそれだけの理由で。

 この吸血鬼じみた外見もそういう意味では大人しいものだ。

 人の生き血を啜るよりもおぞましい所業を愛する者に向ける。

 本来ならそんな自分の存在は、日の当たらない地下においても許容されるはずがない。


「すまないなオルカ。少し言い過ぎた」

「いえ。おっしゃるとおりです。アイル様が世界最悪・・・・の存在であるならば、私はそれ以下の価値しかもたない外道なのですから……」

「だからそうやって落ち込むなと言っている。それよりも、迷宮について指示しておきたいことがある。この前は暫くやっていなかった大物の召喚予定があると言っていたな?」

「はい。その予定ですが、それが何か」


 幾分かの気遣いも入れてのことだろう。

 王としての態度に切り替えたアイルにあわせて、オルカもかろうじて従順な侍女としての態度を取り戻す。


「アスラデーモンを一層に配置しろ」


 静かに、されど厳かに命令が下される。

 オルカはそれを聞いて、緊張に身を強張らせる。

 その命令は決して無視できるほど軽い内容ではない。

 アイルたちが動かせる中で最強の戦力を投入しろと言われたに等しい。


「恐れながら申し上げます」

「どうした?」

「アスラデーモンはいくらなんでも過剰ではありませんか。今のギルドが戦う道を選ぶとは思えません。“召喚返し”されたときに無駄な労力が増えるだけかと考えます」


 それは長年迷宮の維持管理に携わってきたオルカとしては当然の意見だった。

 迷宮に召喚する魔物については、二百年の実績からの分析結果で動かしているため早々予定外のことは起こらないし、起こしてはならない。

 召喚する魔物の選別は、過去の慣例に鑑みて行う商品の仕入れのようなものだ。

 二百年前ならいざ知らず、ギルドの統制下が強い現在ならばその下で働く冒険者たちの動向はいくつか考えられるパターンのどれかに収束するだろう。

 ただ力を見せつけるためだけに、収支赤字のリスクを負う必要はどこにもない。


「戦う人間はいるさ」


 しかし、アイルは確信を込めて言い切った。

 その真意を問うように視線を向けたオルカに対し、アイルは総てを取り仕切る王としての余裕を笑みに浮かべて言った。


「もうギャンブルは始まっていて、僕はそれに賭け金を支払ってる。ここで早々と降りるようなら最初から勝負に参加しないよ」

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