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混沌に浮かぶ泡  作者: 藤原時照


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怨念

「トーラーちゃん。」

 美也子はトラの気を引こうとしていた。しかし、トラは真志の膝の上から離れようとしない。真志はソファに座ったまま、頭をのけ反らせて眠っていた。

 美也子は意地になりかけている。

「どうしてお父さんだけに懐くの?」

 美也子は床に座り、真志の膝に顎を乗せた。美也子の目の前にはトラの身体がある。

 トラは家に来てから短期間ですっかり変わっていた。

 身体が急に大きくなったように見えるし、言葉を理解しているようにも思える。

 もう立派な化け猫だ。

 美也子がそんなことを考えていたら――

 トラが急に動き、「フーっ」と威嚇した。

 美也子は顔を引っかかれるのではないかと思い、あわてて跳び退った。しかし、トラが見ているのはベランダの方。美也子ではない。

「びっくりしたぁ。トラちゃん急にどうしたの?」

 美也子がトラの睨んでいる方角を見ると、そこには黒い影が浮かんでいた。

「お父さん……」

 居眠りから覚めた真志は、美也子の視線をたどってその黒い影を見た。

 由美もリビングに入って来て、その黒い影を見た。

「井田さん?」

 由美の目にはその影が知り合いに見えた。


――ああいやだ。

 井田千賀子は地域猫の避妊/去勢のために駆り出されていた。主だったメンバーが抜け、リーダー役を押し付けられたのだ。

――ペットOKのマンションなんかに決めるんじゃなかった。

 夫の昇進を機に、井田家は分譲マンションを購入した。だが、それが不幸の始まりだった。

 左隣は小型犬を飼っている。躾が悪く、四六時中キャンキャンとうるさい。おまけに、通路でマーキングをする。管理人から苦情を言ってもらっても改めようとはしない。

 左隣がずっと放置され、このマンションでは犬が騒いでも問題ないと考えたのか、最近では上の部屋でも犬を飼い出した。上の犬は、左隣に輪をかけてうるさい。いまは、左が静かな時は上が、という具合で、もうノイローゼになりそうだ。

 そんなとき、このマンションの主婦の間でボスのように振る舞っている砂川から、地域猫のケアを押し付けられた。

「――というわけで、猫ちゃんたちを放っておくと、病気になる恐れがありますので――」

 獣医の松浦が避妊/去勢の必要性を説明している。

 だったら無償でやれよ。

 なんでこっちだけタダ働きなんだ。

 そう言ってやりたい。

 井田は引越し直後から主婦の会への参加を強制され、毎月会費を徴収されている。その会費は菓子代を大幅に超えていると思うのだが、砂川は使い道を公表しない。周りの主婦が何も言わないので、井田も口出しできずにいる。

 今回の避妊/去勢はその会費から賄われるのか、と思ったが、別途徴収されるようだ。訴えるべきなのだろうか、と井田は思い始めている。

 そもそも、井田はペットを飼うことに忌避感を抱いているし、避妊/去勢などには絶対反対だ。自分の身に置き換えてみればいい、と井田は考えている。

 ママ友の河合によると、獣医の松浦は風俗通いをしているという。おまけに、砂川とホテルを出るところまで目撃されている。会費はその辺に消えているとの噂だ。

 

――避妊/去勢をしないと病気になる?

  だったら、オマエも去勢しろよ。

  最近は風俗で梅毒とかエイズとか増加傾向なんでしょ?

  ああ、そうそう、去勢する前に砂川さんにうつしておけよ。


 心の中で、そんなことを考える。

 井田はそんな風に毒を吐きたい。

 だが、そんなことができる性格ではなく、その毒は体内に蓄積されていく。

 河合についても許せない。

 河合は自分の飼い猫の去勢手術前後の表情をSNSに上げていた。

 猫の表情は悲しげであったが、河合はそれを笑いものにしていた。

――世の中クズばかりだ。

 井田の中には怨念が溜まっていく。

 それは周囲から良くないものを引き寄せ、大きくなっていく。

――そもそも、あいつらが抜けるから私がこんな目に遭うんだ。

 彼女の怨念は、結城由美や田中良枝にも向かう。


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