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月影の巫女と雷の陰陽師  作者: 月乃宮 夜見


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2/6

 帝都東京の華族街は、夜が更けるにつれてガス灯の柔らかな光が石畳を照らし、遠くで馬車の車輪が軋む音や、モダンガールたちの笑い声が響き合い、大正ロマンの華やかさを象徴していた。茉莉にとって、これまでそんな世界は遠い夢に過ぎなかった。望月家の古びた屋敷で、叔母・志津とその娘・美鈴による虐待に耐える日々は、彼女の心を重く閉ざしていた。しかし、天道家の若き当主・蓮夜との出会いは、まるで月光が暗闇を裂くように、茉莉の人生に変化をもたらし始めた。「陰陽婚礼」のお見合いが決まり、婚礼の準備が進む中、茉莉は蓮夜の屋敷に通うようになり、彼の厳格な仮面の下に隠された優しさと傷に触れることで、自身の心もまた開かれていくのを感じていた。



 天道家の屋敷は、華族街の中心に聳える壮麗な建物だった。白亜の洋風建築に、和風の瓦屋根と庭園が調和し、門をくぐると整然とした松の木々が立ち並び、池には錦鯉が悠々と泳いでいた。夜になると、ガス灯が庭を淡く照らし、まるで別世界のような静けさと美しさを醸し出していた。茉莉が初めて屋敷を訪れた日、彼女は粗末な木綿の着物を身にまとい、緊張で足が震えた。望月家の苔むした屋敷とはあまりに異なるこの場所に、自分が相応しいとは思えなかった。門番に名前を告げると、若いメイドが丁寧に迎え入れ、長い廊下を案内してくれた。廊下には古い掛け軸や西洋の絵画が並び、茉莉は自分の古びた着物が場違いに感じられた。


 蓮夜は玄関ホールで待っていた。黒い羽織袴に身を包み、静かな眼差しで茉莉を見つめた。「ようこそ、茉莉。気楽に過ごしてほしい」と、彼の声は穏やかで、どこか温かみがあった。茉莉はぎこちなく頭を下げ、「お招きありがとうございます」と答えたが、内心では不安が渦巻いていた。蓮夜はそんな彼女の緊張を感じ取ったのか、微笑みを浮かべ、「まずはお茶でもどうだい? 庭が見える部屋で話そう」と誘った。客間に通された茉莉は、畳の香りと庭の水音に少し心が落ち着いた。窓の外では、夕暮れの光が池に反射し、ガス灯が点り始めていた。


 蓮夜との時間は、茉莉の日常を確実に変えていった。望月家では、朝から晩まで掃除や呪符の作成に追われ、叔母の冷たい言葉や美鈴の嘲笑に耐える日々だったが、天道家の屋敷では、茉莉は初めて「人」として扱われた。ある日、蓮夜は書斎に茉莉を招き、棚に並ぶ古い巻物や西洋の魔術書を見せながら、静かに質問を投げかけた。「君の家系は、精霊との契約が深いと聞いた。どんな術を使ったことがある?」その問いに、茉莉は最初、口ごもった。自分の力は、叔母に「穢れ」と呼ばれ、隠してきたものだったからだ。しかし、蓮夜の真剣な眼差しに押され、彼女は少しずつ語り始めた。「庭で…月影の下で、精霊と話すことがあります。小さな光の精霊が、囁いてくれるんです。昔の物語や、術の秘訣を…」と。蓮夜は驚いたように目を細め、「それは稀有な力だ。僕の家系は、強力だが攻撃的な陰陽術しか継いでいない。君の力は、穏やかで、調和を生む」と答えた。


 この会話が、茉莉の心に大きな変化をもたらした。叔母に虐げられ、美鈴に嘲笑されてきた彼女は、自分の力を「価値のないもの」と信じ込んでいた。しかし、蓮夜の言葉は、彼女の存在を肯定するものだった。ある夕暮れ、蓮夜は茉莉を庭に連れ出し、池のほとりでこう言った。「望月家の術は、かつて帝都の均衡を保った。今、それを再び呼び起こす時が来ているのかもしれない。君がその鍵だ」この言葉に、茉莉の胸は高鳴った。彼女は初めて、自分の血統が「恥」ではなく、「希望」になり得ると感じたのだ。蓮夜はさらに、彼女に古い陰陽術の書物を貸し、「これを読んでみて。君の力に合う術が見つかるかもしれない」と優しく促した。茉莉は家に持ち帰った巻物を夜通し読み、精霊との対話を深める術に夢中になった。



 蓮夜は、表向きは厳格で冷静な華族の当主だった。二十二歳の若さで天道家を継ぎ、陰陽局で重責を担う彼は、華族社会でその実力と冷徹な態度で知られていた。しかし、茉莉が彼と過ごす時間が増えるにつれ、その仮面の下に隠された深い傷が見えてきた。ある夜、蓮夜の屋敷の書斎で、二人は古い巻物を広げて話し込んでいた。ガス灯の光が揺れる中、蓮夜はふと遠い目をして語り始めた。「僕の術は、強すぎる。制御が難しいんだ。幼い頃、妹を妖怪の呪いで失った。あの時、僕の力が暴走し、彼女を守れなかった」彼の声は低く、どこか震えていた。茉莉は驚き、言葉を失った。蓮夜の妹、葵は、十年前の妖怪との抗争で命を落としたのだ。蓮夜は当時、十二歳で、若くして強力な陰陽術を操っていたが、制御できず、妖怪の呪いを解く代わりに、妹の命を奪う結果となってしまった。


「葵は、僕の術を信じていた。『お兄様なら、きっと妖怪をやっつけられるよ』って笑ってた。でも、僕の力は彼女を傷つけただけだった」蓮夜の目は、過去の痛みを映し、暗く沈んでいた。茉莉は胸が締め付けられる思いだった。彼女自身、両親を妖怪との争いで失い、その痛みを理解できた。「蓮夜様…私も、両親を失いました。妖怪の襲撃で…。でも、精霊たちは、怖いものじゃない。話せば、わかってくれるんです」と、茉莉は勇気を出して言った。蓮夜は驚いたように彼女を見つめ、「君は…そんな過去を背負いながら、なお精霊を信じているのか」と呟いた。この瞬間、茉莉は蓮夜の心に触れた気がした。


 蓮夜は、陰陽局の改革を志す「制度の破壊者」でもあった。彼は、現在の制度が妖怪と人間の対立を煽り、力で押さえつけるだけだと考えていた。「陰陽局は、妖怪を敵と決めつけ、封印や排除を繰り返す。でも、それではまた誰かが傷つく。新しい道が必要だ」と、蓮夜は熱を込めて語った。茉莉はその言葉に共感した。彼女もまた、精霊たちとの対話を通じて、妖怪が単なる敵ではないと感じていた。「蓮夜様、私の力で…人間と妖怪の橋渡しができるなら、試してみたい」と、茉莉は初めて自分の願いを口にした。蓮夜は目を輝かせ、「君の力は、僕が求めるものだ。共に新しい術を作ろう」と答えた。この会話が、二人の絆を深める第一歩となった。



 蓮夜の提案で、二人は「月影術」と呼ばれる新たな術体系の研究を始めた。月影術は、茉莉の精霊との対話の能力と、蓮夜の強力な陰陽術を融合させたもので、妖怪と人間の調和を目的としたものだった。蓮夜の書斎には、望月家の古い巻物や、天道家の攻撃的な術を記した書物、そして西洋の魔術書が並び、茉莉はそれらを読み漁った。特に、望月家の祖先が記した「月下の契約」という巻物に心を奪われた。それは、月光の力を借りて精霊との対話を深め、術を安定させる方法が書かれたものだった。茉莉は夜の庭で、蓮夜と共に月光の下で実践を重ねた。ある夜、茉莉が呪文を唱えると、小さな光の精霊が現れ、蓮夜の周りを舞った。「これは…まるで星のようだ」と、蓮夜は感嘆の声を上げた。茉莉は微笑み、「彼らは、私の友達です。蓮夜様にも、話しかけてくれるといいな」と答えた。精霊たちは、蓮夜の強い陰陽術の気を警戒しながらも、茉莉の純粋さに引かれ、徐々に心を開いた。


 この共同作業を通じて、茉莉は蓮夜の優しい一面に触れた。ある日、蓮夜は茉莉を帝都の夜の街へ連れ出した。ガス灯が連なる大通りを歩き、西洋音楽が流れるカフェに入った。茉莉は初めてコーヒーを飲み、その苦さに驚きながらも、蓮夜の笑顔に心が温まった。「帝都は、変わりつつある。古い伝統と新しい文化が混ざり合って、未来が生まれるんだ」と、蓮夜は語った。茉莉はそれに応え、伝統的な和の呪文や、月影の物語を蓮夜に教えた。「私の母が教えてくれた物語では、月は精霊たちの家なんだそうです。夜になると、彼らが降りてきて、人間を守ってくれる」と。蓮夜は静かに耳を傾け、「君の物語は、僕の心を軽くする」と答えた。二人は帝都の橋の上で、月を見ながら語り合い、互いの孤独を共有した。茉莉の貧しさと、蓮夜の貴族としての孤独。境遇は異なるが、互いの痛みを理解し合うことで、二人の距離は縮まった。



 茉莉の心は、蓮夜との時間を通じて、目に見えて変化していった。かつては叔母の言葉に怯え、力を隠していた彼女だったが、蓮夜の信頼と支えによって、自信を取り戻しつつあった。ある日、蓮夜の屋敷で、茉莉は勇気を振り絞って叔母たちの虐待を明かした。「志津様は…私の母を恥だと言い、私を召使いのようにつかいます。美鈴様は、母の形見の簪を壊して…」と、声を震わせながら語った。蓮夜は静かに耳を傾け、彼女の手を握った。「君は強い。どんな境遇でも、精霊と話す力を失わなかった。それが、君の真の力だ。僕が守るよ」と囁いた。この言葉に、茉莉の目に涙が浮かんだ。初めて、誰かに守られると感じた瞬間だった。


 蓮夜は、茉莉を一時的に陰陽局に招き、縁結び祭の後始末を手伝わせた。陰陽局は、帝都の妖怪と人間の均衡を管理する機関で、茉莉はそこで呪符の整理や、祭で乱れた精霊の気を整える作業を任された。彼女の繊細な陰陽術は、局の陰陽師たちを驚かせた。ある日、茉莉が小さな精霊を呼び出し、乱れた気を静める姿を見た蓮夜は、「君の力は、僕の予想を超えている。陰陽局を変える力になるかもしれない」と感銘を受けた。茉莉は、初めて自分の力が認められたことに、胸が高鳴った。


 一方、美鈴は茉莉の変化に強い嫉妬を募らせていた。社交界でモダンガールとして振る舞う美鈴だったが、蓮夜が茉莉に惹かれていることを知り、苛立ちを隠せなかった。「お前みたいな穢れが、蓮夜様に釣り合うわけないわ! 私の陰陽術の方が優れているのに!」と、陰で毒づいた。美鈴は、母の志津に相談し、茉莉を陥れる計画を立て始めた。志津もまた、茉莉の台頭が望月家の名誉を脅かすと感じ、密かに策を巡らせた。美鈴は、ある夜、茉莉が蓮夜の屋敷から帰る姿を見て、嫉妬に燃えた。「あの娘が、なぜ…!」と、彼女は拳を握りしめた。しかし、茉莉の変化は止まらず、彼女の心には希望が芽生えていた。蓮夜との時間を通じて、彼女は自分の力を信じ、虐げられた過去から解放される第一歩を踏み出していた。



 ある夜、蓮夜は茉莉を帝都の河川沿いの散策に誘った。蒸気船が灯籠を浮かべながら進む川面を眺めながら、二人は静かに歩いた。ガス灯の光が水面に揺れ、遠くで西洋音楽の調べが聞こえる中、蓮夜は茉莉に言った。「君と話していると、妹を失った痛みが少し軽くなる。君の力は、僕の心を癒すんだ」茉莉は驚き、顔を赤らめた。「私も…蓮夜様と話すと、強くなれる気がします。叔母の言葉に負けないでいられる」と答えた。この夜、二人は初めて互いの手を握り、月影の下で心を通わせた。蓮夜は茉莉に、西洋風の小さなペンダントを贈り、「これは僕の気持ちだ。いつもそばにいてほしい」と囁いた。茉莉はそれを受け取り、代わりに自分で作った呪符を蓮夜に渡した。「これ、精霊の力が込めてあります。蓮夜様を守ってくれますように」と。互いの贈り物は、二人の絆を象徴するものだった。

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