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月影の巫女と雷の陰陽師  作者: 月乃宮 夜見


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 帝都東京の華族街は、夜の帳が下りると、ガス灯の柔らかな橙色の炎が石畳の道を優しく照らし、時折通り過ぎる自動車のヘッドライトが電灯の白く鋭い光を加えて、まるで夢幻の舞台のような雰囲気を醸し出していた。大正の時代を彷彿とさせるこの街並みでは、絢爛たる着物に身を包んだ貴族たちが優雅に馬車で往来し、時には西洋風のドレスを纏ったモダンガールたちが高らかな笑い声を上げて歩く姿が、街の活気を象徴していた。しかし、この世界は単なる人間の社会ではなかった。古来から伝わる妖怪や精霊たちが、人間たちと共存し、時には薄暗い路地から覗き、時には堂々と姿を現して街を彩っていた。特に華族の家系は、「陰陽術」と呼ばれる古い魔法を操る者が多く、その力で帝都の秩序を守り、時には妖怪との均衡を保っていた。華族たちの結婚は、家門の繁栄を賭けた重要な制度で、政略や血統の相性を重視する「陰陽婚礼」が行われていた。この制度は、血統の強化だけでなく、人間と妖怪の橋渡しとなる力を生み出すことを目的としており、帝都の安定に欠かせないものだった。陰陽婚礼の儀式は、茶室でのお見合いから始まり、互いの陰陽術の相性を確かめる試練を伴うことが多かった。


 そんな華族街の外れ、木々が鬱蒼と生い茂る一角に、ひっそりと佇む古い屋敷があった。それが、落ちぶれた家系として知られる望月家の邸宅である。かつては精霊と深い契約を交わし、伝説的な陰陽術の使い手として名を馳せていた家系だったが、代々の禁術の使用により力は衰え、没落の道を辿っていた。禁術とは、妖怪の力を強引に取り込むもので、短期的な強大な力を得る代償に、家系の寿命を縮め、血統を穢すと言われていた。今では下級華族の末席に甘んじ、屋敷の外壁は苔に覆われ、庭の石灯籠は傾き、手入れの行き届かない様子がその衰退を如実に物語っていた。屋敷の中は、埃っぽく薄暗く、時折風が吹き抜けると、古い障子が軋む音が響き、過去の栄光を偲ばせる古い掛け軸が壁に寂しく掛かっていた。屋敷の奥には、望月家の家宝である古い巻物が収められた部屋があり、茉莉は時折そこを掃除しながら、祖先の物語に思いを馳せていた。


 この屋敷で、主人公の少女・茉莉は、日々を耐え忍ぶようにして過ごしていた。茉莉は、望月家の正当な娘として生まれたが、幼い頃に両親を妖怪との争いの中で失い、叔母の志津に引き取られたのだった。茉莉の記憶に残る幼少期は、両親の温かな笑顔と、庭で遊ぶ精霊たちの姿だった。父は優れた陰陽師で、妖怪との調和を信じ、母は優しい女性で、精霊たちと語らうのを好んだ。あの夜の妖怪の襲撃は、禁術の代償として起きたものだった。茉莉は隠れ家に隠され、両親の叫び声を聞きながら震え、翌朝に志津が迎えに来た。志津は姉の死を「自業自得」と断じ、茉莉を引き取ったが、それは家系の血統を絶やさないための義務感からだった。茉莉は引き取られてから、叔母の冷たい視線にさらされ、徐々に自分の力を隠すことを学んだ。


 志津は茉莉の母の妹で、五十歳を過ぎた厳格で冷徹な女性だった。彼女自身も陰陽術を操るが、力は中程度で、過去に政略結婚で望月家に入ったものの、夫を早くに亡くし、娘の美鈴を一人で育ててきた。志津の心には、姉の追放された過去が深い傷となって残り、それが茉莉への苛立ちを増幅させていた。若い頃、志津は妖怪の呪いで恋人を失った経験があり、それが妖怪への憎しみを生み、姉の行動を許せなかったのだ。志津は茉莉に、「お前は家の恥だ。妖怪の血を引く穢れとして、せめて贖罪の労を捧げよ」と容赦ない言葉を浴びせかけた。時には、夜中に茉莉を起こし、屋敷の歴史を語りながら、母の過ちを繰り返し責めた。


 茉莉の日常は、過酷を極めるものだった。朝の薄明かりが差し込む頃から、屋敷の掃除を命じられ、埃まみれの畳を雑巾で拭き、台所の煤けた鍋を磨き、洗濯物をかごいっぱいに運ぶ。着物は粗末な木綿の古着しか与えられず、袖口は擦り切れ、冬の寒い夜には薄い布団一枚で震えながら眠るしかなかった。志津は、茉莉が少しでも手を抜くと、鋭い視線で睨みつけ、時には竹の鞭で背中を叩いた。「お前の母の過ちが、望月家をここまで貶めた。お前もその血を引くのだから、せめて役に立て!」と、志津の声はいつも冷たく響いた。夜通し呪符の作成を強要される日も多く、茉莉の細い指は墨で黒く染まり、疲労で震えることが常だった。呪符は陰陽術の基本だが、茉莉の作るものは叔母の目には不十分で、しばしば破り捨てられ、再作成を命じられた。茉莉はそんな中でも、呪符に自分の精霊の力を密かに込め、強度を高めていたが、それを表に出すことはなかった。茉莉の心の中では、こうした労働が、自分の力を試す機会だと考え、耐えていた。


 志津の娘・美鈴は、茉莉よりも二歳年上で、十八歳の華やかな少女だった。彼女は帝都の社交界でモダンガールを気取り、西洋風のドレスを着てダンスパーティーに参加し、華族の若者たちと戯れるのを楽しみにしていた。美鈴の日常は、母の溺愛のもとで贅沢なもので、朝は遅く起きてメイドに支度をさせ、午後はお茶会やショッピングに興じ、夜はパーティーに出かけた。美鈴は最新のファッションに敏感で、髪をボブカットにし、リップを赤く塗り、帝都のトレンドをリードしようとしていた。しかし、美鈴は茉莉の潜在的な陰陽術の才能に深い嫉妬を抱いており、ことあるごとにいじめを繰り返した。「お前のような薄汚い血統は、華族の恥だわ。せめて家事くらいまともにしなさい!」と、美鈴は茉莉の着物を故意に引き裂き、冷たい床で寝かせるなどの残酷な行為を平気で犯した。


 ある夕暮れ、美鈴は社交界から帰宅すると、興奮した様子で茉莉を呼びつけた。「今日のパーティーで、天道家の蓮夜様に会ったわ! 彼の陰陽術は本当に素晴らしいの。お前みたいな穢れがいると、家の評判が落ちるわよ!」と、茉莉の髪を引っ張りながら言った。美鈴の陰陽術は表面的なもので、華やかな見せかけに過ぎず、パーティーでは簡単な幻術で周囲を魅了する程度だったが、彼女はそれを自慢し、茉莉を「才能のない残骸」と貶めた。別の日、美鈴は茉莉が大切にしまっていた母の形見の簪を見つけて嘲笑い、「こんな古臭い陰陽師の残骸が、何の役に立つのかしら? 妖怪の血を引くお前にぴったりね!」と言いながら、それを地面に叩きつけて壊した。簪の破片が散らばるのを見て、茉莉は胸が張り裂けそうになったが、涙を堪えて拾い集め、密かに修復を試みた。美鈴の嫉妬は、母の志津から受け継いだもので、望月家の血統を独占したいという歪んだ欲望から来ていた。美鈴は自分の陰陽術が茉莉に劣っていることを薄々感じており、それがさらにいじめを激しくさせた。


 茉莉はそんな日々に耐え、夜の庭で一人、月影の下で息を潜めていた。茉莉自身は、精霊に魅入られやすい体質を持っており、月影の下で自然に精霊と対話する異能があった。これは望月家の古い血統から来るもので、幼い頃から小さな精霊たちが彼女の周りに集まってきた。精霊たちは花の精や風の精で、茉莉の孤独を癒す存在だった。夜の庭で、月光が木々の葉を銀色に染める場所に座り、密かに小さな精霊を呼び出す術を磨いていた。精霊たちは茉莉の優しい心に寄り添い、時には小さな光の玉となって彼女を慰め、時には囁き声で古い物語を語った。「汝は強き血を引く者。時が来れば、花開く」と、精霊の言葉が茉莉の心を支えた。茉莉は精霊たちに、自分の苦しみを語り、術を教わった。ある夜、精霊が「月の妖精が汝を導く。運命の出会いが待っている」と予言めいた言葉を残した。茉莉はそれを信じ、希望を胸に抱いた。


 ある夜、帝都全体が華やかに沸く「縁結び祭」が近づいた。この祭りは、大正政府が推進する伝統と近代の融合を象徴する大規模な儀式で、すべての適齢期の華族の娘が参加を義務付けられる陰陽舞踏会だった。会場は帝都の中央広場で、ガス灯と電灯が煌々と輝き、妖怪たちも仮装して参加する。娘たちは美しい振袖を着て舞い、陰陽術の力で縁を結ぶパートナーを見つけると言われていた。祭りの準備として、街中では花飾りが施され、音楽隊が練習を重ね、帝都の空気は期待に満ちていた。華族の娘たちは、数日前から振袖の準備をし、陰陽術の呪文を復習していた。茉莉も、心の奥底で参加を望んでいたが、志津に阻まれた。「お前のような穢れが、そんな華やかな場に行くなど、笑止千万だ! 美鈴だけが行けば十分だ」と、志津は冷たく言い放ち、茉莉を屋敷の奥部屋に閉じ込めた。美鈴は喜び、華やかなドレスを着て出かけていった。美鈴はパーティーで蓮夜に近づこうと計画を立てていた。


 しかし、その夜、満月の光が庭を照らす中、月の妖精が茉莉の前に現れた。妖精は銀色の翼を広げ、柔らかな光を放ちながら、茉莉に語りかけた。「汝の心の純粋さが、私を呼んだ。虐げられた娘よ、運命を変える時が来た。受け取れ、この魔法の振袖と靴を」妖精の手から現れた振袖は、月光のように輝く絹地で、精霊の力が込められ、着る者の陰陽術を一時的に高めるものだった。靴は軽やかで、履くと足取りが軽くなり、妖怪の目を欺く魔法がかかっていた。妖精はさらに、「刻限は午前零時。急げ」と告げ、消えた。茉莉は震える手でそれを受け取り、着替えて屋敷を抜け出し、祭に向かった。道中、ガス灯の街並みを歩きながら、茉莉は自由の味を初めて感じた。


 会場に着いた茉莉は、その華やかさに圧倒された。広場は色とりどりの花で飾られ、弦楽の調べが優雅に流れ、妖怪たちが影から踊る姿が見えた。華族の若者たちが集まり、笑い声が響く中、茉莉は振袖の美しさに自信を持ち、舞踏会に参加した。ダンスの輪の中で、彼女は上級華族天道家の若き当主・蓮夜と出会った。蓮夜は黒い羽織袴に身を包み、静かな眼差しで周囲を見渡していた。二人は自然と目が合い、蓮夜が手を差し伸べた。「美しい振袖だね。一緒に踊らないか?」茉莉は頷き、ダンスを始めた。ワルツのステップを踏む中、二人は会話を交わした。「この祭りの賑わいは、帝都の未来を象徴しているね。君はどの家系の娘だい?」蓮夜の声は穏やかで、茉莉は恥ずかしげに答え、「望月家の茉莉です。あなたは?」 「天道家の蓮夜だ。君の陰陽術の気配が、優しいね。精霊の力が感じられる」二人は陰陽術の話で盛り上がり、蓮夜は茉莉の繊細な力に興味を示した。ダンスは続き、蓮夜の腕の中で、茉莉は久しぶりの自由を感じ、笑顔を浮かべた。蓮夜もまた、茉莉の純粋さに惹かれ、妹の喪失以来閉ざしていた心が少し開いた。


 しかし、刻限が来て、魔法の力が弱まり、茉莉は慌てて会場を去った。その時、呪符入りの簪を落としてしまった。簪は母の形見を修復したもので、精霊の力が込められていた。蓮夜は簪を拾い、その中に込められた神秘的な精霊の力に心を奪われ、「この持ち主を探さねば。彼女の力が、僕の家に必要だ」と誓った。蓮夜は簪を握りしめ、夜の帝都を歩きながら、茉莉の笑顔を思い浮かべた。


 翌日、蓮夜は簪を手がかりに、帝都の陰陽師たちに相談し、簪の力から望月家を突き止めた。屋敷を訪れ、門前で掃除をする茉莉を見つけ、驚いた。「君だったのか。簪の持ち主は」茉莉は顔を赤らめ、蓮夜の優しい言葉に、虐げられた心に小さな希望の光が灯った。「ありがとうございます。返していただいて」蓮夜は微笑み、「また会えて嬉しいよ。君の名前を教えてくれ」この出会いが、茉莉の日常に変化の兆しをもたらした。志津と美鈴は蓮夜の訪問に驚き、美鈴は嫉妬を隠せなかった。


 数日後、華族社会の伝統である「陰陽婚礼」のお見合いが、突然茉莉に決まった。相手は天道家の蓮夜で、天道家は強力な陰陽術を継ぐ名門だった。望月家は血統の強化を狙った政略結婚で、志津は家系の復興を喜んだが、美鈴は嫉妬に燃えた。「自分の方がふさわしいわ! 私の陰陽術の方が優れているのに!」と美鈴が名乗り出たが、蓮夜は冷たく「君の血筋ではない。精霊の血を引くのは茉莉だ」と一蹴した。美鈴は悔しさに歯ぎしりし、母に泣きついた。志津は美鈴を慰めつつ、茉莉に「この機会を無駄にするな」と警告した。


 お見合いの日、初対面の茶室で、茉莉は緊張しながら座った。畳の香りが漂い、庭の池の水音が静かに響く中、蓮夜は黒い羽織袴に身を包み、静かな眼差しで彼女を見つめた。「君の父方の家系は古い精霊の血を引くそうだ。僕の家に必要なのは、そんな力だ」――その言葉は冷徹に聞こえたが、蓮夜の目には、祭での出会いの温かな記憶が宿っており、茉莉もまた、その視線に運命を感じ始めていた。「はい、私の力がお役に立てるなら」と茉莉は答え、二人はお茶を啜りながら、陰陽術の未来について語り合った。蓮夜の言葉は、次第に柔らかくなり、「君の目には、優しい光がある。僕の家は強い力を持つが、制御が難しい。君のような穏やかな血統が、バランスを取ってくれるはずだ」と。茉莉の心に小さな波紋が広がり、この出会いが彼女の人生を変える始まりとなった。茶室の外では、帝都の風が優しく吹き、未来の予感を運んでいた。

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