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混沌に浮かぶ泡  作者: 藤原時照


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6/50

それは下り坂のように

 私は小説のネタを探している。

 昨日の話の成り行きからテンプレ小説は書けない。

 書けるのはオリジナルだけ。

 自分にアドバンテージがある分野は?

 アクション?

 科学技術?

 それとも……。

 私は唐突に一冊の本を思い出した。

 ユダの福音書。

 私はユダの福音書に関する書籍を二冊持っている。確か、二十代の頃に購入したものだ。期待したものとは違っていたので、さわりだけ読んでそのまま放置していた。

 私の蔵書は多く、本棚にはぎっしり本が詰まっている。文庫本を入れれば、たぶん7千冊を超える。

 それだけの本があっても本棚は少ない。置くスペースがないから。そういうわけで、一般的なハードカバーなら前後に置き、上にできる隙間にも横向きに押し込んである。

 以前、ユダの福音書は奥側に置かれていた。

 見えるところにないから、持っていること自体忘れていた。

 しかし、いまは手前に見えている。

 昨年の引越しの結果だ。

 これらの本、私はなぜ読むのをやめたのか。その理由は、米国人特有の文章の書き方にある。彼らはやたらと由来や経緯を語りたがる。これらの本も、発掘の経緯やキリスト教的背景などが大部分を占める。肝心な福音書の中身はごくわずか。福音書の中身に興味がある者の期待は裏切られる。

 今回、私はその歴史的背景をスキップした。その結果、読む量は数十頁になってしまったが、なかなか面白かったと思う。少なくとも、グノーシスを調べようと思うほどには。ちなみに、ユダの福音書自体は、彼の自己顕示欲の強さゆえに、あまり信頼できないものだと思っている。

 こうして、私はグノーシスに再会した。そして、下り坂を転げ落ちるように、グノーシスの世界にのめりこんでいった。

――ああ、私は無知だった。

 キリスト教正典とされる、マタイ・マルコ・パウロ・ヨハネの福音書は、二世紀の権力争いの末に正典とされたもので、実際の所、誰が書いたものかわからない。

 そこには正典を選出した人物に都合の良いことが書いてあっただろう。だが、誰が書いたものかも定かではないのなら、多くの人は疑わしいと考えるはず。そうならないように、使徒の名前をあてて権威づけに利用した。こうして正典がでっちあげられたのだろう。


 正典以外の文献は、外典または偽典とされている。そして、外典や偽典の多くは驚くべきことに一神教ではない。それらの多くはグノーシスなのだ。そこでは旧約聖書の神が低級神で諸悪の根源とされている。現代のキリスト教とは全く異なる考え方だ。

 原始キリスト教。

 現代では、そんな呼称が使われている。

 そこがわからない。

 イエスの時代のキリスト教はだめなのか?

 本当のイエスの教えは時代にそぐわないということか?

 日本人の視点から言えば、キリスト教信者の多くは、イエスの教えと正反対のことをする背教者だ。武器を持ったり、マウントをとって他人に何かを強制したり。

 それに――

 正典では、マグダラのマリアが売春婦とされている。だが、外典ではマリアはイエスの妻である。文面からはほかの弟子よりも重用されていることが窺える(※1)。

 復活したイエスが最初に現れたのはマリアの前。それは正典も外典も変わらない。

 妻であり、弟子としても重用される人物。

 その前に一番に現れるのは頷ける。

 マリアについては、外典の方が正しいように思える。

――そういえば、この部分はかなり苦しい説明をしていたような……

 私はかつて通っていたカトリックスクールでの授業を思い出す。

 正典を決めたのは男尊女卑的な考えによる?

 そんな風に思えて来る。

――ああ、面白い。

 私はグノーシスに嵌り、グノーシスに関する入門書を何冊か読み漁ったあと、『トマスによる福音書』、『ナグ・ハマディ写本』へと進んだ。だが、まだ足りない。

 私は原本を通しで読みたいと思い始めていた。こうした文献の多くは、テーマごとに複数文献の該当箇所を並べるスタイルのものが多く、全体像をつかみにくい。おまけに、そのテーマにしても著者の推しに依存していて、往々にして抜けがある。

 私は欲求不満気味ではあったが、好みに合わないスタイルで書かれた文献さえも読み漁った。その結果、私は、デーミウールゴスあるいはヤルダバオートと呼ばれる神が、実は複数人いるのではないかと考えるようになった。

 デーミウールゴスの意味は造物主。サクラスやサマエルという名も使われているが、それらは馬鹿者あるいは盲目の神という蔑称。両方ともヤルダバオートを呼ぶのに使われているが、特に矛盾はない。

 だが、まだ様々な名前が使われている。

 

 神はひとり。

 その概念のもと、すべての情報をひとりの神に無理やり当てはめているからおかしなことになっている?

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神は、宗教の性格がかなり違うのに、みな同じ神を信仰していることになっている。キリスト教で言えば、ユダヤ教の正典は旧約聖書という扱いで、正典に含まれる。逆に新約聖書はユダヤ教の正典には含まれない。後発の一神教が、古い神を取り込んだわけだ。

 しかし、グノーシス文献を調べると、キリスト教は一神教ではない。

 外典が正典に組み込まれれば、ユダヤ教とイスラム教は接点を失う。

 外典にはヤルダバオートの子が明記されておりそこには、ヤウェ(キリスト教で言うヤハウェ)とエローイムの名があった。

 また、ヤルダバオートの姿として、ライオン、蛇(一部の版では蛇でなく龍)といった記述もある。人は神に似せて創られたという概念から、神は人の顔を持つと考えがちだが、グノーシス文献によるとそうではない(※2)。

 いろいろな概念が時代を経るに従って改変されて行ったように思われる。そこを掘り下げるとさまざまな疑問が湧く。私にとって、そこが面白い。


※1.ピリポによる福音書 63・32-64・5

※2.ヨハネのアポクリフォン§27~28、§67~69


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