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混沌に浮かぶ泡  作者: 藤原時照


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虫(2)

「じゃあ、行くぞ。」

 守屋は作務衣ではなく、ジャージの上下を着ていた。

「どこへ?」

「あんたんちだ。虫を退治せんでええんか」

 京子は自分の部屋に虫がいることなどすっかり忘れていた。

 守屋に手を引かれ、気づくと京子は橋の下にいた。

 今度は京子にも少しだけ移動の過程が感じられた。『あちら』方向にずれたところにある守屋の部屋で長い時間を過ごしたことにより、『あちら』方向の厚みが変わったのかもしれない。京子はそのことを守屋には言わなかった。

 ふたりは歩いてマンションに向かう。

 ドアの前まで来て、京子は部屋の中の惨状を思い出した。

「ちょっと待って。片付けるから」

「待てん。待っとる間にまた虫に食われるぞ」

 そう言って守屋は先に部屋に入ろうとした。

 ドアを開けると――

 そこには口が開いたままの区指定ゴミ袋があった。コンビニ弁当の容器がいくつか入れられている。容器はすすぐことさえしておらず、付着したソースや油が異臭を放っている。小蝿も飛んでいた。

 守屋は構わずずかずかと中に入っていく。

 入ってすぐの左手には、ドアが開いたままの小部屋があった。そこには洗濯機があり、その前には洗濯物の小山ができている。

 京子は自分が耳まで真っ赤になっていることに気づいた。

 居間に入ると、床には雑誌や男にはわからぬものが散らかっていた。テーブルの上には、化粧器具や健康器具のようなものが乱雑に置かれている。ソファにはパジャマが脱ぎ捨てられていた。

 虫は見当たらない。

 次に、守屋は寝室のドアを開けた。京子は慌てて床にあったある種の漫画をベッドの下に蹴り込んだ。守屋はそれを目で追う。

「おった」

 虫はベッドの下にいたらしい。京子にもその虫が影のように見えた。羽音も聞こえる。虫が知覚できるようになったのは、この世界から少しずれたところにある守屋の部屋に入った影響だろうか。

 虫の影はベッドの下から飛び出し、いまは壁際に浮かんでいる。

 いつの間にか守屋は短刀を手にしていた。やくざ映画で見るような白鞘の短刀だ。

 守屋は大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。

 虫の写真を撮った時のように、守屋の手と短刀が透き通っていく。

 次の瞬間、京子は宙に浮かんでいた虫の影が二つに分かれるのを見た。

「終わった。ぼろきれと中性洗剤もらえるか?後始末をせにゃならん」

 京子は自分がやると言いかけて、できないことに気づいた。虫の死骸は京子の手が届く空間座標にはない。それに気づくと、京子は自分と守屋の住む世界が違うことを実感した。しかし、今日、自分はその世界に一歩踏み出した。それは、守屋に近づけたという喜びをもたらしたが、同時に、常に怪異にさらされていなければならないという恐怖を伴うものでもあった。


 次の日、一歩部屋を出ると、世界は京子の知るものではなくなっていた。あちこちにうっすらと影が見えるのだ。影の形や動き方から、虫、蛇、小型の動物だと判別できる。魍魎たちだ。

 京子はあわてて影から目を背けた。

 昨夜、京子は守屋から影を目で追うなと言われていた。気がつかない振りをしろと。さもないと、襲われる可能性があるそうだ。

 電車に乗ると、影を目で追わないようにするのが難しくなった。

 ぎゅう詰めの車内には、あちこちに影が見える。

 時折、顔をかすめる影すらある。

 そして、ひとりふたり影に纏わりつかれた人がいる。

 守屋は、この地の人は薄っぺらくて虫には触れないと言っていた。

 だが、ここにはそうでない実例がある。

――あれはどうして?

 蛇系とか動物系なら『こちら』側の人にも触れる?

 それとも居眠りして厚みが出ているだけ?

――わからない。

 問題はほかにもある。

 よく見ると何人か、影そのもののような人もいるのだ。

――生きながら怨霊になっている?

 京子は影に纏わりつかれている人たちから距離を取ろうとした。

 ここは満員電車の中。駅に着けば乗り降りで激しい流れができる。

 押し流されて、影とにらめっこをする羽目にはなりたくない。

 だが、その距離を取ろうとする動きが厄介な事態を引き起こす。

 影に気づかれてしまったのだ。

 数人先の男の肩に乗っていた影が、間にいる人を伝ってこちらにやって来る。

 胴が長く、太くて長い尻尾のついた獣のように見える。

――このままでは危ない。

 京子がそう思った時、天は彼女に味方した。

 その影がOL風の女の頭に飛び移った時、その女が倒れたのだ。

 その影は触るだけで精気を吸い取るのかもしれない。

 女が倒れると、周りにいた男たちが場所を作ろうとした。

 車内非常ボタンが押された。

 その動きで人の流れはあちこちで渦になる。

 この騒ぎのおかげで影は消えた。

 人々が居眠りから覚めて『あちら』方向の足場がなくなったのだ。

――こんなんじゃ、もう電車に乗れないよ。

 『あちら』方向に厚みができると、通勤電車は恐ろしい場所になり得るのだ。


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