最後の時
『蛇の腹から一人の悪霊が出て来るだろう。彼は荒野に隠れていたのである。彼は多くの奇蹟を行うだろう。そして、多くのものが彼を忌み嫌うだろう。彼の口からは女のようなかたちをした風が出て来るだろう。その名前はアバルフェーと呼ばれる。その名前は世界の東から西まで支配するだろう。それからピュシスの最後の時が来るだろう。そして、星たちは空からいなくなるだろう。迷妄の口が開き、邪悪な闇は無為となって、沈黙するだろう。最後の日には、ピュシスのもろもろもかたちが、風とすべての悪霊たちもろともに滅ぼされるだろう。彼らは、太初にそうであったように、暗黒の塊と化すだろう。そして、悪霊たちによって重荷を負わされていた甘い水は涸れるだろう。なぜなら、霊の力が通り過ぎたところ、そこには甘い水があるからである。ピュシスのその外の業は現れないだろう。それらは無限の暗黒の水と混じり合うだろう。そして、彼女のすべてのかたちが中間の場所からなくなるだろう。』
シェームの釈義 §77
私たちは、歩くことなく森のレイヤーにたどり着いた。
いまの私たちには意識するだけでレイヤーの移動ができる。
伏せられていた世界の秘密への扉が開いているから。
私たち家族は本来の姿にもどり――
由美と美也子がねじ曲がった木々に触れる。
木々は命を取り戻し、新緑の葉を生やす。
彼女たちは微笑みながら熊神の領域を削っていく。
私は命を取り戻した木に触れ、この前と同じ刀を手に入れる。
さらに一歩踏み出すと、景色は荒れ地へと変じた。
黒い沼の中から敵が続々と姿を現している。
そこにいるのは、いつかのような半端な化け物たちではない。
蛇の下半身を持つ女。
筋骨隆々とした鬼。
人の頭を持つ大猫。
そして、多数の小鬼たち。
いくつかの魔物には見覚えのある顔が付いている。
サラリーマン、少年、太った男など、知らない顔も多い。
どうやらヤウェの拠点はあの教会だけではなかったようだ。
「吉川さん……」
武藤は蛇女を見ている。
蛇女の腹は何かを飲み込んだように膨れている。
「もう手遅れだ。あきらめい」
守屋が武藤に話しかける。
――そうか。手遅れか。
私は彼らを救う方法を探していたが、守屋の言葉で踏ん切りがついた。
生かしておく必要がないなら簡単だ。
集中する。
時の流れが緩やかになる。
敵の動きは、いまやスローモーション。
私はそのゆったりとした時の中を走り抜ける。
敵を斬ると、その身体は砂のように崩れ、風に乗って消え去る。
小さな光の粒が解放され、はじけて消える。
私はそれを繰り返す。
光の粒が解放されるたびに黒い沼は小さくなっていく。
グノーシス文献には記述がある。
ヤルダバオートのもとに囚われた光を取り戻すのが人々の使命だと。
その囚われた光は熊神ヤウェに引き継がれていたようだ。
そして、熊神ヤウェはより多くの光を求め、神々の子孫の国――日の本にやってきた。
要するに、これは光の取り合いなのだ。
いま、私はヤウェとその眷属たち前に立っている。
戦いは単純だ。
一定の力量差があるなら、勝敗は戦う前から決まっている。
漫画やアニメとは違う。
そこにドラマが入り込む余地などはない。
相手は化け物になりたて。
完全に目覚めていないのか、明確な戦意は感じられない。
それならただの動く人形だ。
私が負けるわけがない。
『あちら』に接続した状態の私は、かつての自分と融合している。
海軍に所属していた時の『私』は、日本の各種武術を身に着けている。
侍であった『私』は、剣の達人の域に近づいていた。
そして、現代の私は、空手をはじめとした素手での格闘を修めている。
三人分の修業の成果が一人の身体で融合する。
そこに『あちら』からのバックアップが加わる。
すべてのレイヤーに『私』となった私が拡がっていく。
見る人が見れば、いまの私の姿は千手観音のように見えるかもしれない。
いまの私が生まれたばかりの魔物などに負けるはずがない。
ゆっくりとした時間の流れの中、魔物たちが近づいてくる。
憶えたことのない祝詞が口をつく。
『高天原に神留坐す皇親神漏岐神漏美の命を以て、八百万の神等を神集に集賜ひ神議に議賜て我皇孫尊をば豊葦原の水穂の国を安国と平けく所知食と事依し奉き。如此依し奉し国中に荒振神達を神問しに問賜ひ神掃に掃賜ひて語問し磐根樹の立草の垣葉をも語止て天磐座放ち、天の八重雲を伊豆の千別に千別て天降依し奉き――』
魔物が間合いに入れば刀を振るう。
首が飛ぶ。
飛ぶ。
飛ぶ。
飛ぶ。
そして――
蛇女の腹を裂く。
そこには蛇女の腹から転がり落ちた卵だけが残った。
それはドッヂボールサイズで闇を纏っている。
私は問答無用で刀を突きたてた。
大地が揺れた。
そして、大地が割れる。
黒い水は割れた大地に飲み込まれ、消えた。
黒い沼があった場所には、いま、熊神が立っている。
熊神は私を指差し、何かを言おうと口を開いた。
だが、私は彼の言葉を待たず、間合いをつめ、首を刎ねた。
『――如此可可呑ては気吹戸に坐す気吹主と云神、根国底国に気吹放てむ。如此気吹放ては根国底国に坐す速佐須良比咩と云神、持佐須良比失てむ。如此失ては自以後始て罪と云罪咎と云咎は不在物をと祓賜ひ清賜と申す事の由を八百万神等諸共に左男鹿の八の耳を振立て所聞食と申す』
その斬撃は熊神が同時に存在するレイヤーの厚み。
無傷の熊神はもう存在しない。




