虫(1)
その夜、京子は寝付けなかった。うとうとすると虫の羽音が聴こえる。それもかなり大きな羽音だ。まるであの写真の虫が部屋の中にいるように感じられる。
――また妄想で変なものを生み出してしまう。
そう考えると余計眠れなくなった。
丑三つ時を過ぎた頃、京子はようやく浅い眠りについた。
その部屋の『あちら』方向に少しずれた領域に、あの虫はいた。京子が眠りにつくと、京子の『あちら』方向の厚みが増す。もう守屋の言う薄っぺらい状態ではない。虫にとっては、突然目の前に餌が現れた、という状態になった。
目が覚めるや否や、京子は自分の身体の異変に気づいた。身体のあちこちが痛痒い。特に臍のあたりに違和感がある。そして、身体が熱っぽい。
服を脱ぎ、姿見に身体を映してみると、身体のあちこちに痣があった。直径1センチ程度の痣で、全ての痣が約3センチ間隔で二つずつ並んでいる。そして、臍の下あたりには大きな腫れ物ができていた。
京子はあの虫が原因だと直感した。
守屋は画面から出て来ると言っていた。
自分には見えないが、この部屋にまだいるのかもしれない。
幸い今日は土曜日。
まだ朝早いが、急いで守屋のところに行こう、と京子は思った。
例の橋の下に行くと、なぜか守屋が待っていた。やはり、自分の念が飛んだのだろうか、と京子は思った。
「早うこっち来い。馬鹿もんが」
「あのファイルを復活させたら……」
「わかっとる。早うせい」
守屋は京子の手を引くと、そのまま橋の基部に入っていった。
そこには部屋があった。手作りと思しき白木のままの家具が並び、床にはカーペットが敷かれている。部屋の隅には畳んだ布団が積み上げられていた。
机の上にはモニターが三台並び、机の下にはミドルタワーのデスクトップPCが置かれている。
「脱げ」
「はい」
京子は言われるままに全裸になった。初めて守屋に会った時、京子はすでに全裸を見られている。それも、自分の妄想に犯されそうになるという、かなり恥ずかしいところを見られている。今さら隠すことは何もない。
小さ子たちが物陰から全裸になった京子を盗み見ている。
守屋は身振りで彼らに去るよう促す。
小さ子たちはしぶしぶ姿を消した。
「いかん。卵を産み付けられとるぞ」
守屋の目には、『あちら』方向に少しずれた場所に突起がいくつか浮かんでいるように見えていた。
いまの京子は薄く平べったい。
厚みがある状態から、腫瘍部分を残して平べったくなった。
それゆえ『あちら』側に突起だけを残す見た目になっているのだ。
「どうなるんですか」
「あんたの子宮の中で成長して腹を食い破って出て来る」
「退治できるんですか?」
「できる。うまいことに腫瘍は『あちら』側に出っ張っとる。狭間で切りゃええ。だが、傷は残るぞ。まあ、この地のもんには見えんかもしれんが」
守屋はそう言って準備をはじめた。
『高天原に神留り坐す皇神等の鋳顕し給ふ。十種瑞宝を以て天照国照彦天火明櫛玉饒速日命に授け給ふ事誨へて曰く、汝此瑞宝を以ちて中津国に天降り蒼生を鎮納めよ。蒼生及万物の病疾の事あらば神宝を以て御倉板に鎮置て魂魄鎮祭を為て、瑞宝を布留部、其の神祝の詞に曰く――』
守屋は祝詞を上げながら切除作業を行う。
腫瘍は『こちら』にはない。
だから、ときおり守屋の手が透き通る。
そして腫瘍が切り取られる。
虫の毒で患部付近は麻痺している。
都合の良いことに。
守屋は腫瘍を切除し、切り口に薬草を擦り込む。
祝詞を読みながらこの作業を何度も繰り返す。
――布留部由良と由良加之奉る事の由縁を以て平けく聞食せと命長遠子孫繁栄と常磐に堅磐に護り給ひ幸ひ給ひ加持奉る。
神通神妙神力加持』
祝詞が止んだ。
京子は自分の身体に何をされたかさえ理解していない。
気づくと作業は終わっていた。
「すまんかったの」
しばらくして、守屋は京子に謝った。
「どうして謝るんですか?」
「この地の人たちは薄っぺらいんで、あの虫は食いつけんと思っとったんだ。『あちら』方向に厚みがないと、あの虫の牙が届かんからの」
「眠ると厚みが出るのかも?うとうとしたら羽音が聞こえていたし……」
「そうみたいだの。それに、あんたはわしに出会って影響を受けた。これまで気がつかんかった方向に世界が伸びておることを知ってまった。その分余計に厚みが出て、卵を産み付けやすくなっとったんだろうな」
「じゃあ、知ってしまったんだから、『あちら』方向のことを理解して、変なことが起きないようにしないとだめですよね?」
「ほうだの」
「私にも守屋さんが見えている世界が見えるようになります?」
「あんたは先祖の神の血を濃う引いとる。素養がある。見れるようになるし、行けるようにもなろう」
「そうですか」
京子は新しく知る世界に興味を持った。しかし、気味の悪い生き物がいつもまわりにいるような生活に耐えられる自信はない。だが、その新しい世界には守屋がいる。京子には守屋を求める気持ちが芽生え、京子はそれを自覚している。だが、問題は守屋には妻子がいること。京子はそのことを知りたいと思った。
「守屋さんは、よく『この地』って言うけど、どこから来たんです?パラレルワールドとか?」
「そんな感じかの。世界は強い念で変質する。変質する範囲は念次第だ。大勢の念を揃えられればものすごいことができる。世界には、そんな風にできた大小の変質した領域が瘡蓋のようにあっちこっちにある。大きな瘡蓋のあるところは、パラレルワールドみたいになっとる。わしの場合は、瘡蓋が複雑に重なった所で地震に揺られて、全然知らん土地に飛ばされたってとこかの」
「戻れないの?」
「帰り路がようわからん」
「そう」
京子は、守屋が帰る方法を見つけるまでは、自分にもチャンスがあると考えた。だが、束縛する気はない。彼が帰る時が来たら、笑って送り出してやればいい。京子はそう自分に言い聞かせた。
一方、守屋の方は、京子の念から彼女の思いを読み取り、どうすべきか思案していた。
守屋はこれまで妻だけを愛し、浮気など考えたこともなかった。
だが――
守屋はかなり頑固で真面目な男であったので、こういった事態をどう扱えばいいか全くわからなかった。
――しばらくの間、流されてみるか。
それが守屋の結論だった。




