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混沌に浮かぶ泡  作者: 藤原時照


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45/50

平穏

「ここの水道や電気ってどうなってるの?」

 京子はシャワーを終え、身体にバスタオルを巻いた姿で髪を乾かしていた。

「水道は自分で工事した。こっそりの。電気はな、『あちら』側に少し行ったあたりにソーラーパネルを設置してある。そこで発電した電気をハイブリッドカー用のバッテリー6個に蓄電して使っとる」

「守屋さんて理系の人?」

「おお」

「じゃあ、ネット回線は?契約とか要るでしょ?」

「それは内緒だ」

 実のところ、守屋はプロバイダの管理部門に忍び込み、二か月かけて工事や回線の開設法を学んでいた。『あちら』方向に少しだけずれたところに居れば、この地の者には見えないのだから、盗みもスパイも簡単なことなのだ。そのやり方で、守屋は回線契約を勝手に作成しただけでなく、役所に忍び込んで契約に必要となる戸籍まで作っていた。

 守屋の国では『あちら』方向にずれたところにも侵入対策がされている。しかし、この地には『あちら』方向を知覚できる者がいない。つまり、『あちら』方向を知覚できる者にとって、施錠など意味がない。厳重に管理された金庫も、開けっ放しと何ら変わりはない。

「髪乾いたか?乾いたら家まで送るぞ」

「もう少し」

 京子は髪を乾かしながら守屋の方を見た。守屋はスーツに着替えようとしている。

「スーツなんか着てどうするの?」

「ちょっと事務所に行って郵便を見て来る」

「事務所って?」

「この地で生活するには住所がないと都合が悪い。だから安いシェアオフィスを借りとるんだ。郵便はそこに配達されるようになっとる」

「ふーん、いろいろ考えてるのね」

 守屋はそのシェアオフィスの住所を使い、個人事業主として銀行口座を開設している。ネットで証券取引も行っている。元手はガラの悪い連中から巻き上げた金だ。事務所に忍び込むのは簡単だし、少しだけ『あちら』にずれていれば、金庫の中に侵入することもできる。

 しかし、金を動かせば面倒なことも生じる。

 税務署に調査されるリスクが生じるのだ。

 だから、疑われないよう、証券取引での儲けはきちんと申告する。ほんの少しの元手から徐々に投資額を増やしていったように装って。

 実のところ、守屋は橋の下に住む必要などない。アパートぐらい借りられる。実際、一度はアパート住まいを試したことがある。だが、近所の音が気になって早々に解約した。これなら橋の下の方がいい。守屋はそう考え、橋の下の住居を拡張し、充実させることを選んだのだ。

 東京で生活するための面倒ごとは、普通なら煩わしいと思う作業であろうが、守屋はそれを楽しんでいた。そうすることで、自分は孤独ではなく、社会に所属していると実感できるから。

 

 京子を彼女のマンションに送り届け、守屋は駅に向かう。

 だが、しばらく歩いた後、守屋はつけられていることに気づいた。

 京子だ。

 守屋は振り向くと、黙って手招きをした。

「ばれちゃった」

「別に面白いところには行かんぞ」

「じゃあ、デートしてください」

「あんた、会社のモンに見られたらどうする」

「大丈夫」

 守屋はため息をつき、京子の同行を許した。


 守屋が用事を済ますと、京子は食事に行こうと提案した。

「職場の近くにおいしい和食屋さんがあるの。どう?」

「おう。いいぞ」

 このとき、京子の会社の誰かがふたりを目撃していた。

 それは社内で噂になる。

 そして、一部の社員の妬みを煽ることになる。

 その妬みは蓄積され――


「守屋さーん」

 外で女の声が聞こえる。

 京子だ。

 あれ以来、京子は時々ここに来る。

 守屋は自分の妻子を大事に思うので、京子との関係を進展させることにためらいがある。しかし、拒絶することにも抵抗があるし、どう対応すれば良いか悩んでいる。

「守屋さーん」

 また京子の声だ。

「おう。今行く」

 守屋は少しだけ『こちら』方向にずれた。京子からは、彼が壁から生えているように見えている。

「ケーキ食べない?」

 京子は駅前のモールにある有名パティスリーの箱を見せた。

「わかった。ちょっと待て」

 守屋はキャンプ用の折りたたみ椅子とテーブルを取り出し、地面に置いた。

「それセットしといてくれるか」

「はい」

 京子に場所のセッティングを任せ、戸棚から使い捨ての皿やコップを出す。そして、冷蔵庫から2リットルサイズのお茶のペットボトルを取り出す。

 守屋はコップにお茶を注ぐ。その間に、京子は皿にケーキを乗せている。

 橋の下でのティータイム。普通なら人目を気にする。だが、守屋が何らかの術で人目につかないようにしているのを知っているので、京子は何も心配していない。

「守屋さん、どっちにする?」

 皿には、苺のレイヤーが二層入ったショートケーキと幾分変わったデザインのモンブランが乗っていた。

「じゃあ、モンブランで」

「はい」

「ところで、今日は何の頼みごとかな?」

 今日の土産は高そうに見える。守屋は下心を疑った。

「ちょっと職場の同僚を見てほしいんだ」

「憑き物か?」

「そう」

 守屋と頻繁に会うことで、京子は『あちら』の気配に敏感になりつつある。彼がそれを気にしていることは知っている。ここは『あちら』方向に薄っぺらな者たちの社会。余計な感覚を持っていては社会不適合者になりかねない。関心を持つべきではない。そう思っているらしい。しかし、京子には吉川の蛇が成長しているのが気になって仕方がない。

 守屋はと言えば――

 京子の感覚がこれ以上鋭敏にならないよう考えている。あの部屋は少しだけ『あちら』にずれているのだから、これ以上部屋に入れるのは危険だと思っている。だが、そう思ってはいても、誘惑に負けて入れてしまうこともある。故郷から離れて人恋しくもあり、守屋は京子の好意に甘えてしまっているのだ。その甘えは深刻な結果につながるかもしれない。守屋は危惧していた。

 今日のところは堪えることができた。

 だが、これが精いっぱいだ。

 その気持ちのせいか、口調は意図せずきつくなる。

「親切の押し売りはするなよ。憑き物が憑くのには必ず理由がある。余計なことをすると、その人もあんたも不幸になるぞ」

 実のところ、憑き物が人を狂わすことは稀なのだ。多くの場合、狂った者、病んだものが先にいて、その陰の気が憑き物を引き寄せている。たとえるなら、憑き物は蜜を吸いに来た虫。だから、憑き物を祓ったところで解決にならない。次が来るだけなのだ。

「最近、野良猫の去勢だの避妊だので死人が出よっただろ」

「うーん、ネットで話題になってたかな」

「人の悪意とか動物の怨念とかがウヨウヨしとればよ、そこにちょびっと方向性を付けてやるだけで呪詛が完成する」

「方向性ってどうやって付けるんですか?」

「それは知らん方がええ。いまのあんただと厄介なことになりかねん」

「そう……。そんな簡単にできることなんだ」

「おう、忘れろ」


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