とある出会い(1)
その女は夜の河川敷を走っていた。
三十代も後半になると、油断した途端に体形が崩れる。
だが、いまの彼女は仕事で責任のあるポジションを任され、自分の身体を管理する余裕がなくなりつつある。生活は乱れがち。だから、今月からジョギングを始めたのだ。
十年ほど前まで、この河川敷にはホームレスの小屋が散在していた。不良少年たちが小屋に火をつける事件も起きた。かつて、ここは普通の人々が寄り付かない領域だったのだ。その記憶から、十年経ったいまでも夜になるとこのあたりから人の気配は消える。
女はこの地に住むようになって間がない。かつての姿を知らない女にとって、ここはジョギングにちょうど良い場所でしかない。しかし、不審者に対する注意喚起の看板が多いことから、ひょっとして、ここは治安が悪いのではないか、という疑念を持ち始めている。それでも女はジョギングを続けた。女には護身術の心得があり、自分の強さには自信があったから。
旧国道の下に差し掛かった時、その女は、あの橋の下に不審者がいて、それが自分を襲う情景を想像した。だが、女はそんな自分に苦笑し、想像するのをやめた。
女が橋の下に入ると同時に、土手に埋設された橋の基部から影が湧く。その影には、毛深い男の胴体と毛深い手が生えている。
女は、その影を見ると同時に、それが自分の妄想に由来する物であることを直感した。毛深さなどが想像通りであり、想像するのをやめた部分が影になっていたからだ。
しかし、由来がわかったとしても、それで安心できるわけではない。
自分を襲うところも想像してしまった以上は。
女は叫び声を上げたかった。
だが、他人に自分の妄想を見られるわけにはいかない。
そう思ってしまった。
それを見られれば、自分が求めているものを知られてしまう。
女はそんな風に考えてしまった。
自分の欲望を知られることは、化け物に襲われるのと同等の恐怖。
だから、女には助けを呼ぶことができなかった。
女が言わなければ、それが彼女の妄想だとわかるはずがない。だから、助けを呼べばいいのだ。だが、パニックになった女は、冷静に物事を考えることができなくなっていた。
その影は女の着ていたTシャツに手を伸ばすと、それを紙のように引き裂いた。現実には、Tシャツを引っ張っても伸びるだけで破けはしない。だが、その影は、女の愛読するBL漫画のように、着ているTシャツを簡単に破いた。女がそう想像したから。
影は女の着ている物を順に引き裂く。
女は抵抗する間もなく、ランニングシューズを残して全裸に剝かれた。
つづいて――
その影が唐突に消えた。
女は自分の傍らに男が立っていることに気づいた。その男は、頭を短く刈り、紺色の作務衣を着ている。見るからに坊主という感じだ。
「人んちの前で何をやっとるんじゃ。ちっとは慎みを持て」
女は襲われたのだと言いたかったが、同時にあれが自分の妄想から生まれたことを理解しており、男に言い返すことができなかった。
「ちょっと待っとれ。何か着るもんを持って来たる」
男はそう言うと背を向けた。
男の姿はぼやけはじめ、向こうが透けて見えるようになった。その状態のまま、男は橋の基部の中に入って消えた。
それは怪奇現象であったが、影に襲われたことで女の感覚は麻痺している。
何も考えられなくなっていた。
女は突然我に返り、自分が丸裸なのに気づいた。
裂けた衣類で身体を隠そうと試みるが――
「ほれ、これを着ろ」
気づくと、傍らに男がいて、衣類が差し出されていた。
「すいません」
女は蚊の鳴くような声でそう言い、男がくれた衣類を身につけた。得体のしれない相手ではあったが、この際、そんなことは気にしていられない。この服を着なければ、裸で帰るほかないのだ。
女が服を着ている間、男は後ろを向いていた。その行為は女を安心させた。
男に渡されたのは白い無地のTシャツと男物のトランクス。そして、男物の短パンだった。
「あの、ありがとうございました」
女は男の背中に向かって声をかけた。
「おう、じゃあな。気をつけて帰れ。もう、自分の念に飲まれんようにしろよ」
男はそう言って、そのまま歩み去ろうとした。
男は『念』と言った。
あの影のことを間違いなく理解している。
影を消したのも男の能力によるのかもしれない。
女は男を引き留めなければならないと思った。
だが、そう思ったとき、すでに男の姿は消えていた。
さきほど体験したことは、本当にあったのだろうか。
男がくれた服を着ていなければ、女は自分の正気を疑っていただろう。




