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帝都東京の華族街は、夜の帳が下りると、ガス灯の柔らかな橙色の光と電灯の鋭い白い輝きが石畳を照らし、大正ロマンの華やかさを織りなしていた。馬車の車輪が軋む音や、モダンガールたちの高らかな笑い声が街角に響き、遠くからは西洋音楽の調べが漂ってくる。妖怪や精霊が人々の間にひっそりと溶け込み、帝都の夜は人間と非人間が共存する不思議な世界だった。茉莉は、望月家の古びた屋敷で叔母・志津とその娘・美鈴による虐待に耐えながらも、蓮夜との出会いを通じて希望を見出していた。黒焔の鬼を封じた事件以来、茉莉の月影術は陰陽局で高く評価され、彼女の名は「月影の巫女」として華族社会に広まりつつあった。この変化は、茉莉の心に深い影響を与え、彼女は自分の力を信じ、本当の自分を受け入れる勇気を持ち始めていた。一方、志津と美鈴は、茉莉の台頭に焦りを募らせ、彼女を貶める新たな陰謀を巡らせていた。
茉莉の月影術は、黒焔の鬼との戦いでその真価を発揮し、陰陽局で「精霊との共存の象徴」として注目を集めるようになった。彼女の力は、妖怪を封じるだけでなく、彼らの心に語りかけ、調和を生むものだった。ある日、陰陽局からの依頼で、茉莉は帝都の外れにある古い森「霧隠の杜」へ赴いた。そこには、妖怪の長老「霧隠の翁」が住むとされ、近年、妖怪たちの不穏な動きを鎮めるために交渉が必要だった。霧隠の翁は、樹齢数百年の大木に宿る古い妖怪で、人間との対立を嫌い、森の奥深くに隠れていた。陰陽局の術者たちは、翁の力を恐れ、強硬な封印を主張していたが、蓮夜は「対話が可能なはずだ」と、茉莉にこの任務を託した。「君の力なら、翁の心を開ける」と、蓮夜は静かに微笑んだ。茉莉は、彼の信頼に胸を熱くしながら、森へと向かった。
霧隠の杜に足を踏み入れた茉莉は、月の光が木々の間を縫う幻想的な光景に息を呑んだ。森は、昼間でも薄暗く、霧が立ち込め、木々の葉が囁くような音が響いていた。彼女は月影の符を手に、精霊たちに呼びかけた。すると、霧が渦を巻き、翁の姿が現れた。翁は、巨大な木の精のような姿で、苔むした身体と深い眼差しで茉莉を見つめた。「人間の娘よ、何用だ」と、低い声が森全体に響いた。茉莉は恐れを抑え、丁寧に答えた。「帝都を共に守りたい。妖怪と人間が争うのは、もう終わりにしたいんです」彼女の声には、虐げられた日々で培った優しさと、蓮夜との時間で育まれた確信が込められていた。翁は一瞬黙り、彼女の心を探るように見つめた。「汝の血には、望月家の古い力が宿る。精霊と語らう力…それは、かつて我々を救った力だ」と呟いた。
翁は、茉莉の純粋さに心を動かされ、対話を承諾した。茉莉は、月の妖精の加護を受け、翁と精霊たちの力を借りて、森の妖怪たちの不穏な気を鎮めた。彼女は、月影の符を使って、森全体に光の結界を張り、妖怪たちの心を穏やかにした。翁は、茉莉の力に感嘆し、「汝は、望月家の真の後継者だ。人間と妖怪の橋渡しとなれ」と告げ、協定を結ぶことを約束した。この成功は、茉莉の力をさらに高め、陰陽局での評価を不動のものにした。陰陽局の会議では、彼女の月影術が「人間と妖怪の共存の鍵」として議論され、正式に特別顧問に任命された。華族社会でも、「月影の巫女」として彼女の名は囁かれ、かつて没落した望月家の血統が再び脚光を浴びた。茉莉自身、この変化に戸惑いながらも、初めて自分の力を誇りに思い、虐げられた過去を乗り越える強さを感じていた。
茉莉と蓮夜の関係は、事件を通じてさらに深まっていた。ある晩、二人は帝都の古い神社「月読神社」で「月影の祈り」を捧げる儀式を行った。神社は、帝都の外れにひっそりと佇み、月光が境内の石畳を銀色に染め、静かな水音が響く神秘的な場所だった。参道には古い石灯籠が並び、夜風に揺れる木々の葉が、まるで精霊の囁きのように聞こえた。茉莉は、月の妖精から授かった振袖をまとい、蓮夜は黒い羽織袴で厳かに立っていた。二人は、月光の下で手を合わせ、精霊たちに平和を祈った。茉莉は、月影の符を掲げ、精霊たちを呼び出した。光の精霊が舞い、神社の空気が柔らかな輝きに包まれた。境内には、月光が水面のように揺らめき、まるで天と地が繋がる瞬間だった。蓮夜は、茉莉の力に改めて感嘆し、「君の術は、まるで月そのものだ。穏やかで、すべてを照らす」と呟いた。茉莉は微笑み、「蓮夜様の力も、雷のように強い。でも、私たちは一緒に、調和を生める」と答えた。
儀式の後、二人は神社の石段に腰を下ろし、月を見上げながら語り合った。茉莉は、蓮夜の優しい眼差しに勇気を得て、心の内を明かした。「私…叔母様に、いつも『穢れ』と言われてきました。母が妖怪に心を許した罪で、望月家は没落したって。着物は粗末で、夜通し呪符を作らされて…美鈴様には、母の形見の簪を壊されたこともあります」彼女の声は震え、目に涙が浮かんだ。茉莉は、虐待の傷跡、隠された精霊の血統、そして心の奥に秘めた復讐の念を初めて打ち明けた。「でも、蓮夜様と出会って、初めて思ったんです。私は弱くない。私の力は、誰かを守れるって」蓮夜は、静かに彼女の手を握り、耳を傾けた。彼の眼差しは優しく、深い理解に満ちていた。「君の痛みは、僕にもわかる。僕も、過去に縛られてきた」と、彼は静かに語り始めた。
蓮夜は、妹・葵を失った痛みを明かした。「葵は、僕の術を信じて笑ってた。でも、僕の力が暴走して、彼女を守れなかった。陰陽局の制度は、妖怪を敵と決めつける。でも、君の力を見て、僕の夢が現実になると思った」彼の声は低く、過去の痛みが滲んでいた。「君は、僕の心を癒してくれた。僕の本当の願いは、君と一緒に生きることだ」蓮夜の言葉は、茉莉の心に深く響いた。二人は、互いの傷と希望を共有し、初めて本当の自分を見せ合った。茉莉は涙を拭い、「私も、蓮夜様と一緒にいたい」と答えた。この瞬間、二人の絆はこれまで以上に強固なものとなった。
蓮夜は、茉莉に自作の和歌を刻んだ西洋風のペンダントを贈った。銀の鎖に小さな月型のチャームが揺れ、和歌は「月影に 君と共に見る 未来かな」と刻まれていた。「これを、いつもそばに」と、蓮夜は微笑んだ。茉莉は、胸にそのペンダントを握りしめ、代わりに自分で作った呪符を蓮夜に渡した。「これは、精霊の力が込めてあります。蓮夜様を守ってくれますように」と、彼女は恥ずかしそうに言った。呪符には、月光の模様が描かれ、精霊の優しい気が宿っていた。二人の贈り物は、互いの心を繋ぐ象徴となり、帝都の夜に新たな誓いを刻んだ。
茉莉の活躍は、帝都の華族社会で大きな話題となった。彼女の月影術は、陰陽局の古い術者たちにも認められ、望月家の名が再び脚光を浴びた。陰陽局の会議では、茉莉の力が「人間と妖怪の共存の鍵」として議論され、彼女は正式に特別顧問に任命された。社交界でも、「月影の巫女」として彼女の名は囁かれ、モダンガールたちの会話にも彼女の話題が上るようになった。ある夜、華族のパーティーで、若い貴族が「茉莉様の術は、まるで月光のようだ。帝都の未来を変えるかもしれない」と語り、会場がざわめいた。この変化は、志津と美鈴に深い焦りを生んだ。
志津は、茉莉の台頭が自分の陰謀を暴く危険性を孕んでいると感じ、苛立っていた。「あの娘がそんな力を? 穢れた血統の癖に!」と、彼女は歯ぎしりした。志津は、かつての禁術の研究をさらに進め、茉莉の力を封じる呪詛を準備し始めた。彼女は、屋敷の地下に隠された祭壇で、禁忌の儀式を繰り返し、妖怪の力を借りて茉莉を排除しようと画策した。志津の心には、姉への恨みと、望月家の名誉を独占したいという執念が渦巻いていた。彼女は、若い頃に妖怪の呪いで恋人を失った過去を持ち、その痛みが彼女を禁術へと駆り立てていた。志津は、茉莉の力を封じるため、禁術の巻物を夜通し読み、妖怪の力を制御する新たな呪詛を研究した。しかし、その呪詛は不安定で、彼女自身を危険にさらす兆しを見せていた。
美鈴は、社交界で「月影の巫女」として称賛される茉莉を見て、嫉妬に燃えた。彼女自身は、普通の陰陽術しか扱えず、華やかな見せかけで社交界を渡り歩いてきたが、茉莉の繊細で強力な月影術に比べ、彼女の力は色褪せて見えた。「私が蓮夜様の隣に立つべきなのに! あの娘が、なぜ!」と、彼女は母に泣きついた。美鈴は、茉莉を陥れるため、陰陽術で偽の精霊を呼び出し、力を得ようとした。彼女は、志津の指導のもと、禁術に手を出したが、それが不安定な力を生み、逆に彼女自身を危険にさらすことになった。ある夜、美鈴は屋敷の庭で偽の精霊との契約を試みた。彼女は、志津から教わった呪文を唱え、祭壇に血を捧げたが、精霊の力が暴走し、庭の木々が不気味に揺れ、妖気のような霧が立ち込めた。木々の枝が折れ、地面が震え、美鈴は恐怖に顔を歪めた。「何…これ! どうして!」と叫び、彼女は儀式を中断したが、妖気は収まらず、屋敷に不穏な空気が漂った。この失敗は、彼女の焦りをさらに増幅させ、モダンガールの仮面が剥がれ始めた。社交界での彼女の地位は揺らぎ、華族の若者たちから「美鈴の術は見せかけだけ」と囁かれるようになった。
志津と美鈴は、茉莉の陰陽術が露わになるのを恐れ、密かに妨害を画策した。志津は、陰陽局の古い術者たちに「茉莉は妖怪と結託している」と密告し、彼女の信用を落とそうとした。美鈴は、社交界で茉莉を中傷する噂を流し、「あの娘は危険だわ。妖怪の血が彼女を狂わせる」と吹聴した。あるパーティーで、美鈴は華族の令嬢たちに「茉莉は、妖怪の力を借りて蓮夜様を惑わしているのよ」と囁き、笑顔で毒をまいた。しかし、茉莉の実力は彼らの予想を上回り、陰陽局の支持を得ていた。美鈴の偽の精霊との契約は、逆に彼女自身の術を不安定にし、社交界での立場をさらに危うくした。「あの娘が…私たちを追い抜くなんて!」と、美鈴は歯ぎしりし、嫉妬に満ちた顔で泣き崩れた。志津もまた、茉莉の成長に苛立ち、禁術の研究を急ぐあまり、妖怪の力を制御しきれなくなる予兆を見せていた。
茉莉は、蓮夜との時間を通じて、自分の力を信じるようになった。彼女は、虐待の傷跡を乗り越え、精霊の血統を誇りに思うようになった。ある夜、蓮夜と帝都の橋の上で月を見ながら、彼女は決意を口にした。「私、もっと強くなりたい。蓮夜様と一緒に、誰も傷つかない世界を作りたい」と。蓮夜は微笑み、「君ならできる。僕がそばにいる」と答えた。二人は、月影の下で未来を語り合い、互いの夢を共有した。茉莉は、月の妖精から新たな術「月光の結界」を教わり、広範囲の妖怪の気を鎮める力を身につけた。この術は、陰陽局の任務で重宝され、茉莉の名はさらに広がった。
志津と美鈴の陰謀は、茉莉の力を抑えられないことを示す予兆だった。彼女たちの焦りは、さらなる災いを呼ぶ前触れであり、茉莉と蓮夜の絆は、華族社会の変革への第一歩を踏み出していた。茉莉は、蓮夜と共に、帝都の夜を歩きながら、未来への希望を胸に抱いた。彼女の心には、自由と強さが芽生え、虐げられた過去を乗り越えた新たな自分が輝いていた。帝都の夜空に輝く月は、まるで二人の未来を祝福するように、静かに光を放っていた。




