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硝子越しの恋

作者: 星賀勇一郎





恋愛とは数学の証明の様なモノでなくてはならないと航は密かに定義していた。


小説家を志す十六歳の航にとって、「愛」は数多の歴史と文学作品が築き上げて来た、完璧な論理構造を持つ概念だった。

登場人物の抱える孤独、魂の邂逅、引き裂かれる様な試練……、その全てを経て巡り着く、純粋で絶対的な感情。

彼の愛読書であるトルストイもバルザックも、航の眼鏡の奥の眼差しにその理想の姿を刻み付けていた。 


だから彼がクラスの隅で広げたハードカバーの向こう側に、学年一の人気者であるミナモが立っているのを見た時、その完璧な定義が音を立てて崩れる予感に航は身構えた。


ミナモは眩しかった。

周囲の男女の羨望や嫉妬、そして恋慕を一身に浴びながら、彼女はいつも、まるで彼女専用のスポットライトを浴びた舞台女優の様に輝いていた。

その美しさは航が本の中で何度も読んだ「女神」や「絶世の美女」といった形容詞を、現実に具現化した様なモノだった。

彼女の周りには常に人が群がり、誰もがミナモの関心を得ようと躍起になっている。

航からすればそれは彼自身の世界……、「静かで知的な孤独に満ちた世界」とは、分厚い防弾硝子で隔てられた手の届かない場所だった。


航は自分の存在を隠す様に、分厚い黒縁眼鏡の奥に顔を沈めた。

特に小説の中の主人公の様に、鋭い感受性やカリスマ性を持っている訳では無い。

小説の主人公がもし存在するとしたら、それはミナモの方だろう。


航はただ物語の陰に潜む観測者に過ぎない。

その観測者である航にミナモは話しかけて来た。

それは一週間前の放課後、彼が一人で図書館の歴史書を漁っている時の事だった。


「ねぇ、航君……。その本、面白いの」


航は驚きで声を失いそうになった。

自分の名前を呼ばれた事、ましてやミナモの様な存在に話しかけられた事が現実離れしていた。

図書館の静寂の中で、彼の胸が異常な速さで脈打つのを感じた。


「ええと……、これは中世ヨーロッパの貴族社会における婚姻制度について書かれたモノで……」


しどろもどろに答える航の眼鏡越しの視線は、ミナモの美貌ではなく、彼女の背後に並ぶ本の背表紙を彷徨っていた。

直視出来なかったのだ。


ミナモはふわりと笑った。

航がこれまで読んだどの小説にも描かれていない、現実の生きた笑顔だった。


「ふぅん……。何か難しいね。でも航君っていつも楽しそうに本を読んでるから、ずっと気になってたの……」


「気になって……」


航は困惑した。

人気者であるミナモがクラスでいつも一人で居る眼鏡をかけた陰気な自分を気に掛ける理由が全く見当たらなかった。

彼女の行動の裏には、何か小説的な「伏線」があるのだろうか……。


「うん。だからちょっと話したい事があって」


ミナモは周囲を気にしながら、少しだけ声を潜めた。


「明日の放課後、屋上に来てくれないかな」


航はその日、一日中、ミナモの言葉を頭の中で反芻した。

屋上。

放課後。

人気者。

陰キャ……。

これは彼が予習してきたどんな展開にも当てはまらない。

彼が知る恋愛のロマンスはもっと詩的で、もっと運命的なモノだった筈だ。

彼の胸を騒つかせるこの不可解な感情は、本当に「恋」と呼べるものなのだろうか。


航の辞書に「恋愛」の具体的な実体験は記されていなかった。


彼は気付いていなかった。

既に彼の完璧な筈の「愛の定義」の頁がミナモという予期せぬ一滴の雫によってじわりと滲み始めている事を。

そして、その滲みこそが、彼にとって初恋であり、同時に初めての失恋になる事を。






屋上は予想していたよりも殺風景で、小説的なロマンスとはかけ離れていた。

錆びたフェンスと無機質なコンクリート。

しかし航の隣には間違いなくミナモが立っていた。

彼女の髪は微風に揺れ、午後の太陽を反射して煌めいていた。

航はやはり彼女を直視出来ず、眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げて、家のjyの足元の影をただ、ぼんやりと見つめる。


「来てくれてありがとう……」


ミナモの声はいつもより澄んでいて、緊張している様子はなかった。


「いえ、こちらこそ……、呼び出してくれて……」


航は自分の声が情けなく震えているのを感じた。

彼は今、人生で初めて自分が予測不能な状況に置かれている事を自覚した。

この場の空気、ミナモの視線、彼の胸の鼓動。

全てが彼が読んで来たどの物語のテンプレートにも収まらない。


航はミナモが何を話すのか、幾つかのパターンを想定していた。

本の貸し借り、進路相談……、あるいは誰か他の男子への仲介役を頼まれる……、と、言った最悪の展開……。


しかし、ミナモは彼の全ての予測を無意味にする、最も直接的で、最も非論理的な言葉を選んだ。


「単刀直入に言うね……。航君……。私は航君の事が好き……」


一瞬、航の世界の音が消えた。


耳鳴りがする。

屋上の上空を飛んでいたカラスの羽音さえも聞こえない。

航の頭の中では緊急停止ボタンが押された様に、思考回路が停止した。


「え……」


航が発したその音は、彼の意図とは裏腹に、驚きを隠しきれない間抜けな響きだった。


ミナモは少しだけ微笑んだ。

その表情には告白という人生の一大イベントに臨む者の真剣さと、それを航に告げる事の出来た解放感が混じっていた。


「知ってる……。航君から見たら変に思えるかもしれない。私には言い寄って来る人が沢山いるし、航君はいつも本を読んでて、私とは接点なんて無かった。みんなは私が航君みたいな「陰キャ」を好きになるなんて……、変わり者だって言うわ……」


ミナモの言葉は澱みがなく、まるで自分の選んだ道を説明するかの様だった。


「でもね、私は航君がずっと気になってた。みんなが私を見る時、その視線は私の「人気」とか「容姿」とか、そういうラベルしか見てない。でも航君はいつも、私じゃなくて本の中の誰かを見ていた。誰にも染まらず、自分の世界を守っている。私は、そんな航君がずっと一人が嫌いな私と正反対で……。とても眩しく見えたの……」


ミナモは一歩、航に近付く。


「この気持ちは、私にとって初めてのモノよ。だから、本物。ねぇ、私の彼氏になってよ……」


航は息を吐き出す事さえ忘れ、フェンスの向こう側の街並みをただ見つめた。

ミナモの告白はあまりにも純粋で、あまりにも直球だった。

彼女の言葉には文学的な修辞も、ドラマの様な盛り上がりも無かった。

ただ「好き」という、彼がこれまで最も遠い存在だと考えていた感情だけが剥き出しのまま存在していた。


「ごめん……なさい……」


航の口から漏れた言葉は、彼自身が最も驚いた、残酷な拒絶だった。


ミナモの瞳から一瞬にして光が消えた。

その小さな変化が、航の心臓を刺した様だった。


「どうして……」


ミナモは静かに押し殺した声で尋ねた。

彼女の声には泣き叫ぶ様な感情は含まれていなかったが、それゆえに深く傷付いている事がわかった。


「僕は……」


航は自分の手を見つめた。

本を持つためにある筈のその手が、今は何も掴んでいない。


「僕は、恋愛というモノがどういうモノかわかりません……」


「え……」


「君の気持は確かに本物なんだろう……。それは君の真っ直ぐな言葉で理解出来る。君は綺麗だし、優しくて、誰から見ても魅力的な人だ。でも、僕は……、君の気持に釣り合う「愛」を返せるのかが……、わからないんだ」


航は頭の中で必死に言葉を探した。


「小説の中の愛は、魂の共鳴だとか、運命の再会だとか、全てを投げ打つ覚悟だとか……、そういうモノだ。でも、僕は今、君の前に立っていて、「好き」という感情の実態が、僕の身体の中でどう動いているのかが全くわからない。この胸の騒めきが、本当に「愛してる」という感情と結びつくのか、保証出来ないんだ」


彼は続ける。


「中途半端な気持ちで君と付き合うのは、君の本物の気持ちに対してあまりにも失礼だ。僕は、小説家を目指している。嘘の感情で、物語を紡ぐ事は出来ない……」


それはあまりにも理屈的で、あまりにも航らしい拒絶の言葉だった。

愛の理想像が目の前の現実の愛を弾き飛ばした瞬間だった。


ミナモはしばらく沈黙した後、わずかに唇を震わせた。

彼女の眼差しは航の眼鏡の奥、そのさらに奥の魂を見据えている様だった。


「そう……、わかったわ」


ミナモはその傷付いた胸の内を押し殺す様に深呼吸をした。


「でも、航君……。さっきも言ったけど、私にとってこの気持ちは本物よ……。あなたが理解出来なくても、私の告白は真実。それを理論で断罪しないで欲しかった……」


ミナモは背を向け、一度も振り返らずに屋上のドアに向かって歩き出した。

その背中は、あまりにも孤独で、航が今まで見て来たどのミナモよりも人間的な弱さを晒していた。


ドアの蝶番が哀しげな音を立てて閉まる。


航は一人、屋上に残された。


彼は拒絶した。

学年一の人気者からの純粋な愛の告白を「理解出来ない」というあまりにも身勝手な理由で突き放した。


ミナモが立ち去った後の空間には、喪失感と、説明の付かない焦燥感だけがこびり付いていた。

その瞬間、航は恋愛を知らない筈の自分の中に、何かが決定的に大切なモノが失われたという、初めての虚空な感情を覚えた。

それは彼の文学的知識を持ってしても、「失恋」としか呼びようのない痛みだった。






屋上での出来事から三日が経過していた。


航の日常は、外見上は何も変わっていなかった。

彼は相変わらず教室の隅の席に座り、暑い眼鏡越しに文庫本を広げていた。

小説家志望の彼の生活は、読書とその読書で得た知識を体系化する事以外、何も存在しない筈だった。

だが、航の内部では激しい地殻変動の様なモノが起きていた。

いつもの様に本を開いても、文字が脳に入って来ない。

愛読するドストエフスキーの『罪と罰』。

ラスコーリニコフの抱える焦燥と罪悪感が、以前ほど切実に感じられなくなった。

彼の頭の中を支配しているのは、貧しい大学生の殺人事件ではなく、ミナモが去った時の屋上の静寂と、彼女の傷付いた眼差しだった。


何故だろう……。

自分は彼女の告白を拒絶した。

恋愛という非論理的な感情に、中途半端な気持ちで向き合う事を避けたのだ。

それは彼自身の信念に従った、正しい選択であった筈だ。

しかし、彼の心はその「正しい選択」を激しく拒否していた。


喪失感……。


それが航が今抱えているただ一つの感情だった。

彼はミナモと付き合った事すらない。

何も得ていないのに、どうしてこれ程までに何かを失った感覚に襲われるのだろうか。

彼の隣の席は以前と変わらず空いている。

だが、ミナモの存在しない空間の大きさがまるで巨大な穴の様に航の日常を侵食していた。


「これは何だ……」


航は慌てて机の中からノートを取り出し、その一番後ろの頁に小さく書き記した。


定義 告白を拒否した後に生じる強烈な虚空感

要因 理想の愛の定義に合致しなかった対象を自ら手放した事による後悔

結論 これは「失恋」では無い。何故なら自分は「恋」をしていないから


しかし彼の理性的な分析は、彼の胸の奥で鉛の様に重く沈殿している痛みを説明出来なかった。

それは小説で読んだどの「失恋」の描写よりも生々しく現実的なモノだった。


航は物語の中の感情を論理的に理解出来ても、自分の身体の内側で発生しているこの未知の熱量を定義する事も制御する事も出来なかった。


「ねぇ、ミナモ……、最近どうしたの……」


教室の向こう側から聞こえる女子たちのひそひそ話が航の耳に飛び込んで来た。


「あの航とかいう陰キャにフラれたらしいよ。信じられないよね……ミナモがあんな地味な男に告白するなんて。本当に変わり者よね……」


「やっぱりね。ミナモがあんな奴に本気な訳ないじゃん。でも、ちょっと可哀想かも。あんな眼鏡男に断られるなんてさ……」


「でもさ、逆に言うとチャンスだよね。ミナモ、最近少し落ち込んでるみたいだから。今が告白のチャンスじゃない」


航の身体が一瞬でその体温を失くした。


「変わり者……」


あの屋上でミナモは言った。

航を好きだというだけで周囲からはそう言われていると。


航はその純粋で強い気持ちを「理解出来ない」という自分の臆病な理想で打ち砕いた。

しかもその結果、ミナモは航が告白を断ったという事実によって、今度は「哀れな存在」として消費されようとしている。


更に最悪な事が起きる。


放課後、航が教室で本を閉じようとした時、クラスで最も社交的で目立つグループの一人がミナモに話しかけているのが見えた。


「ミナモ……、元気ないみたいだけど、俺と週末映画でもどうかな。気分転換くらいにはなるって」


その男は航の席のすぐ傍に立って、航に聞こえる様に声を張る。

ミナモは顔を上げて、曖昧に微笑んだ。


「ありがと……。でも今はいいや……」


ミナモは断った。

しかし、航の心は言いようの無い焦燥感で満たされた。


自分のせいでミナモが手の届かない存在になって行くのではないか……。


彼はミナモが他の誰かの慰めを受け入れ、他の誰かと新たな関係を築いてしまう事に対して激しい「所有欲」に近い感情を覚えた。

それは彼が小説で読んだ「嫉妬」という感情に限りなく近かった。


しかし、彼はミナモの「彼氏」では無い。

その感情を抱く権利すらない。


ミナモが去った後、航は無意識に自分の顔を触った。

其処に触れる黒縁の眼鏡。

それは彼と現実の世界を隔てる分厚い硝子だ。

彼はこの眼鏡の奥に隠れて、安全な場所から「理想の愛」を観測していた。


航は席を立つ。

そのまま誰も居ない廊下を歩き、手洗い場の鏡の前に立つ。


彼はゆっくりと眼鏡を外した。


視界がぼやける。

しかし、鏡に映った自分の顔は驚く程クリアに見えた。

眼鏡を掛けている時は、いつも本ばかり読んでいて、何処か影があり、内気に見える自分。

だが、今、そこに映っていたのは、少し切れ長の目元とスッと通った鼻筋を持つ、端正な顔立ちの青年だった。


航はその素顔の自分をまじまじと見つめた。

彼はこの顔を長い間、小説の登場人物の後ろに隠して来たのだった。


「論理なんてどうでも良い……」


航は鏡に映った自分自身に初めてそう呟いた。


「この胸の痛みは僕だけのモノだ。小説の登場人物が感じた感情じゃない。君が遠くへ行ってしまう事が怖い。君が他の誰かのモノになるのが耐えられない……」


それは理論武装した理性では無く、剥き出しの本能的な感情だった。

航はこの感情こそがミナモが言っていた「本物」の愛の源泉なのでは無いかと、直感的に悟った。

それは完璧な理想の愛では無い。

失恋という痛みから始まった不完全で、切実な、現実の愛だ。


航は眼鏡をポケットに突っ込んだ。

彼はもう安全な観測者で居る事を辞めた。

彼は自分の缶所のままに、ミナモを追いかける事を決意した。






航はミナモを見付けるのに時間はかからなかった。

彼女はいつも通り、放課後の教室で一人窓の外の夕焼けを眺めていた。

周囲には既に数人の男子が群がろうとしていたが、ミナモの纏う静寂の大気に誰も容易に近付けないでいた。


航は深呼吸をした。

ポケットの中の眼鏡の感触が彼を臆病な過去に引き戻そうとしている気がした。

だが、彼は決意を固めていた。  


もう分厚い硝子越しに世界を眺めるのは終わりだ。

航はミナモに向かって真っすぐに歩き出した。

航の登場に周囲の空気が一変する。

彼が眼鏡を掛けていない事に気付いた生徒たちが騒めき始める。


「え、あれって航……。あの陰キャの……」


「嘘だろ……眼鏡外したらあんなにイケメンだったの……」


航の容姿の変化はまるで彼が隠していた本当の自己が表に現れたかの様だった。

しかし、航の視界にはミナモしか映っていなかった。


「ミナモ……」


航が名前を呼ぶとミナモはゆっくりと振り返った。

彼女の瞳が驚きに見開かれた。

彼女が航の素顔を見るのはこれが初めてだった。


「航君……」


ミナモの声は僅かに震えていた。


航は周囲の視線も、彼自身の胸の激しい鼓動も無視してミナモの目の前で立ち止まった。


「少し話がしたい……」


ミナモは戸惑いながらも静かに立ち上がる。

航は彼女を連れて人が殆ど居ない昇降口の隅へと移動した。

薄暗くなり始めた廊下に二人の影が伸びる。


航はミナモと向き合い、もう一度深く息を吸い込んだ。

彼の瞳はもはやぼやけた理想ではなく、ミナモの現実の存在を鮮明に捉えていた。


「この前は本当にごめん……」


航は頭を下げる。


「君の気持を僕の身勝手な理想で切り捨てた」


ミナモは航が頭を下げるのを見て、慌てて言う。


「そんな……、顔を上げて。航君が謝る事じゃない。私の気持ちを理解出来なかっただけって言ったじゃん……」


「そう。理解出来なかった……」


航は顔を上げる。

彼の素顔は感情を隠す眼鏡が無い分、より強く、そしてより不安定に見えた。


「僕は小説家になりたい。だから完璧な愛という理想を追いかけていた。君からの告白をその完璧な定義に当てはめようとした。でも、当てはまらなかったから、僕は君を拒絶した」


航はポケットから黒縁の眼鏡を取り出した。


「僕にとってこの眼鏡は世界を安全な場所に保つためのフィルターだった。このフィルターを通してなら、僕は傷付かない。理論だけを信じていれば裏切られる事も無い」


彼はその眼鏡を握りしめた。


「でも、君を拒絶した日、僕は初めて傷付く事を知った。君の告白を断ったのに、君が僕から遠ざかる事、君が他の誰かのモノになる想像が、僕の胸を締め付けた。それは僕が知るどの小説の「失恋」の描写よりもずっと激しく、非論理的な感情だった」


航はミナモの眼を見つめた。


「僕はこの三日間で、僕だけの愛の定義を見付けた。それは完璧でも美しくも無い。ただ君が居ないと僕は……、苦しい……、という切実な現実だ。僕の胸のこの痛みは、君が教えてくれた「愛している」という感情の実態なんだと、ようやくわかった」


航は一歩、ミナモに踏み込んだ。


「ミナモ……。僕はまだ君に釣り合うロマンチックな愛の言葉を知らない。でも君を誰にも渡したくない。僕の傍に居て欲しい。これは僕が本ではなく、この現実で君に対して抱いている本物の感情だ」


彼の声は震えていたが、その眼差しにはもう臆病な翳りは無かった。


「僕に、この「失恋」の痛みを「初恋」の喜びに変えるチャンスをくれないか。今度は逃げない。この感情がどんなに非論理的でも、僕は君という現実を受け入れる……」


それは理想を捨てた小説家志望の剥き出しの告白だった。


ミナモは無言で航の顔を見つめていた。

彼女の瞳は航の素顔とその言葉の真剣さを確かめる様に揺れていた。

彼女の眼には薄く涙の膜が張っていた。


航は拒絶される可能性に耐えながらミナモの返事を待った。

数秒の沈黙が永遠の様に引き延ばされた。

やがてミナモは微笑んだ。

その笑顔は屋上で航に告白した時よりもずっと人間的で弱さを含んだ、そして深い喜びに満ちたモノだった。


「航君……」


ミナモはゆっくりと航の手に自分の手を重ねた。


「話が難しすぎるよ……」


ミナモはそう言うと両目から涙が零れ落ちた。


「私、知ってるわ。航君のこの気持ちが「本物」だって事」


ミナモは重ねた手を強く握った。


「私が欲しかったのは理屈じゃなくてさ、その熱……、みたいなモノ。失恋から始まる初恋なんて航君らしいよ。その不完全で切実な愛……、それを私に教えて」


ミナモは顎に指を当てた。


「でも私、航君みたいに賢く無いから、時間かかるかもよ……」


航はそんなミナモに微笑んだ。

彼はもう完璧な小説を書く事だけが彼の人生では無い事を知った。

彼の新しい物語は今、理想の定義を捨て、現実の愛という最も困難で、最も美しいテーマを見付けたのだ。

それは彼の初めての失恋と彼女の揺るがない愛が結実した二人の初恋だった。


「あんまり難しい話はしないでね……。賢しいイケメンとかあんまりいないよ」


ミナモはそう言うと航と手を繋ぐ。


「ごめん……。ゆっくり直して行くよ……」


二人は教室へと歩いて行った。








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