祟りあるいは……
獣医が最初の猫の去勢手術を始めたとき、田中修二は学校の教室で居眠りをしていた。いまはお盆。普通なら、日本全国ほとんどの学校は休みになっているはずだ。しかし、教頭の発案で、お盆の間だけの特別講習を行うことになった。なんでも、お盆の間は学習塾が休みになるので配慮が必要だ、ということらしい。父兄にとっては良い話かもしれないが、生徒や教師にとっては迷惑このうえない。修二もやる気がなく、講習の間はずっと居眠りをしていた。そして、いま、夢の中で猫の去勢手術の様子を見ている。天井に浮いた状態で。
手術台には白い猫が仰向けに寝かされ、水色のカバーの開口部から剃毛した下腹部が見えている。気づくと、修二はその猫に重なっていた。猫の命の流れ――はるかかなたに向かって流れる川のような命の流れ――を感じる。人が認識する『猫』という生き物は、永遠に生きる何かの一部で、子孫を残すことで命をつなぎ、その流れに乗ってまた再生する。いまの修二にはそれが理解できた。
猫の命は九つある。
死んだ猫と同じ仕草をする猫が現れる。
ちまたでそんな風に言われる背景を修二は感じている。
その猫に自分が重なっている。修二はそれを理解している。そして、修二は、自分自身も命の流れにつながっていることに気づいた。流れの上流は見渡せないほど遠くにあり、下流はあやふやな流れになっている。
白い猫の精巣が切り取られるとき、その猫の命の流れが切断された。流れが切断されなければ、その猫は、死んだとしても自分の流れに乗ってすぐにこの世界に戻って来ただろう。だが、いま、その未来は失われてしまった。上流に遡って別の流れにのることはできるだろうが、それはずっと先の話。おまけに、地域猫活動によって、別の流れもつぎつぎに消えていく。もう完全に命の流れが絶たれた可能性もある。
彼は後ろめたさを覚え、猫を哀れに思った。その思いは彼を猫と同化させて――
修二は自分が命の流れから切り離されたことを感じた。修二の身体はその白い猫とつながっており、彼の精巣もなくなった。
「田中、この問題解いてみろ」
教師は修二が居眠りしているのを見つけ、意地悪く彼を当てた。
無理に講習を押し付けられて休みの計画を潰されたうえ、講習のための教材を自宅で作って来なくてはならなかった。少しくらい八つ当たりしても許されるべきだ、と彼は思っている。
「田中、起きろ」
そのとき、修二の隣の席の女子が悲鳴を上げた。
「どうした?」
「血が……」
修二の足元には血の池が広がっていた。
教室に悲鳴が溢れた。
その日、二匹の去勢と三匹の避妊が行われた。そして、五人の男女が出血多量で死亡した。遺体を解剖した結果、男は精巣、女は卵巣と子宮が切り取られていることがわかった。
切り取られた部位は、猫の手術が行われた動物病院で発見された。一旦、その病院を経営する松浦という獣医が逮捕されたが、どの事件に関しても、その獣医が被害者を手術することが不可能であることは明らか。獣医はすぐに釈放された。
現在はネット社会であり、情報はすぐに拡散する。この事件もすぐに報道され、猫の祟りと言われるようになった。そして、猫の去勢や避妊は忌避されるようになる。しかし、その情報が十分に広がる前に多くの手術が行われ、大勢の男女が命を落とした。その被害は特定の地域に限定されていたが、原因は特定されずに終わった。
今回の事件は明らかに超常現象だ。しかし、騒ぎは大きくならなかった。一か月後、ほとんど誰もがその事件を忘れてしまっていた。話そうとしても、次の瞬間、自分が何を話そうとしていたのか忘れてしまうのだ。間違いなく何らかの存在が人々の記憶に介入していた。
こうして、一部の者を除いて、この怪事件のことを忘れてしまった。憶えていたのは、この事件の捜査を担当する警察官と被害者の親族だけ。そして、彼らにとっても、その事件は遠い昔の出来事のように感じられていた。
その日、田中家では葬儀が行われていた。それは不思議な葬儀であった。参列者は一様にぼーっとしており、簡単な挨拶以外で口を開くものはいない。誰もが修二の死因を知っていたはずだが、誰もそのことについて語らない。
葬儀は静かに終わり、火葬場に移動した。
気がつくと、良枝は修二の遺骨の入った骨壺を抱いていた。
火葬の過程については何も憶えていない。
何もかもが非現実的だった。




